前回の記事で、「POST TRUTH」と呼ばれるような「気持ちよい嘘」が「不都合な真実」より選好されるような世論の傾向が、世界で反理性的な選択を招き、多くの国で国民の分断を引き起こしまた国際関係を危うくしていることに触れ、これが欧米よりもむしろ日本で先行して発生してきたことを述べた。また、こうした変化が世に言われるメディアの右傾化や、日本会議やネトウヨなど草の根右翼の策動の結果ではなく、むしろそれに先立つ国民意識の変貌こそがこれら、従来は水面下に隠されていたグロテスクで偏狭な劣情が社会の表層に溢れ芽吹いてゆく温床となったのではないかと指摘した。

 では、ここにいう国民意識の変貌の本質は何か。もちろん私見だが、結論から言えばそれは端的に「共同性への渇望」ではないかと考えている。

 現代の排外主義的な社会の空気は戦前のそれによく似るという。これに関連してだが、いま巷間最も注目されるニュースは、大阪府豊中市の国有地が「瑞穂の國記念小學院」建設用地として「森友学園」(籠池泰典理事長)なる学校法人に、ほとんどタダ同然で譲られた事件だろう。

 同法人が経営する塚本幼稚園では愛国教育の名のもとに、判断力もない幼児に教育勅語の唱和や軍歌の合唱をさせるなどというとんでもない偏向刷り込み教育が行われているのだが、その一方で副園長(籠池理事長の妻)は園児の母親である韓国出身女性に読むに耐えないほどひどい差別文書を送りつけていた。報道によれば園長でもある理事長は園児たちに「差別はいけない」と訓示していたようだが、その園長も中国人、韓国・朝鮮人に対する嫌悪感をむきだしにしている。彼らの感覚では中国人や韓国人は差別してはいけない人間には入らないようなのだ。

 ことほど左様に愛国とレイシズム(人種差別主義)は親和性が高い。その媒介項は他を貶めればその分だけ自分が浮上するというなんともわかりやすくも卑しい感覚だ。また、籠池理事長は「瑞穂の國記念小學院」のホームページに掲載した挨拶で「世界で歴史・伝統・文化の一番長い國である日本」とか「その中で積み上げてきた日本人のDNAの中に「人のために役立つ」という精神が刻み込まれている」とか、歴史的科学的に明らかに誤った「ニッポンすごい」の妄言を書き連ねている。ここには、愛国、レイシズム、ニッポンすごい、というこの国における反知性的「POST TRUTH三点セット」が絵に描いたように見事に陳列されている。

 なお周知の通り、同じホームページでは理事長のこの呆れ果てた非科学的妄言の上に麗々しく、この妄言の主の「熱き思いに感銘」した(これだけで知性のほどが察せられる)という「安倍昭恵先生」が「安倍晋三内閣総理大臣夫人」の添え書きつきで名誉校長就任の挨拶を述べているし、建設募金を「安倍晋三記念小学校」で集めていたこともわかっている。全貌解明はまだこれからだが、国有財産の闇贈与ともいうべき異様な事件の背景にこうした事情が絡んでいないと思う方がどうかしているというものだろう。

 さて、話が少し横道にそれたが、この瑞穂の國記念小學院のホームページに典型的にみる愛国、レイシズム、ニッポンすごいの反知性的「POST TRUTH三点セット」は、戦前の日本であれば、滅私奉公忠君愛国の教育勅語イデオロギーと、日本を頂点とする八紘一宇の帝国主義的民族差別と、そして万世一系の神の国という歴史の検証に到底耐えない虚構との三点セットで構成されていた。

 日本はこの国民的狂気に支配されてあの無謀な戦争に突入し、そして当然のことながら完膚なく叩かれ、徹頭徹尾破壊され、蹂躙され、破滅したのだった。周知の通り、東京裁判ではその首謀者たちが戦犯として裁かれた。だが、彼らは本当に戦争の首謀者と呼ばれるほどの能動的実在だったのか。例えば東条英機その他の「平和に対する罪」を犯したとしてA級戦犯とされた人々がいなければあの戦争は回避できたのか。自分にはどうもそうとは思えない。

 歴史における個人の役割を否定するものではないし、開戦に至る局面でその決定に参画する立場にあった政治家や軍人個々の意識や主張が最終決定に影響を与える可能性はあったはずなのであって、であればこそ勝者による一方的な裁きではあれ東京裁判の判決もやむを得ないとは思う。だが、先に書いたPOST TRUTHに囚われ、暴支膺懲(ぼうしようちょう=「暴虐な支那(中国)を懲らしめよ」という意味)や鬼畜米英を叫んで熱狂し陶酔する世論に身を持って抵抗する術は、誰が指導者であれすでになかったのではないか。

 山本七平(故人)という在野の社会学者(と敢えていう)に『空気の研究』という著書がある。詳しく紹介する余裕はないが、この本の中で山本は、戦術的にはどう考えても全く無意味な戦艦大和の沖縄特攻が、戦術や海戦の素人ならぬエキスパートたちによりまったく非理性的に決定される経過などを分析し、その決定に与ってもっとも力を発揮したのが「空気」であったことを紹介している。

 ただし山本は経済や科学技術には暗くまた独特の偏見もあって首肯しかねる記述も多い。例えば同書出版当時の革新自治体による自動車の排ガス規制を非科学的な魔女裁判呼ばわりし、これが日本の自動車産業を衰退させ巷に失業者を溢れさせると説いたが、厳しい排ガス規制をクリアした日本車は山本の予想とは正反対にこの技術をバネに世界を制覇している。こうした見通しの頓珍漢さや一方的な決めつけには毎度辟易させられるのだが、それでも日中戦争や対米英戦争の開戦などという歴史の決定的局面や天皇制への狂信などについて、「空気」が果たした機能を鋭く指摘した卓見は高く評価されねばならないだろう。

 いまもその「空気」こそが問題なのだ。いまこの国を覆いつつある不寛容な空気。それはかつて戦争の破局に転落していったこの国の空気と不気味な相似形をなすように思われてならない。次は山本の見解も参照しながら、戦前から今日に至るPOST TRUTHの「空気」を考えてみたい。



スポンサーサイト