安倍晋三がモリカケ疑惑の追求から逃れ保身を図るだけが目的の総選挙が終わり、安倍の思惑通り自公が勝って終わった。野党の態勢が整わない中での解散だったが、前回の参院選と同様の野党と市民の共闘を急ぎ構築すれば、安倍の卑劣な目論見を粉砕できる条件はあった。だが小池百合子の野望とこれを持ち上げるメディア、次いでこれに幻惑された前原誠司の愚かな裏切りと、さらに信じられないことだがこの裏切りを満場一致で認めた野党第一党の解党で、その可能性は公示前に事実上葬られてしまった。

 小池の思い上がりと前原の愚かさが誰の目にも明らかになる中で、いわゆるリベラルの受け皿として立憲民主党が形成され、それが一定の地歩を占めたことはせめてもの救いだが、我々の前に広がっているのは基本的に、戦後民主主義が思想としてはほぼ影響力を失って立ち枯れ、それゆえ制度としては完全に擬制となって空洞化し、それどころかむしろ専制や特権が自らを正当化する粉飾の道具として利用されるような、焼け跡にも似た惨憺たる情景である。

 内田樹氏はツイッターで「端的に言って、戦後日本社会は「民主主義教育」に失敗した、ということだと思います。それがどれほど「よきもの」であっても、自力で獲得したものではない政治制度を着床させることがどれほど困難か、改めて感じます。」とツイートしている。まさにそこが核心なのだと思う。

 いまさら述べるまでもないが、西欧の民主主義は古代ギリシア、ペリクレス時代のアテネポリスの奇跡的な直接民主主義に淵源を持ちつつ、その後の専制王権や特権貴族制に対する民衆の長い戦いを経て獲得されてきたものだ。その核心は自分の運命は他者から強制されるのではなく自分自身が選択するという人民一人ひとりの自己決定権にある。利益や意見が対立する多くの人間で構成される社会を円滑に運営するには、社会横断的なルールとそれを強制する装置による支配の秩序が欠かせない。社会の成員は基本的に誰であれこの支配の秩序に服する被支配者なのであるが、そのルールを決める際に社会の全構成員が等しい資格で参加するのが民主主義のシステムである。従って、この個人の自己決定の思想と自覚なしに民主主義は機能しない。

 西欧の民衆たちは決して大げさではなく、血で血を洗うような戦いを繰り返し積み重ねてこの自己決定の権利を獲得してきた。もちろん、かくして出来上がった西欧の民主主義が人間社会の統治システムとして完成したものであるなどというつもりはない。ヒトラーの独裁は当時最も民主的と言われたワイマール憲法が定める手続きによって成立した。今日における西欧先進各国の選挙結果やそれによって打ち立てられた民主権力が民衆の利益に反することなど日常茶飯事だし、古代ギリシアの民主主義は多数決でソクラテスを殺した。

 だがそれでも、ひとりの人間、一部の特権集団に自らの生殺与奪に関わる全権力を委ねるよりは、社会全体の意思を集める方が、極端な誤りを侵す恐れは少ないだろうというのが民主主義を採用する意味である。であればこそ自分も、自分なりの意見を持って社会が求める決定に参加しなければならない。少なくともこの程度のことは、長い民主主義獲得の歴史を通じ形成された大人の常識として、西欧民主主義国の主権者意識に共有されているのではないだろうか。

 だが、日本にはそのような民主主義をめぐる本格的な闘争の歴史はなかった。いや、なかったと決め付けると言い過ぎになるが、少なくとも戦後民主主義は占領軍によって与えられたものであり、自ら血を流して勝ち取ったものではなかった。明治維新以来、民主主義の実現を目指す闘争は確かに存在したし、それに命を捧げる先駆者も少なからずおりはしたが、それがこの国に暮らすすべての人々の自意識に及ぶほどの影響力を持って展開されるまでには至らなかった。

 制度としての民主主義は与えられた。だが、それを成立させる思想としての民主主義、つまり自己決定の明確な自覚は、日本の民衆が自らのうちに育てるしかない。西欧の民衆が長年にわたる血まみれの戦いで打ち立てたその主権者意識を、「民主教育」によって育てようとしたのが日本の戦後民主主義だったといえるだろう。

 民主主義を希求する闘争の歴史がない所にその思想を育てようというこの試みは、戦後25年くらいまでの間、一定程度の成功を収めたと言えるかもしれない。それには学校での民主教育と相まって、ベトナム反戦運動や沖縄返還をめぐる市民運動、公害反対運動、労働組合の賃上げ闘争、全国の大学を吹き荒れた学園紛争など、西欧における民主主義獲得をめぐる闘争を疑似体験させるような機会が多くあったことも寄与しただろう。だが、日の丸君が代の強制など教育の反動化、労働組合の右傾化、そして小選挙区制の採用がこうした国民的な民主主義思想の育成を決定的に妨げる。

 政治意識をめぐる世論調査で共通しているのは、左派リベラルの支持率が最も高いのはまだ健全だった民主教育と世界にプロテストを提出する機会に恵まれ60代以上であり、若年層になるほど自民党や安倍内閣への支持率が高いことだ。これは教育の反動化の進行と見事に呼応している。左派やリベラルを支持するのがエライなどと言うつもりはないのだが、少なくともそれは現状に対する異議の提出であり、そうした意味でそれは政策への評価との同調を意味しており主権者の自己決定意識を反映していると言えるが、いっぽう自民党や安倍内閣への支持は、その政策や行状に同意はできないにも関わらず支持していることが明らかであり、それはつまり現状をあるがまま是認するという立場の表明にほかならない。これは殿様が何をしようが仕方がないという封建時代の農奴の感覚、ないしはなにはともあれ多数派に入れば安心という処世術の感覚に近い。

 今回の選挙で、何人か若い人たちの意見を聞く機会があった。今まで一度も投票に行ったことがないと笑う女性もいたし、わからないからみんなが入れるところに合わせるという青年もいた。でも、強調しておくが、彼も彼女も実に「いい人」なのだ。本当に世の中は「いい人」ばかりだと思う。だが、腐りきった政治に文句を言わない「いい人」たちによって民主主義は空洞化し、やがて「いい人」たちは自らの無自覚が招いた悪政のために、それを自らが招いたとは自覚することなく、大きな犠牲を支払わせられることになるかもしれない。内田樹氏がいうように「自力で獲得したものではない」民主主義を、この日本という土壌に定着させることは、事ほど作用に困難なのだというしかない。日本人というのは、自らが属する社会を自ら設計し運営するには到底力が及ばない発達段階に留まっているということなのだろう。戦後70年を過ぎての、まさに無残な光景である。



 絵は「山の晩鐘」。架空の岩壁でビバークの用意をしている情景です。 ホワイトワトソン F10

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 昨日10日、総選挙が公示された。小池百合子は自らの人品のいやしさが招いた希望の党の失速を見て出馬せず、その日和見ぶりをあらためて示した。また、有権者のヤジに怯える安倍晋三は福島県の田んぼで、厳重警戒のなか動員した身内の自民党員だけを相手に第一声を発し、その臆病ぶりをまたもさらけ出した。森友・加計問題の追求が怖くて国会を解散し、やじが怖くて遊説日程を隠す卑劣な腰抜けが「国難」などとよく言ったものである。安倍を批判する市民たちが掲げた「国難はお前だ」というパネルにも、「ステルス首相」の遊説先が判明したことを知らせる「A(安倍)アラート」というツイートのハッシュタグにも吹いた。有権者はお前たちが期待するほどバカばかりではない。

 さて、生臭い話はこのくらいにして、以下は『紀峰山の会』の機関誌『紀峰の仲間』の秋号に掲載した巻末コラム。今回はギンリョウソウについて書きました。



植物百話
           ギンリョウソウと世紀の大発見

 山を良く歩く方であれば、ギンリョウソウ(銀竜草)という一風変わった植物を一度は見たことがあるでしょう。4月半ばから6月ごろにかけ薄暗い森を歩いていると、しっとりと湿った林床の枯葉に紛れて、透き通るように白い15cmほどの茎の上に下向きの壺型の花をつけた群生に出会うことがあります。「銀竜」の名はウロコが覆うように見える茎を竜の首に、また花を頭部に見立てたものですが、咲く環境の暗さに加え不気味な雰囲気もあることから、ユウレイタケとかシビトバナなどの別名で呼ばれることもあります。(下=自作イラスト参照)

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 さて、ここで「植物」とあっさり書きましたが、我々がふつう植物というのは葉で光合成を行い自活できる独立栄養生物のことです。しかし、ギンリョウソウの葉は退化して茎のウロコになり葉緑素もありません。実は植物の定義というのは結構むつかしい。深入りするとこのコラムの紙幅では帰ってこられなくなりますのでほどほどにしておきますが、このギンリョウソウが植物であるのならば、少なくとも光合成とか葉緑素を持つとかは、「植物」に必須の要素ではないことになります。では、光合成をしない植物ギンリョウソウはどのようにして栄養を得て生きているのでしょう。

 葉緑素を持たない植物はギンリョウソウの他にもランの仲間など結構あるのですが、これらの植物グループはかつて「腐生植物」と呼ばれ、動植物の遺骸やこれが分解した腐食から栄養を得ていると考えられていました。しかしこれは誤りで、実は菌類から栄養を得ていたのです。そこでいまは、植物でありながら動物(従属栄養生物)などと同様、他に栄養を依存することから、このグループを「従属栄養植物」と呼んでいます。

 菌類とは簡単に言えばキノコの仲間です。前回、このコラムで、マツが荒地でも生き延びられるのは、長い歴史を通じ多くの菌類の助けを得ることに成功したからだと書きました。このようにマツは別格なのですが、マツに限らず植物の大半は菌類と共生関係にあり、光合成能力を持たない菌類に光合成で作った栄養を与える代わり、菌が広く張り巡らせた菌糸で土壌中からかき集めた養分や水分を得ています。病原菌に対するケアもしてもらっているようで、まあ、持ちつ持たれつの関係なのですね。

 余談ですが、食物連鎖などの一知半解の浅はかな理解をもとに「弱肉強食が野生の掟」などという人がいますがこれは皮相に過ぎます。食い食われる関係があることは事実ですが、自然のバランスは食う側が食う量に比べ食われる側が食われない量が圧倒的に多いことで維持されていますし、また多様な生命が「持ちつ持たれつ」相互に依存し助け合う共生ネットワークの営みは、食物連鎖が演じられるケースの万倍の頻度と広がりと深さで自然界を支えています。白人至上主義など選民思想の多くが「弱肉強食・優勝劣敗の自然の進化法則を社会に適用」するとする社会ダーウィニズムの優生思想を信奉しますが笑止千万、自然の本当の摂理に無知な誤りは明白です。しかしヒトラーの犯罪、トランプの愚劣、高須クリニックや「みぞゆう」麻生その他レイシストどもお調子バカの放言、反中・嫌韓を煽るメディアの流行、さらにいえば「ニッポン凄い日本エライ」と選民意識をくすぐる低俗テレビをヘラヘラ喜んで観ている・・なんて最近の空気、ちょっと問題ではないかとも思います。

 さて、話を戻して、ギンリョウソウはベニタケ菌という日本の山野ではありふれた菌類から栄養をもらっているのですが、前述のように菌類は植物から栄養をもらっていますので、本当はベニタケ菌を介して間接的にそのベニタケ菌と共生する植物から栄養を得ていることになります。で、その代わりベニタケ菌などに何を返しているのかというと、これが今のところはわからない。もちろん、一方的にもらうばかりで何も返さない「寄生」という関係もありなのですが、これについてはなお今後の研究課題ということだそうです。

 といったギンリョウソウについてこの7月、驚くべき新発見が報告されました。その種子を散布してくれる共生生物が見つかったのです。我々が見かけるギンリョウソウは花ですから当然、あの壷型の花の中に雄しべと雌しべがあって受粉もすれば結実もします。受粉はマルハナバチが手伝っているようですが、これまで種子散布をどうしているのかは不明でした。これを発見したのが熊本大学の杉浦直人准教授。2年間計1259時間にわたりギンリョウソウを見つめ続けて、その種子散布を助けているのがなんとゴキブリ(正確にはモリチャバネゴキブリ)であることを突き止めたのでした。

 昆虫は受粉では大きな役割を果たしますが、生き物による種子散布では主役は鳥類、次いで哺乳類です。このコラムでも取り上げたカタクリやスミレの種を運ぶアリを例外として、昆虫が種子散布に協力する事が確認されたのは世界広しといえどもこれまで2例のみでほぼ皆無だったのです。ですから3例目というだけでも大発見なのですが、飛翔する昆虫としては世界初とのこと。まさに世紀の大発見ではありませんか。

 ゴキブリは人間の迫害に追われる一方でギンリョウソウのかけがえのない共生者として、果実を頂く代わりに遠くまで飛翔して糞と一緒に種子を散布し、人知れずか弱い生命が生き延びるお手伝いをしていたのですね。といったゴキブリのけなげな働きぶりを思えば、あの女性たちの冷酷な白眼視と問答無用の金切り声つき殺戮行為、多少とも手心を加える気になってはもらえないものかと思うのです。 が、ん~、ならないだろうね。やっぱり。


 最後に最近描いた絵です。タイトルは『翡翠』(かわせみ)、「渓流の宝石」と呼ばれる美しい野鳥です。 今回はウオーターフォードのF8号の用紙に不透明水彩で描きました。

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 9月21日の木曜日に退院、まあ快調とは言いかねますが、そこそこの体調で毎日を過ごしています。昨日は自分が長く代表を務めた紀峰山の会が茶話会を開いてくれ、久々に気のおけない仲間たちと山の話で盛り上がることができました。

 入院中に会の運営委員会から見舞いに行きたいとのありがたい申し出があったのですが、まもなく退院する見通しだったうえ、自分としてはお見舞いをしてもらうよりはむしろもう一度、山小屋や幕営地で山を見ながら酒類を満たした愛用のマグカップ片手にワイワイやったあの最高の時間を再現したい思いが強く、それを伝えたところ、これを快く受けてくれた結果開かれた集まりでした。会場が公共施設だったことからアルコールは断念せざるを得ませんでしたし山の絶景もありませんでしたが、山小屋の談話室を思わせる温かな雰囲気でたっぷり話し合うことができ、心から満足しました。絶好の登山日和にもかかわらず参加してくれた山の仲間たちに心から感謝です。

 さて、最近の世の中の動き、これほど呆れ果てるような事件がよく続くものだと思う。まず安倍晋三が衆院を解散。だいたい野党が憲法の規定に基づき求めた臨時国会開催を拒み続けたあげく、ようやく開くかと思えば質疑どころか所信表明も行わずなんと開会後わずか100秒で解散。こんなことってあるかあ? 立憲政治などどこ吹く風のあきらかな違憲行為であり、森友・加計疑惑から逃亡する意図むき出しの私利私欲の暴挙だ。しかし、この程度で呆れていたらこの国の劇場政治に付き合えないのであって、小池百合子がかねての手はず通り極右政党『希望の党』を立ち上げ、さらに驚いたことに野党第一党であった民進党が事実上解体して衆院部分がこのできたばかりの極右政党に吸収されてしまった。

 安倍晋三の馬鹿さ加減や思い上がった自己チューぶりは今更いうにおよばずだが、歴史認識や極右の政治路線でほとんど瓜二つの小池百合子が安倍晋三の対抗馬などになりうるものか、少し考えれば分かりそうなものだがそんなことは一切報じられないうちに、あろうことか対抗勢力の中心と目された党が党首の独断で戦わずして消え、これまた信じられないことにこれを「満場一致」で承認した同党の議員らは自らの主張も、これまで共闘してきた市民運動や他野党との信義も投げ捨てて、ただ自らの保身のため独裁女王の前に拝跪するに至ったのだ。人間、ここまでさもしくも卑屈になれるものなのかと、呆れる一方ある意味感心したことでもあった。

 小池が都知事を辞めて出馬するかどうか、希望の党から排除された民進党議員がどう動くか、余談は許さないが、はっきりしているのは自公連合と小池新党プラス維新という右翼2勢力と、共産・社民に旧民進党などのリベラル勢力を加えた護憲勢力という、まあとりあえず政治的な立場が鮮明な形の三極構造ができそうなことだ。もっとも、この三極構造は選挙が終わるまでの一時的な対立構図であって、この選挙が終われば元々同じ穴のムジナである右翼2勢力が大連立して事実上の大政翼賛会が成立、共謀罪を駆使して護憲の一極を弾圧、さらに非合法化し日本のファシズムを完成させるというディストピア(暗黒郷)的未来もありうる事態だ。

 ムジナ同士で唯一異なる政策課題は原発への対応だが、小池の反原発など人気取りのウソに過ぎない。小池自身、日本の核武装を主張して憚らないほどなのだし、連合が反原発を唱える勢力を支持するわけがない。一人前の政党のようにエラソーなことを言うが、希望の党など連合傘下の組合員の動員がなければ政策ビラの配布はおろか、候補者ポスターすら貼ることはできないのが実情なのだ。連合は小池らしいマヌーバー(策略)として口で言ったことの撤回までは望まなかったということだろうが、連合と組む限り小池が軽々しく口で唱えるだけの反原発が公約として実現することなどない。

 かくしてこの国の政治はいま、排外主義と軍国主義が跳梁跋扈する右翼ファシズム一色に塗りつぶれさようとしているかに見える。しかし、安保法制にしても共謀罪にしても原発にしても憲法にしても、この国会の衆院議席配分で表現される政治構造は主権者国民の意識実態とはかけ離れている。こうした深刻な乖離を生み出しているものこそ、小選挙制にほかならない。つまり現に見る右翼の圧倒的多数派形成は制度が作り出した虚構に過ぎない。もちろん、虚構だからといって実害がないわけではないし、その害悪はときとして取り返しがつかないほど決定的なものとなる場合もあるが、それでも虚構は虚構であり、先の大戦における神がかりの天皇制軍国主義壊滅のように事実の前にいつかは崩壊を宿命づけられている。問題は甚大な国民的犠牲を産む前にそれを実現できるかどうかだけだろう。いまや歩くこともままならぬ身としては、今回の選挙がその第一歩となることを祈るのみである。


 以下は、一昨日完成した水彩『古座海景』。 紀南地方の古座という小さな町の海を描きました。左が九龍島(くろしま)、右が鯛島でまさに魚のタイそっくりの形、目にはホントに穴があいています。F20号とこれまでで最大の作品です。

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 入院といっても、今回は治療らしいことといえば一日一回の肝臓機能回復の為の点滴だけだ。それも今日で終わる。あとは同じく一日一回のバイタルサインのチェックくらい。といえばいかにも暇そうだが、それが案外そうでもない。その時の体調にもよるが、本を読んだり文章を書いたり、絵筆をとったりデッサンをしたり、それからこれはむしろ闘病のマイナスになりそうなストレス源でもあるのだが、目を覆わせしめる貧打で足を引っ張るばかりか、アンビリーバボーなエラーで投手を見殺しにする東北楽天イーグルスの惨めな連日の負け試合中継をスマホで観たりしていると、知らないうちに時間は経っている。

 そんな毎日の中で、備忘録としてでも書いておきたいことができた。今回、ひょんなことから野呂邦暢(くにのぶ)という作家を知り、その作品を小説も随筆もあらかた読んでみたことだ。わざわざここに書いて記憶に留めようと思ったのは、何よりもその研ぎ澄まされたような文章の見事さゆえのこと。その見事な文章を自分の拙い文章能力でうだうだ語るより、実物を読んでもらったほうがよほど気が利いているというものだろう。

 たとえば以下は『日が沈むのを』という野呂35歳の作品のラスト。主人公はバスの車掌を勤める若い女で、仕事を終えて一人暮らしの古アパートに戻り、その最奥に自分の部屋がある二階の廊下に椅子を出して足を投げ出し、寝巻きの襟を開いて湯上りの肌を風に晒しながら西の空を眺めている。もちろん、まだエアコンなどない時代の話だ。

 夕日は山の稜線に触れた。
 わたしは透明な砂金色の夕映えに浸っている。屋根瓦の濃い藍色が夕日を照り返して柔らかな黄金の陰影を帯びる。世界は深くなる。夕日の没する、なんというすみやかさ。わたしは息をのんでただうっとりとみつめる。
 いったん山の端に接するやいなや、夕日はそれ自身の重みに耐えかねたように沈む速度をはやめる。家並に風は絶えて鳥も飛ばず、庭木の繁みはそよとも動かない。
 夕日は沈んだ。
 私が向かい合っている家々と樹木はその色彩を回復した。夕日をみつめつづけたわたしの目はしばらく視力を失って、ぼんやりと青い水の層に似た夕景を眺める。西の空に漂う雲の下縁が仄かに赤い。
 ほどなくめまいは消える。影を喪った屋根が現れる。夕暮れの薄闇がひたひたと庭をみたし始める。肌の火照りが醒め、わたしは身震いする。微風がおこる。


 野呂邦暢は1935年(昭和12年)9月に長崎市で生まれた。長崎に原子爆弾が投下された当時は小学生で、生家は爆心地至近だったが被爆前に母方の実家がある諫早市に疎開していたためこれを免れた。同級生の大半は死亡している。京大を志したが失敗、浪人中に実家が破産したため進学を諦め、上京してガソリンスタンドの店員や喫茶店のボーイ、ラーメン屋の出前持ちなどを転々とし、その後自衛隊に入隊し佐世保で訓練を受けた後北海道千歳に配属され翌年除隊。このときの経験を描いた『草のつるぎ』で第70回芥川賞を受賞している。作家として自立してからも諫早市に住んでその風土に根ざす作品を多く発表、しかし1980年5月、心筋梗塞により自宅で死去。まだ42歳の若さだった。

 野呂が淡々とした筆致で丁寧に描き続けたのは、前に紹介したバス車掌のように名もない庶民の日々だった。どの作品にもいわゆる大物や英雄は出てこない。様々な意味での限界状況が出来したり大事件が生起するわけでもない。ただ市井の普通の人たちの何気ない日々を描いているのだが、ひたすらに丁寧で練り抜かれた日本語が平凡な日々の陰影を鮮やかに浮き彫りにし、柔らかな光をあて、そして静かに輝かせるのだ。自分は日本語の名手としてその筆頭に谷崎潤一郎を推してきたが、野呂はそれに伍すると思う。ただ、描いた世界の差もあってのことだろうが、谷崎の方が湿度が高い気はする。野呂の文体にはやや乾いた清潔さを感じる。

 知り合いのテレビマンから野呂の作品を紹介され、たちまち惚れ込んだのが向田邦子だった。向田は野呂の世界に魅せられ、その全作品の映像化権を望むとともに、その代表作である『諫早菖蒲日記』のドラマ化を図ろうとする。しかし、テレビ局側はその提案に難色を示した。『諫早菖蒲日記』は、長崎に黒船が頻繁に訪れる幕末の不穏な空気を背景に、佐賀鍋島藩の従藩である諫早藩で砲術指南を勤める中級武士家庭の日々を、15歳になる長女の瑞々しい視点で描いた長編だ。諫早の山野わけても河口の描写が素晴らしく、少女をはじめとする人々の屈託や喜びが丁寧に描かれている。ちなみに「諫早菖蒲」は菖蒲の原種に近い諫早に自生する品種で、多くの改良品種のように鮮やかで大きな花は付けないものの強壮で、花は小さくとも切花にしてはるかに長持ちするという。恐らく、主人公の少女のイメージを仮託したものであろう。

 ただストーリー自体は、そう地位が高くもない、そして抜きん出て優れてもいない中堅武士の、さして大きな事件も起きない日々を淡々と描くだけだ。時代劇に付き物の合戦シーンや斬り合いどころか刀を抜くシーンすらない。さらに主人公の少女は利発でお転婆で実に愛らしいが、NHKの朝ドラのように大人になって偉い人になったりはしそうにない。現に、野呂が『諫早菖蒲日記』の続編として書いた『花火』でこの少女は、長じて普通に親の決めた相手と結婚し、普通の平凡な口うるさい母親になっている。といった到底見栄えしそうもない内容なのだから、テレビ局が作品化を渋るのも当然だろう。そこで向田は次善の策として、まず野呂の別の作品『落城記』のドラマ化を提案、野呂が承諾しテレビ局もこれを受けたことから、向田はシナリオライターとしてではなく、自ら望みプロデューサーとなって関わる熱の入れようとなった。1980年2月頃の話である。

 しかし、『わが愛の城』となんとも甘ったるいが一般視聴者向けに『落城記』を改題したドラマの制作準備が徐々に進んでいた同年5月、前述のように野呂は急逝してしまう。向田は野呂の霊前に座し、この仕事を立派に成就させるとともに本命の『諫早菖蒲日記』をいつか必ず映像化することを誓ったという。かくして『わが愛の城』が完成し、放映されたのは翌1981年10月1日のことだ。だがあろうことか、向田はその直前の8月22日、台湾に向かう旅客機の墜落事故で不慮の死を遂げており、この映像を見ることはなかった。かくて『諫早菖蒲日記』にかけた夢も台湾の空に消えたのだ。

 自分はそのドラマの1シーンをいまも鮮明に覚えている。篭城側のリーダーの一人である若武者を演じるショーケンこと萩原健一が、敵襲で騒然とする城内で城主だったかその娘(これが主人公でドラマでは岸本加世子が演じていた)だったかに対し、汗と埃にまみれた合戦姿で「○○でごんす」と野太い声できっぱりと言い切るところだ。その全身から土の臭いを発散するような表情が実にいい、地に足のついた生活とそれに支えられた土着の信念を感じさせる太く低い声も素晴らしい。歌手としての萩原など評価するにも及ばないが、この演技を見て、この人は役者してなら立派にやっていけると思ったものだった。

 このドラマが放映された当時、自分はまだ20代で長女が生まれたばかりだった。仕事は早朝から夜半に及び、共稼ぎ生活の維持に慣れない育児も加わって目も回るほど忙しく、のんびりテレビましてドラマなど見る暇はなかったはずだが、このシーンだけは不思議にくっきり鮮明に覚えているのである。それほどまでにショーケンが演じた下級武士が放つ存在感が強烈だったということだろう。その後、この人が薬物に溺れてその抜群の才能を自ら埋もれさせてしまったのは周知のとおりである。

 さて、『落城記』についてだが、これは豊臣秀吉の命によるキリシタン鎮圧に参軍しなかったためその不興を買い、佐賀の龍造寺家の侵略を受けることとなった伊佐早(いまの諫早)の西郷家最後の日々を、城主の妾腹の娘の視点で描いた物語だ。野呂の他の作品とは違い「落城」という大事件はあるのだが、野呂の筆はその落城までの攻防もさりながら、むしろこの男勝りに活発な少女に起伏する感性の動揺と成長にぴったりと寄り添って進んでゆく。少女には淡い思いを寄せる別腹の文人の素養が薫る繊細な兄があり、また逆にその少女を密かに思う無骨な若い下級武士がいる。

 城を巡る戦いは苛烈だが、それ以前に凡庸な城主、次々に寝返る重臣、戦闘を前に逃げ出す足軽ら、平凡な人々の卑俗な生への欲望が城の運命をすでに決定づけているのだ。リアリストである野呂の目には戦場の英雄も輝かしい武勲もなにほどのものでもない。野呂が書きたいのは血が通った普通の人間の本当の物語にすぎない。そしてそれは、一筋縄ではゆかぬドロドロとした人間とそれを取り巻く諸関係の実相を描きながら、であればこそ瞬き輝く少女の純粋で小さな思いと矜持、若武者の真っ直ぐな思いと、それらゆえ避けられぬ悲劇をより一層、印象的に描き上げることに成功している。ドラマ『わが愛の城』でそれがどれほど再現されていたかは、今となっては知る由もない。ただ、以前からずっと何故かこの脳裏にしっかり刻み込まれて忘れることがなかったショーケンのあの見事な1シーンが、今回の入院を機にたまたま原作を読むこととなって意図せず再現された不思議を思うのみである。年を取るといろいろなことがあるものだ。

  さて、不思議といえばもうひとつ。野呂邦暢が傾倒した詩人に伊東静雄という人がいる。野呂とは同郷で、1906年(明治39年)に諫早で生まれ京大に入学するまでそこで育った。卒業後は大阪府立住吉中学校(戦後の学制改革以後は住吉高校)に奉職、その後阿倍野高校に転勤してそのまま詩人と教師の「二足のわらじ」の生活を生涯続けた。現代詩の代表的詩人として知られ、処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』(1935)は当時まだ存命の萩原朔太郎から「日本にまだ一人、詩人が残っていた」と激賞されたという。時代の先端をゆく現代詩を多く発表したが1953年肺結核により死去、まだ47歳の若さだった。

 自分も日本現代詩の雄とされた伊東静雄は知らない詩人ではない。といっても、自分が生まれた大阪で起居した文学者というだけのことで、住吉高校と同学区の天王寺高校の生徒であった頃から小野十三郎らと並び関心のある詩人ではあった。だがいかんせん難解で、もちろん日本語として読めはするが、正直言ってたぶん一行も理解はできていなかったと思う。さすがに野呂はそんなことはなく、伊藤は光と輝きを読む詩人だという。そして野呂はその詩世界の根底に諫早の風土があるのではないかと思った。伊藤の葦原の描写などに諫早の本明川河口に広がる広大な干潟の面影があるというのである。だが、二十歳の野呂が伊藤という同郷の詩人を北海道の自衛隊営舎で知った1957年、伊藤は既に鬼籍に入っていたのだから直接それを本人から確認するすべはなかった。

 野呂は自衛隊を除隊後諫早に帰郷、やがて父の病気が癒えて仕事に復帰し次いで大阪に転勤となり、兄と二人が諫早に残って他の家族が父に従い大阪に転居した機会に、野呂はこの疑問を確かめようと伊藤が住んだ大阪府堺市を訪い、大阪湾東岸に広がるこの葦原を見るのだ。真夏のこととあって「堺の暑さは九州の炎暑に慣れていたものにも」辛いほどだったが、「そこに溢れる光は肥前の激烈な夏」に通じると野呂は思う。さらに「ごく近くに広がる海、松の緑に覆われた小丘群、よく耕された肥沃な大地、それに夜の濃い闇と昼のまばゆい陽光」に接し、野呂邦暢は「堺三国丘は諫早と重なり合う多くの類似点を持っているように思われる」(『詩人の故郷』)と述懐するのである。

 この訪問は1961年(昭和36年)、野呂邦暢24歳の時のことである。高度成長が疾走を始めた当時、まだ堺の海岸には葦が生い茂っていたらしいことがわかる。広く埋め立てられて関電の巨大な火力発電所や新日鉄住金の製鉄所をはじめ、多くの化学工場や製造工場が立ち並ぶ不夜城のコンビナートとなっている現状からは想像もできない情景だ。そんな、まだ田園と砂浜ののどかさ残る堺三国丘周辺、より正確に言えば伊東静雄が暮らした堺市三国ヶ丘40番地あたりを24歳の野呂は汗を滴らせながら彷徨したに違いない。そしていま、わたしはその野呂が徘徊した三国ヶ丘の病院に入院してこの事績を知り、いまこの一文を書いているのである。病室の目の前の庭に手ぬぐいで汗を拭う24歳の野呂邦暢元自衛官の姿が見えるようだ。だがそれから56年、海はいまの三国ヶ丘から遥かに遠ざかってしまった。もちろん病室から望めるはずもない。

 余談だが、この一文を書きながら片目で見ていた楽天対オリックスの試合がいま、2-1で楽天の勝利に終わった。エースの則本が好投し、キャプテンの嶋がしぶとく決勝打を放ち、切り札の松井がなんとか抑えて、本拠地でなんと一ヶ月ぶりの勝利である。別に企業としての楽天を応援するつもりなど更なく、その風土に強く惹かれる東北に肩入れしているだけだが、さすがにこれだけ負けが続くと腹が立つ。ホント、たかが野球だ。放っておけば良いものを、下手に関わるからストレスが溜まるのだ。と思いつつ、できない子供ほど可愛いということもあって、やはり見ずにはおられないのである。困ったものだが、まあ、人間とはそういう懲りないものらしいから仕方がない。ところで、先ほど触れた『わが愛の城』放映の頃に生まれた長女だが、長じていま和歌山から大阪や神戸での対オリックス戦はいうに及ばず、わざわざ仙台まで飛行機に乗って東北楽天イーグルスの応援に行くほど熱を上げている。まあ、親に輪をかけてというべきか、親が親だからというべきか。




 今回の入院から一週間が過ぎました。しかし与えられたベッドは廊下側で外部への視界はなく、また眠ろうとするとちょうど常夜灯が目に入る位置にあって煩わしいことこの上ない。これを遮るカーテンにも不具合があってどうにもならないので、せめてこれだけは改善してくれるよう要望していたところ、昨日、別の部屋に移されました。

 移動については、入院当初から、できれば外界が見えるベッドにして欲しいとの希望を伝えていたので、それも考慮してくれたようです。移されたベッドからは、アルミサッシの窓に仕切られた小さな世界ではありますが、クスノキやカイヅカイブキ、カラスザンショウなど暖地の樹木や下草が元気よく育っているのが見え、なにより明るく澄んだ初秋の青空を望むことができるのでした。夜半には鈴虫が盛んに鳴くのを耳にすることもできました。

 と思っていたら、これまでの免疫抑制剤に代えて来週から服用する予定の繊維化抑制剤について薬剤師から説明があり、副作用の紫外線による皮膚疾患を予防するため、窓のない部屋に移ってもらうとのこと。「ありゃあ、なんちゅうこっちゃ」です。その薬に光過敏の副作用があることは以前から知っていましたが、もう外出することもないし関係ないと思っていたところが、「室内でも日焼け止めを塗ってもらった方が良いくらい」とのことです。特に処方のはじめは過剰に思えるほど警戒すべし。とはいえ、そんな窓もない穴蔵のような部屋には断固戻りたくない・・とはっきり言ったところ薬剤師、ん~としばらく考えたうえ、まあ、相談してみましょうということになりました。きっと、ベタベタ真っ白に日焼け止めを塗ることになるんだろうなあ・・

 さて、今の腹立ちテーマは政治家の不倫騒動。民進党のホープと言われた山尾志桜里議員、幹事長に内定していたのに発表の直前に降ろされるどんでん返しがあり、何があったのかと思ったら週刊誌に「不倫」(本人は否定しているのでカッコつきにする)を暴露されることがわかったからだった。本日8日昼時点、山尾氏は離党の意思を表明しているそうだ。この前には自民党の今井絵理子議員の不倫が賑やかに報じられた。その前には同じく自民党イクメン宣言宮崎謙介議員だのまたもや自民党中川俊直重婚議員だの、まあそのときどきメディアはあげて「男女の一線」をめぐり盛り上がってきたのである。

 で、この際いわせてもらうが、「それがなんやねん?」。 有名なエピソードだが、フランス大統領だったミッテランは隠し子疑惑が発覚した際、記者団の質問に対し「ええ、で、それが何か?」(oui et alors?)と答えたそうだ。また、年老いまもなく永遠の別れが近いことを悟った時、自分の生涯で愛し合ったことのある5人の女性のもとに足を運び、一人一人に深い感謝の念を伝えたという。ん~、まあ、ミッテランが偉いなどと言うつもりは毛頭ないし(多少羨ましい気はしないでもないぞ(^_^;))、自民党のオヤジ代議士のように「下半身に人格はない」などという下卑た知ったかぶりに与することもないが、政治家にとり本業の重大さに比べれば男女の関係など「で、それで?」という程度のものでしかないとは強く思う。

 山尾志桜里は政治家として有能であり将来もあると思うから、このどうでもいいことで足元をすくわれるバカバカしい事態は残念でならない。一方、今井絵理子など政治のなんたるかすら知らないというか、そもそも学ぶべき思春期青年期を芸能界でもみくちゃにされた結果なのかそれとも自業自得か、今にして中学生程度の学力も怪しいほどなので、本業の方で使い物にならないばかりか明らかに有害ですらあるのだから、不倫しようがしまいが関係なく、そもそもいま国会議員などさせてはいけない人間なのだ。イクメン宮崎謙介も重婚中川俊直も似たようなものだと思うが、安倍チルドレンには晋三親分以下同程度の低脳が滅多矢鱈に多いので、いささか身も蓋もない言い方になってしまうが、彼らの無能ぶりがいまの自民党議員のスタンダートということになって目立たないのがこの国の「国権の最高機関」の惨状なのである。メディアは、不倫などで騒いでる場合ではない。