昨日、文科省が「総理のご意向」「官邸の最高レベルが言っている」などと記されたいわゆる加計文書について再調査することを表明した。朝日新聞のスクープ、それに続く前川前文科省事務次官の証言、さらに文科省内からの匿名の告発を受けてすら、カエルのツラにションベンそのままに菅官房長官はシラを切ってきたのだが、ここにきてついに与論の怒りに抗しきれなくなったということだろう。

 その再調査の手法も期間も明らかでなく、これまでの安倍政権の行状から見て公正な調査が行われるとは到底思えないが、ともあれ舞台は第二幕に移った。これからはこの調査ついての報道が増えるだろうが、しかし問題の焦点はあくまで安倍らによる国家行政の私物化にある。安倍晋三記念小学校をめぐる疑惑も未解明だし、安倍ヨイショ本を書く売文屋がそれゆえにというべきか、準強姦罪で逮捕状が出ていたにも関わらず執行されず放免されたという放置国家にありえない無法の背景も解明されなければならない。

 お隣の韓国では国政を私した大統領を民衆が巨大なデモのうねりで権力の座から引きずり下ろした。サッカーでも市民運動でも韓国の民衆の血は熱いのだ。隣接する大国に対し民族の自立を維持するため突っ張ってきた歴史か、それとも毎日摂取する大量の唐辛子のせいなのか、不公正に対する激しい怒りの背景に何があるのかは知る由もないが、これに比する日本のメディアや民衆の静けさというか大人しさは、まあ行儀が良いとは言えるかもしれないが民主主義の担い手としてはいささか心もとない。なぜ腹の底から怒らないのか。

 このあたりは、「POST TRUTH」でまた書くとして、とりあえずは「紀峰の仲間」に連載中のコラム「植物百話」の最新号を以下に転載。今回のテーマはマツです。




  植物百話

        マツのストレス耐性戦略


 重いザックを背に黙々と登り続けてようやく尾根に出る。ホッと息をつき汗をぬぐいふと気付くと周りは明るい松林。登山者なら誰でも経験したことがある情景です。日頃からなじみ深いマツですが、植林地を除けば山麓の暗い樹林帯にはほとんどなく目にするのはもっぱら明るい尾根に出てからです。また、日本の林業では昔から「尾根マツ谷スギ中ヒノキ」といって、マツは尾根に植えるものとされてきました。どうしてなのでしょう。

 「適地適作」といいますが、植物にはそれぞれ生育の適地があります。で、マツの場合は尾根が適地、か?というと、そう単純な話ではありません。マツは本来、よほどの湿地でなければ中腹でも谷でも良く育つのです。現に東北でよく見かけるアカマツの植林地は結構山裾まで広がっています。しかし自然状態では、他の多くの樹種にも適地である中腹以下は生存競争が厳しいため競争力に乏しいマツは撤退、やむを得ず生育条件の悪さから他の樹種が見向きもしない尾根や岩場などに張り付いて生き延びているのが実情なのです。

 マツが生育する尾根や岩場は、植物に不可欠な水が不足するうえ季節風に晒されて乾燥しやすく、また土壌中の養分が雨水とともに下部に流出して栄養条件も良くないなど、植物の生育に不利な条件が揃っています。しかしそれゆえ競争相手も少ないことから、あえてこうした悪条件の地に根を張ることで厳しい生存競争を生き延びてきたマツのような植物もあり、こうした生き方を専門用語で「ストレス耐性戦略」と呼びます。

 では、マツは前述のような植物生育上の悪条件=ストレスをどのようにして克服しているのでしょうか。実は、多くの菌類の助けを借りているのです。

 太古、植物が陸に進出するには菌類の助けがあったとされ、現在も多くの植物は根に菌類を住まわせて光合成産物を与える一方、菌類が土壌中に広く張り巡らせた菌糸で集めるリンなどの養分や水分の供給を受けています。マツの祖先を含む裸子植物が地上に出現したのは3億6千万年前で、現世界の主役である広葉樹など被子植物が出現する1億4千万年前より遥かに古く、この長い時間にマツは広葉樹などに比べはるかに多くの菌類と共生関係を取り結んできました。というか、マツと菌類は共に進化し分化して今日のように多様な共生ネットワークを築き上げたのです。キノコは菌類の花に相当する器官ですが、松茸や松露(ショウロ)などマツのみに付くキノコの多さからもそれが知れるでしょう。

 マツはこのようないわば「菌友(きんとも)」の多さを武器に他の樹木は生きられない荒地で生き延びてきました。それは山だけでなく海岸も同じです。「白砂青松(はくさせいしょう)」は日本的絶景の代名詞で、これは海岸の砂地や岩礁にクロマツがしぶとく根を張ればこそ成立した景観ですが、人手が入らなければ維持できないことはご存じでしょうか。現在、白砂青松を賞される美しい海岸の松林の大半は人工林なのです。

 人手が入る前、本州以南の暖帯地の海外線はタブノキやスダジイなどを主力とする照葉樹林に覆われていました。そこへ人が進出し、建材や生活具材や燃料としてこれらの木々を伐採利用し尽くした結果、土壌の生産力が枯渇し、不毛となった荒地でも生きられるクロマツが進入、また一方では防風林や防砂林として植樹するにもクロマツ以外の選択肢はなくなってしまったため、現在に至る白砂青松の景観が人工的にも造成されたのです。

 荒地に根付いたマツは「菌友」の助けと光合成で伸び育ち、葉や枝を落としやがて命尽きて土に帰ってゆきます。それが繰り返されると土壌の豊かさが徐々に回復して他の樹種が侵入、やがて競争力のないマツは衰退し消えてゆくのが自然の遷移システムです。

 今は流行らないでしょうが、結婚前の結納という儀式では新婦側からの結納返しの品のひとつに「高砂」というものがありました。熊手を持ったお爺さんと箒を持つお婆さん二体セットの人形で、お爺さんは尉(じょう)お婆さんは姥(うば)といい「おまえ百(掃く)までわしゃ九十九まで(くまで)」と夫婦の円満長寿を祈念する寓意が込められています。が、夫婦仲はこの際どうでもよくていま問題はこの二人が何をしているのか。実は二人は播磨の高砂浜の松林で熊手と箒を使い、燃料にする松葉や枯れ枝をかき集めているのです。

 かつて、油分が多いマツは庶民の家庭の燃料として貴重でした。当時の庶民に白砂青松を愛でる余裕や審美眼があったかわかりませんが、尉や姥のような人々が生活のためクロマツの幹から葉に至るまでをせっせと運び出し続けた結果、松林の土壌の生産力は回復せず他の樹種の進入が防がれて、意図せず白砂青松の景観も維持されてきたわけです。

 逆の例も紹介しましょう。明治維新の主役の一人大久保利通は東京遷都後の京都を訪れた際、平安時代からの景勝地であった嵐山の荒廃に驚き、その理由を尋ねて地元民から「ご一新のせいだ」と言われて恥じ入ります。幕府の京都守護職は嵐山の歴史的景観維持のために山守を雇う金を出していたのに、維新政府はそれを打ち切っていました。反省した大久保が金も出して嵐山の保護に努めた結果、現在の嵐山の景観が形成されたといいます。

 と、嵐山関連サイトではこの話がよく紹介されているのですが、実際にはそう単純な復活美談ではなかったのでは? というのは、大久保が守ろうとした歴史的景観は端正に整美されたアカマツ林だったと思われるからです。京都周辺の山林は平安朝以降長らく都であった京の膨大な木材需要でことごとく皆伐され禿山となっています。保津川を経由する丹波材の大集散地であった嵐山が例外であったはずはありません。そして禿山には荒地の主役アカマツが生え、庶民が枝や松葉を採取し続けることでそれが維持されていたのでしょう。しかし大久保らは嵐山の景観を守るため庶民が山に入ることを固く禁じました。その結果、皮肉なことにアカマツ林は壊滅、これに代わって落葉広葉樹が進出して現在に見るような紅葉の名所になってしまったわけです。ま、「結果オーライ」というべきかもですが。

 マツについても共生する菌類についてもまだ書きたいことが沢山ありますが、紙幅も尽きましたので今回はここまで。今回は、広葉樹ら進化した若く強いライバルたちの出現と猛攻撃に対し、旧世代のマツが菌類との支え合いを頼りに生き延び、絶滅を免れて今ここにある不思議を、少しでも感じてもらえたらと思います。




スポンサーサイト
  また長らく更新できずに時間が過ぎてしまいました。この間、初めて出品した展覧会があり、それに忙殺されたうえに体調を崩してしばらくダウン、さらに自分の病気の原因が住居にあるのではないかとの疑いが強まったことから、医師とも相談のうえ、急きょ転居することになってバタバタしてしまいました。

  自分の病気は特発性間質性肺炎の一種であるNSIP(=特発性非特異性間質性肺炎)である可能性と、過敏性肺炎である可能性があり、いまだ病名も定かにはわからない状態なのですが、入院すると体調が良くなり帰宅すると悪化することから、幸い現在居住中の自宅とは別に以前住んでいて今は空家になっている持ち家もあることから、ダメ元でそちらに移動することになったものです。現住居とその家とは直線距離で100mほどですから、移動自体は容易です。とはいえ、一時的にせよ住むとなれば最低限の電気器具や家具もいりますし、家自体に手も入れなければなりません。ということで、知らず知らずのうちに時間が経過してしまいました。

 が、これだけ間延びすると、西郷隆盛の続きもちょっと白けてしまったなあ。(~_~;) 
 ま、これはこれでいずれなんとか決着をつけるとして、とりあえずは紀峰山の会の機関誌に連載している巻末コラムを以下に転載します。今回のテーマはクスノキ。今はちょうどクスノキの新緑が鮮やかに美しい季節ですね。


 植物百話

クスノキの話

 嬉しいことに、県連ニュースに転載したこのコラムにハガキで感想が寄せられ、加えて「次はクスノキ」について書いて欲しいとのリクエストがありました。そこで、今回はこのリクエストにお応えしようと思います。

 たしかにクスノキは私たち紀州人には馴染み深い樹木です。神社仏閣や学校、街路樹にもふんだんに植えられていますから、一歩外に出ればこの木に出会わずに過すことはないほどです。新宮出身の詩人佐藤春夫も望郷五月歌のなかで、「海(わだ)の原見廻かさんと、のぼりゆく山邊(やまべ)の道は杉檜樟の芽吹きの花よりもいみじく匂ひ」と、杉や檜と並べて樟(クスノキ)の新芽が花より強く香る「空青し山青し海青し」紀州五月の情景を見事に歌い上げています。このクスノキの匂いの成分が樟脳で防虫効果があることが知られ、また鎮痛剤としても利用されました。クスノキの名はこの匂いから「臭(くす)し木」と呼ばれたこと、あるいは「薬の木」と呼ばれたことが語源と言われています。

 と、ことほどさように慣れ親しんでいるクスノキなのですが、実は外来種だってことはご存知でしょうか。クスノキの元の自生地は台湾やベトナムなどの暖地で、日本列島にはそこから人為的に持ち込まれたものと思われます。といっても入ってきたのは有史以前のこと(専門用語では「史前帰化植物」といいます)ですから、お米同様すっかり馴染んで久しいのも頷けますが、寒がりのクスノキにとり日本の気候はやや厳しいようで、それこそ前述の宗教施設をはじめ、人の助けが得られる所や里山では育つものの、暖かい紀州や九州ですら奥深い山中に自生している例はまずありません。ですから天然照葉樹林の代表的樹種とはいえず、どちらかというと人とともに暮らす園芸樹のような趣すらあります。

160927 NHK中級3 (2)サイズ

 では、有史以前から今日に至るまで、人々はなぜこのクスノキを好み列島に広げていったのでしょう。ひとつの有力な回答はその巨大さです。クスノキは日本で生育する樹木のうち最も大きく育つもののひとつで、日本の巨樹ベストテンのうち9本までをクスノキが占めています。なかでも日本の全樹木の頂点に立つ巨樹は鹿児島県姶良郡蒲生町の八幡神社にある「蒲生(かもう)の大クス」で、胸高樹周24m(根周40m)、樹高30m、推定樹齢1500年。幹の下部は朽ち八畳間大の空洞があります。「となりのトトロ」のねぐらはきっとこんな所だったのでしょうね。その巨大さを知るよすがとして、不肖ワタクシが実物を現場で写生した絵(F6号)を上に掲載しておきます。

 一方、和歌山県最大の樹木もかつらぎ町笠田東の妙楽寺にある樹周13.4mのクスノキで、「十五村(じごせ)の森」と呼ばれています。国道24号線で通過する笠田小学校の真裏(北)にありますので、機会があればぜひ立ち寄ってみてください。ちなみにこの木は近畿地方全体でもナンバーワンの巨樹、全国では43位にランキングされています。

 発掘された古代の丸木舟の遺物からは、その素材がクスノキであったことがわかっています。樹木を板に加工しさらに貼り合わすような技術が未発達の時代、丸木舟の大きさは原料木の太さに全面的に負っていたわけで巨大なクスノキは貴重だったことでしょう。古事記では、この列島に樹木を植え広げたスサノオノミコトが人々に向かい、「浮く宝にするクスも大量に植えたぞ」と語っています。この「浮く宝」とは船を指しますが、もしかしたら南洋からクスノキの丸木舟で渡ってきた海の民が、子孫が船を造るのに困らないようにとクスノキをこの列島に植えたことを神話の形で伝承しているのかもしれません。

 クスノキは常緑樹ですが、葉の寿命は1年しかなく春に新葉が開き始めると前年の葉は一斉に落葉します。秋に葉を落とす落葉樹とは異なり冬を越しはしますが、一斉に葉が世代交代するという意味では落葉樹に近い面もあるわけで、麦が実る初夏を「麦秋」と呼ぶことがあるなら、「楠秋」というのもあっても良いような・・ さて、そのクスノキの葉は主脈とその根元から両側に伸びる側脈が明瞭で、これを「三行脈」と呼びクスノキ科の樹木を見分ける際の拠り所としているのですが、よく見るとこの三行脈の分かれ目などに小さな膨らみがあります。これを「ダニ部屋」(またはダニ室)と呼び実際ダニが住んでいます。

 ダニ部屋はダニが勝手に住み着いてできるのではなく、クスノキが作ってダニを住まわせているのですが、なぜこんなことをするのでしょう? これについては定説がありません。そこでまず一説、ダニ部屋に住むダニは植物食のダニが多いのですが、これがだんだん増えてダニ部屋の外に溢れ出すと、肉食のダニがこれを捕食しようと現れ、ついでにクスノキを害する他のダニも駆除してくれる。つまり、肉食のダニを呼び寄せて利用するため撒き餌のダニを飼っているという説です。もう一説は一網打尽論というか、有害な植物食のダニをダニ部屋に集めておき、秋には部屋の出入り口を閉ざしやがて一斉に落葉させることで、被害を最小限に抑えているという説です。多くの研究者がこのダニ部屋の秘密に挑んでいるのですが、こんなに身近な植物でもまだわからないことだらけ。さて、クスノキは巨体の葉を柔らかな風に揺すらせながら、いったい何を考えているのでしょうか。




 昨日4日夜、韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦像が設置されたことへの対抗措置として、安倍内閣が一時帰国させていた長嶺駐韓国大使が約3か月ぶりに帰任した。もう重ね重ねだが、安倍内閣の無能ぶりというかガキぶりにはつくづく呆れ果てる。韓国側に問題がないとは言わない。だが何があったにせよ、大使を召喚するなどという、外交関係を長期に損ないかねないリスクの高い手法に訴えるのであれば、当然のことながら事態収拾への見通しや、そのための外交折衝などの目算が立っていなければならない。

 だが、この安倍晋三ボンボンとそのイエスマンだけで構成されたガキ内閣に、そんな見通しなどあったようには思えない。単に頭に血が上って、腹立ち紛れに考えられる限りで最大の強硬措置を取っただけだ。で、思うのだが、日本がこんな強硬な態度を示せば、韓国の官民は水戸黄門の印籠を見せられたごとく恐れ入って平伏するとでも思っていたのだろうか。結果は、韓国側は朴大統領の罷免をめぐる大騒ぎもあってそれどころでなく、まあ日本の駐韓国大使などいてもいなくても関係ないという身も蓋もない外交実態が明らかになっただけ。で、振り上げた拳のやり場に困り、何の成果もなくしれっと大使を戻したというのが昨日の措置だ。

 冷静な情勢分析もそれに基づく理詰めの戦略や戦術もなく、まして最悪の状況を想定しての事態収拾への考慮もなく、ただ怒りに任せて行動する。それは頭の悪さと自信のなさの表れにほかならないが、それこそが安倍晋三の実像だ。森友学園問題でそれまで拒んでいた民間人の国会への参考人招致を、鴨池氏が安倍サイドからの寄付を口にしたとたん激昂して参考人どころか証人に格上げて国会に招致したものの、その証人喚問では籠池氏を呼んで何を質すかの作戦すらなかったことが明らかになった。この策もなく激昂して行動する無能ぶり、暴支膺懲(ぼうしようちょう)といい鬼畜米英を叫んで開戦し、この国を破滅させた歴史を彷彿とさせるものがある。A級戦犯の祖父から受け継いだDNAというべきか。

 さて、歴史の話題が出たところで、久しぶりに明治維新の話の続きだ。明治維新政府は日本の資本主義化を上から急速に進める政策を推し進めていたが、その煽りで特権を失った氏族層や地租改正による「日本型原始的蓄積」により窮乏化する農村では不満が鬱積、さらにこれを顧みない政府官僚の腐敗が負け組の怨念を増幅させていた。

 このとき維新最大の功臣であった西郷隆盛は政府を去ってすでに下野していた。西郷の下野について、日本史の教科書では「征韓論に破れ」というストーリーが必ず出てくるのだが、よく誤解されるように西郷が好戦的な韓国征伐を主張し、それに反対する勢力に敗れたというのではあたらない。深入りする余裕はないのだが、先進国による植民地支配が当たり前だった当時、西欧列強に追いつこうとしていた日本として、まず隣の朝鮮半島に食指を伸ばすべしというのは西郷を含め明治政府首脳部の共通認識であり、現に西郷が下野して直後の江華島事件で朝鮮半島進出への橋頭堡を確保している。西郷の主張は、日本からの開国の呼び掛けを断る韓国攘夷派に対し自ら使者として赴き説得することにあった。だがその主張は退けられ、ではもう自分には果たすべき役割はないと西郷は鹿児島に帰ってしまったのだった。

 だが、西郷の帰郷にはもとより予定の行動という意味もあった。西郷は薩摩藩から二度にわたり島流しの憂き目に遭っているが(ただし一度目は処分に見せて藩が幕府から西郷を匿った面もある)、奄美大島での農民としての暮らしは西郷の気に入ったようで、藩からの呼び出しを受けて江戸末期の動乱に加わるため島を出る際に、用が終わればそこに戻る旨を告げている。もともと農業農民への愛着は、藩の過酷な農政に異を唱えて辞職する気骨の上司に導かれ、郡方書役助という農政末端から藩士としての歩みを始めた西郷にとり、心中深く根付く思いだった。

 西郷は直接島に帰ることはなかったが鹿児島に戻って私塾を開く一方、自分自身は半分隠居したような生活を送る。その塾生たちが西南戦争では西郷の軍となるのだから、結果としては武装蜂起の準備をしていたと考えることも可能なのだが、当時の青年層の教育に軍事教練は当たり前の教程だったのだから、そのあたりの評価は微妙ではないかと思う。ただ西郷が中央の政官界と完全に縁を切っていたことは事実だ。一方、朝鮮出兵が遠のいたことで特技である武術を活かしての再就職の希望が絶たれた不平士族は各地で騒乱を起こし、また重税に反発する農民の蜂起もあって、まだ安定するに至らない維新政府の足元はおぼつかなくなってきていた。(続く)



 今日の絵は「法隆寺」。後藤純男氏の日本画の模写です。用紙はウオーターフォードF6

170322 法隆寺 (2)サイズ



  今朝4月1日の朝刊で、安倍内閣が公教育の教材としての教育勅語の使用を容認することを閣議決定した旨の記事に接した。一瞬、エイプリルフールではないかと思ったが事実らしい。さらに中学校で習わせる武道の選択肢として銃剣道を導入することも決定したという。銃剣道というのは近代の白兵戦で敵を殺すことに特化した殺人技術だ、剣道も元はといえば殺人の技術ではあるけれど、長い歴史を経て高度の精神性を確立しスポーツに脱皮して久しい。同列に論じることはできないだろう。道徳の教科書でパン屋がダメで和菓子屋に書き換えた教科書検定の経緯など、これが漫画でなければ狂気の沙汰としか思えない事態が続発している。この狂気を放置すれば、教育勅語を納める奉安殿が復活し銃剣道や軍事教練のために配属将校が赴任してくる日もそう遠くはないのではあるまいか。日本の教育全体の森友化というべきだが、その一方で、こうした狂気のような教育を推進する文科省の高級官僚たちは違法の天下りであぶく銭を掴むというのだから恐れ入る。こういう最低な人間たちがそろって国民に対して徳を垂れるのである。世も末というしかない。

 さて、那須岳山麓での高校生雪崩遭難事故については、その後の報道でもこれまで自分がここに書いたことで修正すべき点はない。ただ、引率教師のうちの責任者が「雪崩の危険はないと考えていた」「絶対安全と判断して行動した」などと発言するのを聞いて、これまで引率教師らに抱いていた同情は消えた。この人は本当の冬山を知らない。恐らく、厳しい冬山登山の経験もないのだろうと思う。それなりの冬山経験がある登山者なら、あの降雪であの斜面を前にして、雪崩のリスクを感じないということは考えられない。この人に冬山のリーダーの資格はない。そんな無知に導かれて、死地に追い込まれた高校生たちは哀れというほかない。

 ついでだが、このニュースを伝えるワイドショーで解説役として野口健が登場していた。以前から多少ずれたヤツだとは思っていたが、この解説で本格的な馬鹿とわかった。録画したわけではないので以下はやや正確性を欠くが、現場の映像を見て野口いわく、「こんなところに行くのは登頂を目指していたとしか考えられない」「調子がいいんで行っちゃおうかって感じになったんでしょう」。アホかである。遭難現場の標高は1270m、那須岳の最高峰茶臼岳は1915m、標高差は650mもあるのだ。これに対し、高校生たちが訓練で登ったのはせいぜい50mに過ぎない。なんでここから「登頂を目指している」なんて超推理がでてくるのか。

 唯一考えられる理由は、野口が映像で見える無木立の斜面のてっぺんを頂上と勘違いしていることだ。公共の電波を使って不特定多数の人々にニュースを伝えるのに、このプロ登山家なる御仁は地図も確認しないらしい。このブログでも書いたが、急斜面は標高差で120m続き、その上はいったん緩やかな斜面になる。だから、下からの仰角の映像では急斜面の終わりがあたかも頂上のように見えるのだ。野口も馬鹿だが、それを口を開けて「なるほどお」と追従するそろって間抜け顔のキャスターやゲストらはまあ素人だから仕方ないとして、番組を作っている側は無責任も甚だしいではないか。まあ、ワイドショーってのが何の取材もしなければ検証もしない、およそ「ニュース報道」などと呼ぶ価値のないヤクザな番組だってことを知ったことだけが収穫だった。

 明治維新の続きを書こうと思っていたのだけれど、前置きを書き始めたら、腹が立って腹が立って。あ、昨日からプロ野球が開幕。我が東北楽天イーグルスは延長の末、追いすがるオリックスをペゲーロの超特大2ランで突き放して勝利した。いいニュースってこれくらいだなあ。そうそうこれに関連してだが、侍ジャパンなんてこれまたいけ好かないネーミングで戦ったWBCに参加した投手たちは、いずれも各チームのエースだが誰ひとり開幕投手にはならなかった。もちろん疲れもあるだろうし、大リーグ球で投げていた感覚を修正するにも時間がかかるという。WBCはプロ選手にとり所詮は余技に過ぎない。その余技のせいで本業に万全な態勢で望めないというのはおかしい。これからもWBCに参加するというなら、公式戦の開幕を遅らせるなどの配慮が必要ではないか。

 ま、ともあれ今日はここまで。



 那須岳での高校生遭難事故について昨日の記事に補足。一日たって、この遭難についての追加情報がいくつか入ってきた。そのなかであらためてここで触れておきたいのは、雪崩が発生した地点、雪崩注意報、そしてビーコンという装備についての話題だ。

 まず雪崩の発生状況については、昨日、自分がまだ乏しかった遭難現場の情報と地理院地図から見立てたとおりであることが明らかになった。ただ、より詳しく報道されたところによれば、遭難現場は昨日自分が考えていた斜面より上で尾根上の平坦地だったようだ。地図を見ればわかるが、その平坦地はゲレンデに2本あるリフトのうち、南側のリフトの終点に接して南西方向(リフトを下部から見上げて左)にあたり、その西側には顕著ではないが1277.5mの小ピークがあって、これと東から走る那須岳(より正確には茶臼岳)からの斜面の鞍部になることから、平坦な地形を形作っている。

 昨日の遭難現場の映像は斜面だったが、リフトの終点から前述の平坦地へ向かうルートには傾斜はほぼないことから、ラッセル訓練はおそらくリフトの途中から南側の斜面にからんで取り付き、事故現場の平坦地まで登っていったものと思われる。

 さて、その平坦地だが、それは昨日指摘した急斜面の直下だ。もちろん正確に測ったわけではないが、地図上から読み取り限りでは昨日も書いたように明らかに40度以上の傾斜がある。そして、雪崩は一般的に傾斜30度から45度の斜面で起きる。30度以下では雪の自重(斜面との間の摩擦力)を上回るほどの滑落の力は通常発生しないため雪崩は起きにくいし、45度を超える斜面では雪は常に滑り落ちているため雪崩になるほど深く積もることができない。これは冬山に登る者にとっては一般教養レベルの常識だ。

 問題の斜面の斜度はまさに雪崩発生の条件を備えており、さらにこれも昨日指摘したことだが大きな樹木が見当たらず空に開けていて、過去に雪崩が発生した斜面であることを示唆もしている。この急傾斜は標高差で120m上まで続いており、そこから標高差100mほどはやや緩くなるがさらにその上には標高差で200mを超えるスケールでさらに急な斜面が続いている。自分がこの斜面にもし成木が生えていないことまで見てとったなら、少なくとも大量の降雪直後に近づくようなことは絶対になかったはずだ。報道によれば降雪が続いていて雪崩の発生地点を示す破断面は確認できなかったとのことだが、この斜面で起きたことはまず間違いないだろう。指導教員たち、わけても全体のリーダーを務めたベテランは、これだけリスクの多い斜面をどうして見逃したのか。厳しいようだが、油断というしかないと思う。

 次いで雪崩注意報の話題。マスコミは「警告が出ていたのにそれを無視して登った」との論調で、無謀な行為であったというストーリーを描こうとする。お上のお触れを絶対視するのはいつものことで、これは我がマスコミの悪弊で習性に近いものだ。しかし、あえて言わせてもらえば、雪崩「注意報」程度でやめていたら雪山に登れる機会など事実上ありはしない。登山者個人としての感覚で言わせてもらうが、「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」というか、お上はとにかく警告を出しておけばイザというときに言い訳ができるという感覚で、警報にならない程度のリスクであればと、とりあえず注意報を乱発するのではないか。

 雪崩注意報が出たときの登山者のあるべき行動様式は、さらに一層雪崩に警戒して登るべしに尽きる。これを「登るな」などと受け取るのは事なかれ主義の権威に拝跪し自主性を放棄した堕落であって、限りない自由をこそ求める登山行為への冒涜ではないか。ん~、とはいえ実のところ、最近はそんな素直で良い子の児童生徒のような登山者が増えている気もする。まあ、それはさておき、「注意報が出ていたのに無謀な」というプロトタイプ化したマスコミ報道には、その無知と体制迎合ぶりを嗤ってやればいいだけのことだ。

 最後にビーコンという装備についてだ。正確にはアバランチビーコンというのだが、これを60人を超えるような大パーティーが指導教員も含め一台も持っていなかったことが、けしからんといった調子で報道されている。

 ビーコンは簡単に言えば電波信号の携帯用受発信機だ。通常は発信モードにして雪山登山中は常時身につけている。雪崩が起きて埋まっても電波信号はずっと発信され続けているので、埋まらなかったメンバーは直ちにビーコンを受信モードに切り替え、埋設者のビーコンから発信される信号を頼りに埋設位置を特定し、そこを掘って救助するわけだ。もちろん、全員が埋まればビーコンがあろうがなかろうがお手上げだ。

 雪崩で埋まった遭難者の生死は救出までの時間に大きく依存する。埋設から15分以内に救出したときの生存率は90%を超えるが25分で50%に低下する。とにかく一刻を争って掘り出すほかに埋設者を救出する方法はない。つまり、雪崩遭難の埋設者救出にあっては救助隊など他の支援は当てにできない、現場にいる人間がすぐに掘り出さなければ助からないということだ。とはいっても雪原のどこを掘ればいいのか。やみくもに掘ってもいたずらに時間を浪費するだけだ。ビーコンは遭難者の埋設場所を特定することで、この時間の浪費を防ぐところに最大の使用価値がある。

 だが、言うは易くであって、ビーコンは実際にはかなり訓練を積まないと使用できない道具という一面もある。(これについては以前書いた)。また、その機能からいって、パーティーのメンバー全員が持たなければ意味がない。一部のマスコミが「1台も持っていなかった」とさも呆れたように報じていたが、まさに無知をさらけ出しているようなものだ。1台だけあったって何の役にも立たないんだよこの道具は。さらに、ビーコンは捜索範囲を狭めてくれるだけで、最後にピンポイントで埋設位置を決定するにはゾンデ(プロープともいう)棒を雪に突き刺す必要があり、掘り出すにはもちろんスコップが不可欠だ。これも全員が持参しなければならない。

 ビーコン自体が高価だが、さらにゾンデとスコップを加えると安いもので揃えても5万円くらいになる。これらを登山を始めたばかりの高校生全員に、登山靴やザックや雨具といった不可欠の道具に加えて購入させるというのは非常にむつかしい。すでに冬山にガツガツ登っていた社会人登山者であった自分たちでさえ、ビーコンが世の中に出てきた当初は値段の高さ(当時は今よりもっと高かった)に即金では買えず、ビーコン積立基金を作って春から秋までメンバーから月々金を集めて冬山直前にやっと必要台数だけ購入したものだった。そんな道具を、「高校生や教師全員が持っていないのがけしからん」と報じるのは事情を知らぬにも程がある。これについて報じるなら、高体連等がビーコンを購入しそれを高校生たちに貸し出すシステムをこそ提案すべきではないか。

 ところで、ビーコンに頼らなくても完全ではないが代わりになる方法はある。登山スラングで雪崩紐と称するのだが、ビーコンが出回る前はこれが埋設者特定の道具だった。といって特別山道具の店で購入するようなものではない。荷造り用の赤いテープ紐(50m巻で100円もしないだろう)で十分、雪崩のリスクがあるところを通過するときはこの荷造り紐10mばかりを身体に結び、ずるずる引っ張って歩くのだ。まあ、あまり格好の良いものではないが、雪崩に襲われればこの紐が巻き上がり、運がよければその一部が雪の上に出てくれるだろうという期待を込めてそのカッコ悪さを耐えるのである。もしそうなれば、埋設者の探索は一発ドンピシャで、ビーコンに比べてもはるかに早いはずだ。紐も全部埋まる可能性は否定できないが、ビーコンだって埋設位置が深くなればその場所の特定は非常に困難になり万能ではない。

 しかし、今回のパーティーはこの雪崩紐も装備してはいなかった。雪崩紐は古い冬山の知恵である。若い登山者はほとんど知らないだろう。今回の遭難パーティの指導者も知らなかったかもしれない。だからこそ、こうした古い知恵も含めて、生徒たちを率いる教師やリーダーたちに継承する機会を設けるべきなのだと、昨日の結論を再度述べて結びたい。


 山の話題でもう一枚。こちらは秋の甲斐駒ケ岳(コットマンF4)です。


170305 秋の甲斐駒ケ岳 (2)サイズ