入院といっても、今回は治療らしいことといえば一日一回の肝臓機能回復の為の点滴だけだ。それも今日で終わる。あとは同じく一日一回のバイタルサインのチェックくらい。といえばいかにも暇そうだが、それが案外そうでもない。その時の体調にもよるが、本を読んだり文章を書いたり、絵筆をとったりデッサンをしたり、それからこれはむしろ闘病のマイナスになりそうなストレス源でもあるのだが、目を覆わせしめる貧打で足を引っ張るばかりか、アンビリーバボーなエラーで投手を見殺しにする東北楽天イーグルスの惨めな連日の負け試合中継をスマホで観たりしていると、知らないうちに時間は経っている。

 そんな毎日の中で、備忘録としてでも書いておきたいことができた。今回、ひょんなことから野呂邦暢(くにのぶ)という作家を知り、その作品を小説も随筆もあらかた読んでみたことだ。わざわざここに書いて記憶に留めようと思ったのは、何よりもその研ぎ澄まされたような文章の見事さゆえのこと。その見事な文章を自分の拙い文章能力でうだうだ語るより、実物を読んでもらったほうがよほど気が利いているというものだろう。

 たとえば以下は『日が沈むのを』という野呂35歳の作品のラスト。主人公はバスの車掌を勤める若い女で、仕事を終えて一人暮らしの古アパートに戻り、その最奥に自分の部屋がある二階の廊下に椅子を出して足を投げ出し、寝巻きの襟を開いて湯上りの肌を風に晒しながら西の空を眺めている。もちろん、まだエアコンなどない時代の話だ。

 夕日は山の稜線に触れた。
 わたしは透明な砂金色の夕映えに浸っている。屋根瓦の濃い藍色が夕日を照り返して柔らかな黄金の陰影を帯びる。世界は深くなる。夕日の没する、なんというすみやかさ。わたしは息をのんでただうっとりとみつめる。
 いったん山の端に接するやいなや、夕日はそれ自身の重みに耐えかねたように沈む速度をはやめる。家並に風は絶えて鳥も飛ばず、庭木の繁みはそよとも動かない。
 夕日は沈んだ。
 私が向かい合っている家々と樹木はその色彩を回復した。夕日をみつめつづけたわたしの目はしばらく視力を失って、ぼんやりと青い水の層に似た夕景を眺める。西の空に漂う雲の下縁が仄かに赤い。
 ほどなくめまいは消える。影を喪った屋根が現れる。夕暮れの薄闇がひたひたと庭をみたし始める。肌の火照りが醒め、わたしは身震いする。微風がおこる。


 野呂邦暢は1935年(昭和12年)9月に長崎市で生まれた。長崎に原子爆弾が投下された当時は小学生で、生家は爆心地至近だったが被爆前に母方の実家がある諫早市に疎開していたためこれを免れた。同級生の大半は死亡している。京大を志したが失敗、浪人中に実家が破産したため進学を諦め、上京してガソリンスタンドの店員や喫茶店のボーイ、ラーメン屋の出前持ちなどを転々とし、その後自衛隊に入隊し佐世保で訓練を受けた後北海道千歳に配属され翌年除隊。このときの経験を描いた『草のつるぎ』で第70回芥川賞を受賞している。作家として自立してからも諫早市に住んでその風土に根ざす作品を多く発表、しかし1980年5月、心筋梗塞により自宅で死去。まだ42歳の若さだった。

 野呂が淡々とした筆致で丁寧に描き続けたのは、前に紹介したバス車掌のように名もない庶民の日々だった。どの作品にもいわゆる大物や英雄は出てこない。様々な意味での限界状況が出来したり大事件が生起するわけでもない。ただ市井の普通の人たちの何気ない日々を描いているのだが、ひたすらに丁寧で練り抜かれた日本語が平凡な日々の陰影を鮮やかに浮き彫りにし、柔らかな光をあて、そして静かに輝かせるのだ。自分は日本語の名手としてその筆頭に谷崎潤一郎を推してきたが、野呂はそれに伍すると思う。ただ、描いた世界の差もあってのことだろうが、谷崎の方が湿度が高い気はする。野呂の文体にはやや乾いた清潔さを感じる。

 知り合いのテレビマンから野呂の作品を紹介され、たちまち惚れ込んだのが向田邦子だった。向田は野呂の世界に魅せられ、その全作品の映像化権を望むとともに、その代表作である『諫早菖蒲日記』のドラマ化を図ろうとする。しかし、テレビ局側はその提案に難色を示した。『諫早菖蒲日記』は、長崎に黒船が頻繁に訪れる幕末の不穏な空気を背景に、佐賀鍋島藩の従藩である諫早藩で砲術指南を勤める中級武士家庭の日々を、15歳になる長女の瑞々しい視点で描いた長編だ。諫早の山野わけても河口の描写が素晴らしく、少女をはじめとする人々の屈託や喜びが丁寧に描かれている。ちなみに「諫早菖蒲」は菖蒲の原種に近い諫早に自生する品種で、多くの改良品種のように鮮やかで大きな花は付けないものの強壮で、花は小さくとも切花にしてはるかに長持ちするという。恐らく、主人公の少女のイメージを仮託したものであろう。

 ただストーリー自体は、そう地位が高くもない、そして抜きん出て優れてもいない中堅武士の、さして大きな事件も起きない日々を淡々と描くだけだ。時代劇に付き物の合戦シーンや斬り合いどころか刀を抜くシーンすらない。さらに主人公の少女は利発でお転婆で実に愛らしいが、NHKの朝ドラのように大人になって偉い人になったりはしそうにない。現に、野呂が『諫早菖蒲日記』の続編として書いた『花火』でこの少女は、長じて普通に親の決めた相手と結婚し、普通の平凡な口うるさい母親になっている。といった到底見栄えしそうもない内容なのだから、テレビ局が作品化を渋るのも当然だろう。そこで向田は次善の策として、まず野呂の別の作品『落城記』のドラマ化を提案、野呂が承諾しテレビ局もこれを受けたことから、向田はシナリオライターとしてではなく、自ら望みプロデューサーとなって関わる熱の入れようとなった。1980年2月頃の話である。

 しかし、『わが愛の城』となんとも甘ったるいが一般視聴者向けに『落城記』を改題したドラマの制作準備が徐々に進んでいた同年5月、前述のように野呂は急逝してしまう。向田は野呂の霊前に座し、この仕事を立派に成就させるとともに本命の『諫早菖蒲日記』をいつか必ず映像化することを誓ったという。かくして『わが愛の城』が完成し、放映されたのは翌1981年10月1日のことだ。だがあろうことか、向田はその直前の8月22日、台湾に向かう旅客機の墜落事故で不慮の死を遂げており、この映像を見ることはなかった。かくて『諫早菖蒲日記』にかけた夢も台湾の空に消えたのだ。

 自分はそのドラマの1シーンをいまも鮮明に覚えている。篭城側のリーダーの一人である若武者を演じるショーケンこと萩原健一が、敵襲で騒然とする城内で城主だったかその娘(これが主人公でドラマでは岸本加世子が演じていた)だったかに対し、汗と埃にまみれた合戦姿で「○○でごんす」と野太い声できっぱりと言い切るところだ。その全身から土の臭いを発散するような表情が実にいい、地に足のついた生活とそれに支えられた土着の信念を感じさせる太く低い声も素晴らしい。歌手としての萩原など評価するにも及ばないが、この演技を見て、この人は役者してなら立派にやっていけると思ったものだった。

 このドラマが放映された当時、自分はまだ20代で長女が生まれたばかりだった。仕事は早朝から夜半に及び、共稼ぎ生活の維持に慣れない育児も加わって目も回るほど忙しく、のんびりテレビましてドラマなど見る暇はなかったはずだが、このシーンだけは不思議にくっきり鮮明に覚えているのである。それほどまでにショーケンが演じた下級武士が放つ存在感が強烈だったということだろう。その後、この人が薬物に溺れてその抜群の才能を自ら埋もれさせてしまったのは周知のとおりである。

 さて、『落城記』についてだが、これは豊臣秀吉の命によるキリシタン鎮圧に参軍しなかったためその不興を買い、佐賀の龍造寺家の侵略を受けることとなった伊佐早(いまの諫早)の西郷家最後の日々を、城主の妾腹の娘の視点で描いた物語だ。野呂の他の作品とは違い「落城」という大事件はあるのだが、野呂の筆はその落城までの攻防もさりながら、むしろこの男勝りに活発な少女に起伏する感性の動揺と成長にぴったりと寄り添って進んでゆく。少女には淡い思いを寄せる別腹の文人の素養が薫る繊細な兄があり、また逆にその少女を密かに思う無骨な若い下級武士がいる。

 城を巡る戦いは苛烈だが、それ以前に凡庸な城主、次々に寝返る重臣、戦闘を前に逃げ出す足軽ら、平凡な人々の卑俗な生への欲望が城の運命をすでに決定づけているのだ。リアリストである野呂の目には戦場の英雄も輝かしい武勲もなにほどのものでもない。野呂が書きたいのは血が通った普通の人間の本当の物語にすぎない。そしてそれは、一筋縄ではゆかぬドロドロとした人間とそれを取り巻く諸関係の実相を描きながら、であればこそ瞬き輝く少女の純粋で小さな思いと矜持、若武者の真っ直ぐな思いと、それらゆえ避けられぬ悲劇をより一層、印象的に描き上げることに成功している。ドラマ『わが愛の城』でそれがどれほど再現されていたかは、今となっては知る由もない。ただ、以前からずっと何故かこの脳裏にしっかり刻み込まれて忘れることがなかったショーケンのあの見事な1シーンが、今回の入院を機にたまたま原作を読むこととなって意図せず再現された不思議を思うのみである。年を取るといろいろなことがあるものだ。

  さて、不思議といえばもうひとつ。野呂邦暢が傾倒した詩人に伊東静雄という人がいる。野呂とは同郷で、1906年(明治39年)に諫早で生まれ京大に入学するまでそこで育った。卒業後は大阪府立住吉中学校(戦後の学制改革以後は住吉高校)に奉職、その後阿倍野高校に転勤してそのまま詩人と教師の「二足のわらじ」の生活を生涯続けた。現代詩の代表的詩人として知られ、処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』(1935)は当時まだ存命の萩原朔太郎から「日本にまだ一人、詩人が残っていた」と激賞されたという。時代の先端をゆく現代詩を多く発表したが1953年肺結核により死去、まだ47歳の若さだった。

 自分も日本現代詩の雄とされた伊東静雄は知らない詩人ではない。といっても、自分が生まれた大阪で起居した文学者というだけのことで、住吉高校と同学区の天王寺高校の生徒であった頃から小野十三郎らと並び関心のある詩人ではあった。だがいかんせん難解で、もちろん日本語として読めはするが、正直言ってたぶん一行も理解はできていなかったと思う。さすがに野呂はそんなことはなく、伊藤は光と輝きを読む詩人だという。そして野呂はその詩世界の根底に諫早の風土があるのではないかと思った。伊藤の葦原の描写などに諫早の本明川河口に広がる広大な干潟の面影があるというのである。だが、二十歳の野呂が伊藤という同郷の詩人を北海道の自衛隊営舎で知った1957年、伊藤は既に鬼籍に入っていたのだから直接それを本人から確認するすべはなかった。

 野呂は自衛隊を除隊後諫早に帰郷、やがて父の病気が癒えて仕事に復帰し次いで大阪に転勤となり、兄と二人が諫早に残って他の家族が父に従い大阪に転居した機会に、野呂はこの疑問を確かめようと伊藤が住んだ大阪府堺市を訪い、大阪湾東岸に広がるこの葦原を見るのだ。真夏のこととあって「堺の暑さは九州の炎暑に慣れていたものにも」辛いほどだったが、「そこに溢れる光は肥前の激烈な夏」に通じると野呂は思う。さらに「ごく近くに広がる海、松の緑に覆われた小丘群、よく耕された肥沃な大地、それに夜の濃い闇と昼のまばゆい陽光」に接し、野呂邦暢は「堺三国丘は諫早と重なり合う多くの類似点を持っているように思われる」(『詩人の故郷』)と述懐するのである。

 この訪問は1961年(昭和36年)、野呂邦暢24歳の時のことである。高度成長が疾走を始めた当時、まだ堺の海岸には葦が生い茂っていたらしいことがわかる。広く埋め立てられて関電の巨大な火力発電所や新日鉄住金の製鉄所をはじめ、多くの化学工場や製造工場が立ち並ぶ不夜城のコンビナートとなっている現状からは想像もできない情景だ。そんな、まだ田園と砂浜ののどかさ残る堺三国丘周辺、より正確に言えば伊東静雄が暮らした堺市三国ヶ丘40番地あたりを24歳の野呂は汗を滴らせながら彷徨したに違いない。そしていま、わたしはその野呂が徘徊した三国ヶ丘の病院に入院してこの事績を知り、いまこの一文を書いているのである。病室の目の前の庭に手ぬぐいで汗を拭う24歳の野呂邦暢元自衛官の姿が見えるようだ。だがそれから56年、海はいまの三国ヶ丘から遥かに遠ざかってしまった。もちろん病室から望めるはずもない。

 余談だが、この一文を書きながら片目で見ていた楽天対オリックスの試合がいま、2-1で楽天の勝利に終わった。エースの則本が好投し、キャプテンの嶋がしぶとく決勝打を放ち、切り札の松井がなんとか抑えて、本拠地でなんと一ヶ月ぶりの勝利である。別に企業としての楽天を応援するつもりなど更なく、その風土に強く惹かれる東北に肩入れしているだけだが、さすがにこれだけ負けが続くと腹が立つ。ホント、たかが野球だ。放っておけば良いものを、下手に関わるからストレスが溜まるのだ。と思いつつ、できない子供ほど可愛いということもあって、やはり見ずにはおられないのである。困ったものだが、まあ、人間とはそういう懲りないものらしいから仕方がない。ところで、先ほど触れた『わが愛の城』放映の頃に生まれた長女だが、長じていま和歌山から大阪や神戸での対オリックス戦はいうに及ばず、わざわざ仙台まで飛行機に乗って東北楽天イーグルスの応援に行くほど熱を上げている。まあ、親に輪をかけてというべきか、親が親だからというべきか。




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 10月1日、退院して4日目、次の診察と抜糸を予定している4日(金)まではドクターストップなのですが、毎月初日に処理しなくてはならない業務があるため、家族に送ってもらって、ちょうど2週間ぶりに事務所に顔を出しました。

 痛みはまだありますが、痛むところは変化しています。手術直後は胸腔内に残置されたドレーンが神経に触る感じの鈍く重い痛さでしたが、それが治まると切開した部分の傷のピリピリとした尖った痛みに変わり、さらにそれがほぼ治まった今は左肺の上下二箇所、組織の切片を摘出した部分が身体の奥深くで時折ズキンと痛むような感じです。さらに、左肺部分にあたる肌がやけに敏感になっていて、動くと衣服に触れる部分がチリチリと痛む感覚もあります。

 そんな状態なので、バス停まで歩くのは無理だしまだ運転もできませんから誰かに移動を手伝ってもらうしかないのですが、やはり仕事場はいいですね。久しぶりに立ち上げたPCは、どっさりたまったメールを受信するのに手間取ったせいか動作が遅く、予定していた単純な仕事に予想外の時間を費やしましたが、なんとか1時間ほどで切り上げて、入院中から気になっていたことがひとつ解決しました。

 でも、そんなことよりやはり、スタッフの顔を見て話ができるのがいい。真正面に穏やかな和歌浦湾を望む眺望が自慢の我がオフィスには私とともに働く5人のスタッフがいて、その全員と声を交わすことが出来ました。あまり時間はなかったのですが、留守中の経過を聞いたり、これから先の仕事について少し意見交換を行ったり、それがいつものように冗談交じりでテキパキできると、いつの間にか痛みも忘れて元気になってきます。金曜日には戻れるかなあ・・

 さて、その他、この間に感じたことを2件。まず、大阪府堺市の市長選はご存知のような結果となりました。大阪都構想が焦点の選挙でしたが、堺市民はそれを明確に拒否したことになります。…というか、大阪都っていったい何ですか? よくよく聞いてみると中身は提案者の橋下くんと同様に徹頭徹尾カラッポじゃないですか。

 要するに橋下という人は、その場その場でちょっと人を驚かせるような思いつきを発言して反応を伺い、それがウケたら後から理屈をつけるって手法でずっとやってきたのであって、大阪都も原発も学校教育も果ては慰安婦問題も、どれもこれもマスコミ受けしているうちはそれに乗ったお祭り騒ぎを演出し、それに浮かれる程度の有権者から支持もそこそこ集まるけれど、今回のように、さてと真剣に考えられると底の浅さがたちまち露呈してしまうってシロモノに過ぎません。まだ油断はできませんが、こんな幼稚だけれど危険なファシズムが息を吹き返さないよう、これからも徹底して叩くことが必要だと思います。

 それともうひとつ、楽天イーグルス、あの感動の優勝の翌日から3連敗。それも、連続完封負けと引き分けで、優勝を決めたあのジョーンズの3点タイムリーヒットから、なんと32回連続で点が入っていない。もしかして、ビールかけの酔いがまだ残ってるんと違うか。このままでは、せっかくリーグ優勝したのに、クライマックスシリーズで競り負ける可能性大だ。 ということで、今夜の日本ハム戦、先発は田中将大だし、これは、気合を入れて応援しないと。
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 9月27日 今朝も雲ひとつない秋晴れの青空が広がっています。写真は病棟廊下の窓から見た黎明。和歌山市の東部を望み、中央のピークは紀州富士の異名でも知られる龍門山です。

 さて、昨夜、楽天ゴールデンイーグルスがリーグ制覇を果たしましたぁ。拍手!

 コジロー、9年前の誕生からこのチームを一貫して熱烈に応援してきました。といって、楽天という会社が好きな訳ではもちろんありません。理由はいくつかあって、ひとつには近鉄バファローズの解体騒動に際して、当時の読売渡辺とオリックス宮内が組んで仕掛けた卑劣な策略への激しい怒りと、その裏返しとしての各球団から捨てられた不遇な選手たちへの判官びいきから、ふたつには山屋として憧れの風土である東北に本拠地を置いたことから、そして三つには、鉄腕稲尾や怪童中西の時代からン十年にわたり応援していたライオンズがドラフトを巡る不正行為に関わったうえ、オーナーがまともに謝りもせず、これで完全に愛想が尽きたことでした。

 昨夜の試合、圧巻はやはり最終回の田中将大投手の投球でした。4ー3で楽天のリードはわずか1点。内野安打に四球が続き、きっちりバントで送られて1アウト2・3塁。対するは西武の打の看板3番栗山、首位打者を狙う売り出し中の4番浅村の主軸です。一本出れば優勝どころか田中の前人未到驚異の連勝記録も吹っ飛ぶ絶体絶命の局面で、田中を胴上げ投手にとの星野の温情がアダとなりかねない状況だったのですが、田中はすべて150kmを超える豪速球8球で2人を連続三振に取り、両腕を高く突き上げて優勝の雄叫びをあげました。これはもう、将来長く語り継がれる伝説の瞬間を目撃しているとしか言いようがない。実に劇的な凄いフィナーレでした。

 が、こうは書くものの、コジローが観戦していたのは「パ・リーグTV」という有料のインターネット中継。一ヶ月1500円でパリーグの全試合を観戦できるシステムで入院の日に契約。2日ほどはトラブルもなく観られたのですが、さてPCの受信状態に何か不具合が起きたらしく、ときどき画像がフリーズしだしました。PCをいくら調整しても直らず、ついにフリーズしている時間の方が長くなったので諦めてスマホでの視聴に切り替えましたが、こちらも間欠的にフリーズする分解写真状態(・・って、若い人には判らないだろうなあ。その昔、TVが普及しだした頃の相撲中継ではリプレイ等なくて、静止画像を次々に映し出すことで対応していて、これを「分解写真」と呼びました)になります。それも肝心なところに限ってフリーズするからイライラの募ること。しかし、田中の最後の投球は奇跡的にフリーズが一度も掛からず、この歴史的瞬間を見逃さずに済みました。

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 さて、話題変わって、これは今朝の院内探検で発見したマーク。自動販売機に貼ってありました。「JAMA」って「ジャマ」って読むの? たしかに自販機って、街の景観を壊したり、空き缶公害の元凶になったりで邪魔な存在ではあるけれど、自分でそう名乗るのに抵抗がなかったのだろうか。・・と思って、病室に帰ってからなんで「JAMA」と略称するのかを日本自動販売協会のHPに行って確認しようとしたのですが、どっこにも載っていないんだよね、これが。

 仕方がないのでグーグルの翻訳で「日本自動販売協会」と入力してみると、出てきた英訳は「Japan Vending Association」。ん〜、これだったら「JVA」になっちゃうよね。で、もう、誰も教えてくれないなら、こっちで決着をつけちゃうことにして「Japan Automatic vending Machine Association」なんてところでどうだ! ん〜、英語は苦手でニュアンスとか良く判らないんだけど、まあ、通じないことはない気がする。けど、なんか、いかにもモッサリした感じだよなあ。(^_^;) 

 さらについで、「JAMA」で検索したら、最初にヒットしたのは実は「日本自動販売協会」じゃなくて一般社団法人 日本自動車工業会(略称:自工会)でした。さすがにこちらは「Japan Automobile Manufacturers Association, Inc.」(略称:JAMA)と、ちゃんとHPで略称の根拠が示してありました。その名の通り日本の自動車メーカーで作る団体で現在の会長はトヨタ自動車の豊田章男社長。という訳で、HPにはTPP断乎推進!なんてことが書いてあります。ん〜、たしかに日本の国民生活を守る上では「JAMA」な団体かもしれないです。

 さて、こんな与太話を書いているうちに、もう10時を回りました。この間にいつもの明るい主治医さんの診察があって手術跡の絆創膏が外され、初めて自分の目で傷を見ることができました。ん〜、五針の縫い跡が鮮やか!(^o^)v さらにその後、呼吸器外科部長の短い回診があり、看護士から退院や退院後の手続きについての書類等が次々に届けられ、いつ退院しても良い状態になりました。今から荷物をまとめ、着替えて、昼食を済ませてから出て行こうと思います。

 そんな南病棟908号病室でいま流れている音楽はモーツアルトのピアノ協奏曲第26番ニ長調K537「戴冠式」。演奏は、イギリス室内管弦楽団、ピアノと指揮はダニエル・バレンボイム。  といったあたりで、17日から書き続けてきた病棟からのブログは、これでいったん置きたいと思います。 ありがとうございました。
 

 9月24日、今日で入院してから一週間になります。見晴らしの良い9階の病室ですが、窓のカーテンをいっぱいに開いてもらっても、ベッドに横たわっていて見えるのはどこまでも広い空だけ。今朝はその空が一片の雲もなく真っ青に晴れ渡り、その中を一羽のトビが悠々と大きく輪を描き舞っていました。こういう情景に触れると、若山牧水の有名な歌を思い出します。

 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 白鳥(しらとり)はもちろんトビではなく純白のカモメだと思いますが、それがたった一羽、真っ青な空と紺碧の海に挟まれた中空を風に吹かれながら漂う情景を想像してみてください。明治時代の歌人である牧水がどのような自意識でこの歌を詠んだかは知る由もありませんが、この世界の大勢に従って染まることを拒み、敢えて貫いた孤独ゆえの寂寥感が見事に謳い上げられています。

 牧水が一羽のカモメに仮託して表現した孤独とはどういった状態なのでしょう。世界保健機関(WHO)がその憲章前文において健康を以下のように定義していることはよく知られています。「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」(日本WHO協会訳)。

 肉体だけでなく、精神状態も合わせて良好であることが健康にとり不可欠の要素であることは、当然理解できることですが、WTOの定義が優れているのは、それに加えて「社会的にも満たされていること」を健康の条件としてあげた点でしょう。では、「社会的にも満たされる」とはいったい、どのような状態なのでしょうか。

 社会には様々な矛盾が蔓延しています。戦争、貧困、差別、格差・・ これらの社会病理はどこの国でも見られますが、特にこの国では政治がこうした社会矛盾を解決する方向に作用するのではなく、むしろこうした社会不安をますます深く広げる新自由主義的な政策が連打されており、そうした意味で国民の健康は社会的な側面からも常に危機にさらされています。

 いつ首を切られるか分からない不定期雇用の労働者、働いても働いても生活費にすら事欠くワーキングプアたちは、到底「社会的に満たされた」状態になく、WTOの定義に従えばとても健康とはいえません。「社会的に満たされる」ということの一つの意味はこうした点にあるでしょう。

 加えて、私はWTOがいう社会的健康にはもうひとつ重要な意味があると思ってます。それは、ひと言でいえば、ある人が、他の誰かから必要とされる存在であるかどうかということです。ヒトは他のヒトと群れになって社会を形成する動物です。ヒトにとりそれが所属するヒトの集団つまり小社会は、それを維持する活動に参加する代償に保護を与える存在であり、こうした社会的関係、所属集団や他者から必要とされる関係の中でヒトは初めて「満たされた」状態で心安らかに休むことができます。

 しかし、先に述べた新自由主義的な政策は、差別と選別、競争と排除の論理とシステムで人と人との繋がりをずたずたに引き裂いています。単に資本が必要なときに人間としてではなく、消耗品のような単純労働力としてのみ呼びだされる存在でしかなくなった状態で、完全に孤立した一人の人間を想像してみてください。それでもなお家族や友人やパートナーから人として必要とされたなら救われもしますが、それすらもないとき・・ こう考えを巡らせてくると、あの秋葉原の事件をどうしても思い出してしまうのですが、言葉の真の意味での「孤独」とは、そうした人間存在の否定に直結するギリギリの厳しい状態を指すのだと思います。社会的健康の崩壊、それが孤独なのです。

 さて、本題に戻りますが、「空の青海のあを」がもし、今のこの国を覆う大勢である新自由主義や改憲の勢力ないしは時代の空気のようなものを指すとすれば、それに染まらないこと、それと闘う存在であり続けることは、むしろ孤独とは対極にある生き方といえるでしょう。それは、資本の横暴にタガをはめてまともな労使関係を構築することで人々の社会的健康を取り戻す大多数の国民の利益にかなう闘いであり、そこに連帯はあっても孤立はないからです。

 トビはもう、ずっと前にどこかに消えてしまいましたが、私には「空の青海のあを」に挟まれた中空を、おびただしい群れとなって飛ぶカモメの大集団が見えるようです。 「空の青海のあをにも染まず」闘う、労働者国民の政治的覚醒を信じたい。

 今日はレントゲンを撮るほかは、超音波式ネブライザでのトレーニングくらいしかすることがなく、痛みもかなりひいて余裕の一日でしたので、ぼ〜っと、景色を見ながら感じたことを流し書きしてみました。夕方5時15分、そういえば病棟で痛みと闘っているうちにもう、秋の彼岸も過ぎたのですね。相変わらず快晴、間もなく、見事な夕焼けが見られそうです。




 

  
写真-2

 9階にある病室からの眺め。和歌山市南部が一望です。


  9月19日、それが手術前の標準らしく、睡眠薬を処方してもらったので、6時半までぐっすり眠りました。3月に受験勉強を始めて以来、毎朝4時には目が覚めるのがすっかり習性になって久しいので、目覚めて周囲が明るいとちょっと変な感じですが、たっぷり睡眠を取っただけあって非常に爽快。窓から眺める世界は雲一つない秋晴れ、持ち込んだ旧式のCDプレイヤーから流れるシューベルトの『美しき水車屋の娘』がピッタリ似合う爽やかな朝です。

 手術は午後3時半からの予定ですが、私を担当する手術クルーが朝から順々に手術をこなして順番が回ってくるのを待つ訳で、その間には長引くのも、短く済むのもあるでしょうから、予定時間にピッタリということではないようです。しかし、朝からその準備は着々と進められていて、口から食べ物をとってよいのは昨夜9時まで、飲み物は今朝9時までということで、9時11分となった今はもう何も口に入れることはできず、その代わり、手術後まで維持される点滴の管が右腕に差し込まれました。

 ん~、なんつうか、点滴の管がついてやっと、すっかり病人らしくなったという感じです。自覚の方はまだ乏しいですが。(^_^;)  点滴液を吊ったスタンドを引っ張って室内をウロウロしていたら呼吸器外科部長が単独でやってきて、聴診器をあてながら体調の確認。それと入れ替わるようなタイミングで今度は担当の女医さんがやってきて、それぞれ笑顔で挨拶して帰られました。「じゃ、のちほど~」って街角で手を振って挨拶を交わす雰囲気ですね。

 かくして、あとはもう、各種自主トレをぼつぼつやりつつ、読書をしながら、お呼びが掛かるのを待つだけです。その間、BGMにしているシューベルトを朗々と歌うのは、ドイツ歌曲の第一人者フィッシャー・ディースカウ。そのときがきたら、やっぱここはディースカウに『冬の旅』で送り出してもらうのがいいな。

 そうそう、ちょっと古い話題で今朝の新聞にも関連記事が載っていたのですが、あの16日、台風18号が猛威を振るっていたとき、竹山堺市長が避難指示が出た大和川の状況などを視察しに行ったことについて、橋下大阪市長がイチャモンをつけているらしい。理由は、「現場が混乱するだけ」「市長は忙しい、一カ所に集中したらよそが手薄になる」「一カ所にとどまって全体を見るのが長の仕事」云々。まあ、そういう見方はあるかもしれないけれど、起きている問題によっては焦点の現場を直接自分の目で確認する必要があるケースもあるでしょう。

 ということで、双方言い分はあるわけですが、お笑いなのは橋下君がこのご高見を、ご自宅からツイッターで発信していたこと。堺市でも大阪市でも、大和川周辺で万単位の住民に避難指示が出され市民の生命と暮らしが脅かされているまさにそのとき、現場に駆けつけた竹山堺市長をせせら笑いながら、ご自分は市役所に出仕すらせず、防災の指揮を執るでもなく、もっぱら安全な自宅のソファーに寝転がって(たかどうかは知らないが)、もっぱらツイッターで遊んでたってワケなんだよね。そこで問題は、あなたなら、どちらが市長にふさわしいと思うかってことだ。コジローなら災害のさなかにツイッターで遊んでるようなボンクラのゴクツブシを市長とは認めない! それどころか、即刻リコールだ。

 橋下という男は、下品が際立つことは何度も書いたし、本質的にノンポリで政治のことなど考えたこともない空っぽな野郎だってことも書きましたが、要するに大阪府知事だって大阪市長だって維新の会だって、ヤツの手なぐさみのオモチャにすぎないのであって、それを扱うのに最低限必要な真面目さなんてカケラもない。マスコミがいくら持ち上げたって、その見下げ果てた薄っぺらで無責任な人間性などいつまでも隠しおおせるものではない。堺市長選はその空っぽの脳天に鉄槌を叩き下ろす機会にしなければならないと思います。

 ・・・なんて興奮して血圧が上がったら、手術に悪いじゃないか。(^_^;)  ので、まあ、今日はこの辺で勘弁しておきます。  さて、もういちどシューベルトでも聴いて落ち着かなくっちゃ。