500人近い人々が殺傷されたフランスのテロ事件。まさに総身の毛がよだつ暗黒の事態だ。音楽やスポーツを楽しんでいる無辜の人々を無差別に殺傷する卑劣なテロに、弁解の余地は全くない。オランド大統領は直ちに国境を閉鎖するとともにフランス全土に戒厳令に近い厳戒態勢を敷き、またテロに屈しないという姿勢をアピールする意図もあってのことだろう、シリア内のIS拠点とされる地域を空爆した。だが、こうした武力による制圧ではテロを防げないことは、すでに明白になっている。

 フランスでは今年1月にも、風刺誌『シャルリー・エブド』が襲撃され12人が殺害される事件があった。これを受けて、テロへの警戒態勢を強化したなかで今回の事件は起きた。さらに翻ってみれば、2001年9月11日の米国同時多発テロに逆上したブッシュ大統領が、「テロとの戦争」を宣言して報復攻撃を開始して以来、暴力がさらなる暴力を呼ぶ形でテロはエスカレートし、現在のISのようなモンスターを生み出してしまったのだ。もちろん直接のテロから人命を守るための武力の必要性を否定はしないが、暴力の応酬は問題の解決にはつながらない。

 今回のテロの首謀者とされるISの行状からは、話の通じる相手ではないのかもしれないという思いが強くする。しかしそれでも話し合うしかないのではないか。ISも「国」を名乗る以上、それを統括する政府があるだろう。テロ組織とはいえ、話し相手がいないというわけではない。当事者である欧米政府とISとの間にはたしかに、絶望的なほどの世界観の相違がある。そうした状況で、合意に至る対話のカギをどこに見出せばよいのだろう。いささか陳腐に聞こえるかもしれないが、それは「平等」という概念ではないか。

 民主制という政治的意思決定の制度は、人間が平等であるということを前提にしてしか成立しない。神のように突出して優れた個人が単独で意思決定をするという制度は王制または独裁であり、特に優れた少数の選ばれた人間が意思決定するという制度は貴族政だが、いずれも圧倒的多数を占める庶民には苛烈な支配となって現象する例が多く、世界の人民は長年の戦いを経て王制や貴族制を打倒し、すべての個人が「平等」に意思決定に参画する民主制を打ち立ててきた。民主制の幕を開いたフランス革命のスローガンが「自由」「平等」「博愛」だったことを思い起こしてほしい。

 だが実際のところ、人間は不平等だ。金持ちと貧乏人、男と女、個々の能力にも住むところによっても職業によっても不平等は至る所にある。しかし、人間は生まれながらにして対等平等であるべきという思想、今は平等ではない社会の構成員が、対等平等に参加する意思決定により最大多数の幸福を実現する社会、言い換えればより平等な社会に接近することができるであろうとの合意があればこそ、民主制は不平等な人間すべてを包み込む政治制度として維持される。

 これは、資本主義社会ではある意味でペテンだ。共同幻想といっても良いかもしれない。実のところフランス革命の旗であった「自由」と「平等」は矛盾する側面を持っている。自由競争で利を得る資本家と労働者の平等な関係などありえないし、自由貿易における先進資本主義国と途上国の平等な関係もあり得ない。しかし、資本家も労働者も投票に際しての一票は平等であり、先進国も途上国も国連の議決権は平等であるという一点で、先の合意はかろうじて維持されてきた。だが、前世紀末の社会主義陣営崩壊を機に慎みを失った資本主義つまり新自由主義(ネオリベラリズム=ネオリベ)は、その名の通り資本の「自由」を無制限に拡張する一方、もう一つの旗である「平等」という共同幻想をあっさり屑籠に放り込んでしまった。

 新自由主義においては、効率よく富を生み出すものこそが正義なのであり、それを阻害するものは悪、そしてそれ以外は要するに無である。かくしてそれまで資本の暴走をかろうじて抑えていた社会的規制は次々に緩和撤廃され、弱肉強食の資本の論理がむき出しの暴力となって世界の貧困層に襲い掛かり格差が急速に拡大、「平等」から遠く隔たり打ち捨てられた貧者の呻吟の中からテロを生む土壌が育まれていった。その結果、ネオリベの総本山としてマンハッタンの世界貿易センタービルが狙われたのはもちろん偶然ではない。ネオリベの傍若無人な荒稼ぎを抑えない限り、テロをなくすことはできないのだ。

 これほど不平等となった世界を否認すること、少なくともそれがあるべき世界の姿ではないということを世界の共通認識にすること。そして、その是正つまり世界の人民が平等に生きられる方向へ目に見える具体的な一歩を踏み出すこと。つまり「平等」という資本主義が投げ捨ててしまったブルジョア市民革命の旗をもう一度拾い上げること。これを基盤にしてしか対話は成立しないのではないかと思うのだ。そして本来であれば、国際紛争において武力に訴えないことを誓う憲法を持つ日本こそが、こうした対話の仲介者として世界で最有望だと思うのだが、いかがだろうか。




スポンサーサイト
 国会も会期末が迫り、安保法案をめぐる情勢は最大の山場を迎えようとしている。安倍総理大臣は昨日14日、安保法案を審議する参院の特別委員会で「熟議ののちに『決めるべきときは決めなければならない』というのが民主主義のルールだ」として、今国会で成立させる意向を改めて示した。世界中で最もふさわしくない人に「民主主義のルール」など教えてもらいたくはないが、大型連休に入る前の今週中に採決することを示唆する発言だ。

 また、同じ委員会の場で総理は、「多くの国民の中で理解が広がっていないという状況も真摯(しんし)に受け止めながら理解してもらえるよう努力していきたい」とも発言している。しかし、これこそが誤解というものだ。政府の不誠実きわまりない説明ですら、国民の中で同法案が戦争法にほかならないとの理解が広がっているからこそ、国民は反対の声を上げているのだ。どの世論調査でも反対は賛成を大きく上回り、さらに今国会で採択する必要はないとの声は、採択すべしとの意見をダブルスコアで引き離して圧倒的な世論となっている。つまり、同法案に賛成の人も含め、今国会での採択に否定的な立場は相当程度広範囲に共有されている。

 民主主義が、その字面通り大勢を占める民意によりことを決する思想並びにシステムであるとするなら、政府及び国会がなすべきは、現下の圧倒的な世論に基づき、同法案を潔く廃案とする以外の選択肢はないはずなのだ。だが、「民主主義のルール」を語る首相は民意などどうあれ、国会の多数にあぐらをかいて成立を強行する考えしかないようにみえる。これだけ明白な反対世論があることを知りながら、なぜそれを一顧だにしない徹底的に反民主的な思考方法が可能なのだろうか。

 これについては、9月10日の朝日夕刊に掲載された豊下楢彦元関西学院大教授の「自己目的化する集団的自衛権」という論考が、最も的を得た回答のように思われた。豊下氏は安保法案の立法事実(どうしてその法律が必要であるかを説明する事実)として安倍政権が主張する「安全保障環境の激変」なるものが、集団的自衛権ありきの結論を前提に取り繕った屁理屈であることを過去の安倍首相の言動から論証したうえ(だから朝鮮半島有事で米艦船が邦人を救助輸送するというありえない珍妙な想定がでてくる)、安倍首相には同氏なりの理想の国家観があり、氏にとっての集団的自衛権はその国家を実現するうえで不可欠の要素だといった趣旨の説明をしておられる。

 安倍首相は04年の著書で「軍事同盟は『血の同盟』だ」と定義したうえで「今の憲法解釈では、日本の自衛隊はアメリカが攻撃されたときに血を流すことはない」として憲法を攻撃している。つまり、「青年が国家の大義のために血を流し、これら青年を国民が熱狂的に支える、という国家こそが本来あるべき国家なのであるが、戦後の日本においては、憲法9条と東京裁判史観によって『骨抜き』にされてきたというのが、安倍首相の根底にある認識であろう」と豊下氏は言う。要するに、安倍首相にとり集団的自衛権は、憲法の制約を突破して氏が想定する「あるべき国家像」を取り戻す課題ということなのだ。豊下氏の論考のタイトル「自己目的化する集団的自衛権」はこのことを表現している。

 以上のような豊下氏の論旨を受けて考えてみた。米国が主導する戦争で集団的自衛権の行使により日本ではない遠い地球のどこかで日本の青年が血を流し命を落とす、これに対し国民が復讐心に燃えて熱狂し挙国一致に団結するような国。それこそが安倍晋三にとっての「美しい国」であり、「取り戻したい日本」にほかならない。これが、国家という抽象的な存在に具体的な形を与える安倍晋三の美意識なのだ。その発想のグロテスクな醜悪さと古さ、さらに言えば幼稚さに身の毛がよだつが、美意識自体は個性の範疇において自由なのであって政策論争の争点にはなりえないし、また個性の発露であるため他の美意識との共存もあり得ない。にもかかわらず、そうした個人的な美意識の実体化を政治の目標とするがゆえに、それを理解しないものの反対など原理的に熔解しえないというのが、安倍政治の実態ではないのだろうか。

 あえて言わせてもらが、これこそがファシズムである。ヒトラーはドイツロマン派芸術を体現する国家、つまり「ナチ第三帝国」を夢想し、それを理想国家としてその建設の邪魔になるユダヤ人や共産主義者そしてさらには民主主義者を徹底的に排撃した。常に妥協の産物としてしか機能しない民主主義政治と、どこもまでも純化してやまない個人の美意識は原理的に両立しない。肥大化した自己像に陶酔するだけでなく、妄想的観念の実現を政治目的とする安倍晋三は、首相以前に民主主義国の政治家としてすでに失格ではないのか。安保法制の行方にかかわらずファシズムの復活を阻止するために、安倍晋三は一刻も早く退場させなければならない。



 たまたまちょっとした偶然が重なって、先日このブログで取り上げた映画『野火』を観る機会を得た。

 塚本晋也監督が主演もして田村一等兵を演じ、リリー・フランキーら芸達者が脇を固めている。ストーリーは大岡昇平の原作をほぼ忠実にたどるが、原作にあったレイテの情景の微細な描写や、田村が現地人の女性を殺害する教会にたどり着くまでの微妙な心の動きなどは、再現するのが困難だったように思われる。しかしこれが、この作品に限らず、人間に潜む無限の想像力を刺激し活用できる文学に比べた映像芸術の限界かも知れない。

 その一方で映画は、飛散する血しぶきと砕けて地上に吐き捨てられる人間の肉塊とそれらが発する腐臭、そして極限的な飢餓の行き着く先を執拗に映像化することによって、この国がかつて行った戦争の戦慄すべき愚かさと残虐さを、原作を読んだ者が漠然と想像しえた域を遥かに超えるリアルさで観る者に提示する。その映像はまさに圧倒的な狂気が支配する地獄の饗宴を描き切って余すところがない。

 さらに、その狂気の世界は、尺(フィルムの長さ)の関係からか、映画ではごく断片的にしか取り上げられなかった日本兵たちの出自に踏み込むことで、さらに非情の度を増すように思われた。

 田村一等兵としばしば行動を共にする中年の安田と22歳の永松の二人組。リリー・フランキー演じる安田には学生時代に過ちから生まれて兄に引き取られた息子がおり、その息子は安田を強く拒否しているのだが、航空兵となった息子が今にも助けに来てくれることを夢想している。幼く気弱な永松は妾の子で父の愛情に飢えており、その感情が永松を道具のようにこき使う安田から離れられなくしている。

 要するにこの2人は特殊な人間ではない。もちろん「本を読んだり文を書いたりする」のが好きなだけの「インテリ」田村もそうだ。さらに他の日本兵も、田村に殺されるフィリピンの女も、飢えて戦闘力もない敗残兵に容赦ない機銃掃射を浴びせる米兵もみんなそうだ。平時であれば、人間関係のいろんなしがらみに繋がれながら、それなりの人生を流され生きてゆく平凡な存在に過ぎない。

 それが、殺人鬼と化しまた飢餓と病気で虫けらのように惨(むご)たらしく命を落としてゆく。田村は安田らに合流して永松が銃で狩り持ち帰る「猿」の肉で命を繋ぐが、それすらもなくなったとき、安田は田村を殺そうとして永松に射たれ、永松は半死半生の安田に飛び掛かって青竜刀で素早くその手首と足首を切断する。それは、「猿」の身体から食料にならない部分を切り捨てる行為だった。そして、実は田村もそうなることを予見していた。

 「怖しいのは、すべてこれ等の細目を、私が予期していたことであった」「もし人間がその飢えの果てに、互いに食い合うのが必然であるならば、この世は神の怒りの跡にすぎない」と田村はいいようのない怒りを感じ、「そしてもし、この時、私が吐き怒ることが出来るとすれば、私はもう人間ではない。天使である。私は神の怒りを代行しなければならない」。 そして田村は永松が安田を「処理」するあいだ放置していた銃を奪い、永松に銃口を向け・・るところで田村の記憶は途切れている。果たして田村は天使になりえたのか・・・

 自分はもちろん戦場というものを知らない。だが、戦争のリアルというものがあるとすれば、『野火』は原作も映画もともに、かつてこの国が行った愚劣な戦争を最も忠実に再現した物語なのであろうとは思う。それは『永遠のゼロ』などが美化してやまない同胞愛や家族愛(百田尚樹の脳みそはなんという「お花畑」なのだろう)などとはおよそ無縁の極限的な地獄の営みであり、それは今もイラクやシリアで繰り返されている。

 これに対する人間としてのまともな嫌悪感、拒否感をこそ大切にしたい。何を言い繕おうが、戦争とは安全な場所から命令する安倍晋三のような無能最悪の権力者のもとで、弱い立場の人々が人間であることを捨てて飢え、血みどろになり殺し合うことなのだ。たかがホルムズ海峡が通れなくなったくらいで、こんな目にあわされてたまるものか!

 これに関連してだが、7月31日、武藤貴也というこれまた礒崎陽輔首相補佐官と同じ安倍親衛隊の若い代議士が次のようなツイートを流した。

 「SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。」

 「戦争に行きたくない」というのは、「極端な利己的考えに基づく利己的個人主義」なのだそうだ。「じゃあ、真っ先にお前が行けよ」と言いたくなるが、それはさておき、たったひとつしかない命を奪い奪われるという極限の状況を想定して、それに「行きたくない」というのは未来ある若者たちにとりあまりにも当然な生命反応ではないか。それを利己主義の一言で切って捨てられる想像力ゼロの感性、その余りの軽薄さにはまことに恐れ入る。こういう人命や人権を屁とも思わない武藤氏のような人物が、立派に受験競争を勝ち抜き京大大学院を出て権力の座にまで至り、「憲法違反だっていいじゃん」という自分中心、極端な軽薄さに基づく反知性主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろう・・とまではまあ思わないが、ともあれこんな連中を政権に就かせてしまったことは「非常に残念だ」。

 戦争を阻止するため、武藤代議士が体現するような軽薄さとは徹底して闘わねばならない。鎮魂の月、8月。今年は尊い犠牲への哀悼を表するにとどまらず、犠牲を生んだ戦争のリアルを身に染みて感じることこそが大切なのではないかと思う。『野火』は小説も映画も、その有力な便(よすが)の一つとなるだろう。            



 作家の高橋源一郎さんが朝日新聞で月一回連載している論壇時評で30日、大岡昇平が書いた『野火』が取り上げられていた。自分は大岡の『レイテ戦記』こそ日本の戦争文学の最高峰ではないかと思っているが、『野火』も同じくフィリピンのレイテ島における自らの体験をもとに描いた傑作だ。

 『レイテ戦記』が当時の日米の力関係や作戦意図なども網羅し、いわば戦場を俯瞰するような視点も交えて重層的に描かれているのに対し、『野火』はもっぱら「愚劣な作戦の犠牲となって」飢えながらレイテ島の山野を彷徨する一兵士、おそらく大岡昇平自身に相違ない田村一等兵の地を這うような視点からのみ、限界状況下であらわになる人間の本質、エゴイズムと獣性とそして聖性といったものを、あえて言えば冷酷なほど透き通った筆致で徹底的に描き尽くしている。

 高橋さんが30日の論壇時評に与えたタイトルは…「狂気」とみなされる怖さ…だった。『野火』は戦後、精神を病む者として病院に収容された田村が、治療の一環としてその記憶から書きおこした手記という体裁を取っている。高橋さんは、その手記で田村一等兵が「まるでカメラと化したかのように、風景や起こった出来事を、異様なほど精密に記録し続けていること」について、それは「狂気が覆い尽くす戦場にあって、正気であり続けるために」余儀なくとった選択であるとしたうえ、「戦場にあって正気でありつづけること自体が、また狂気であることを作者は知っていた」と結んでいる。

 論壇時評で高橋さんはこれに続けて、この『野火』を映画化した塚本晋也さん、3.11以後の反原発デモを映画化した小熊英二さん、東京都現代美術館の催しで「文部科学省に物申す」と題する布に書いた檄文の作品を出品した会田誠さんのエピソードを紹介し、それがこの国の支配的な「社会常識」から逸脱するとして異端視、この時評のタイトルに従えば「狂気とみなされ」、時に排除されようとした事実を紹介している。

 類似の事例はこのところ、公民館だよりから憲法9条擁護デモの情景を詠んだ俳句だけが排除されたこと(さいたま市)、地方公共団体がこれまで毎年してきた憲法集会の後援を拒否したこと(神戸市)、自ら招致した上野千鶴子東大教授の講演会を中止したこと(山梨市)など続発している。こうした事態に至った経過や理由は様々だが、共通するのは社会の支配的な空気に合わないものは避けるということだろう。

 周知の通り、日本国憲法第21条は「.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」として、言論表現の自由を無条件に認めている(より厳密には他の基本的人権と衝突する場合を除くが)。空気に合おうが外れようが、何を言ったっていいというのは、民主主義を成立させる最大の柱のひとつだ。それが、細分化された権力の一部を担う国家機関や地方公共団体やさらにはその出先機関である公民館や公立学校などにより、時の政権の意向を忖度するようにして容易に犯されてゆく点に、この国の民主主義の脆弱さが現れている。

 付言すれば、こうした公権力による言論の自由への恥知らずな侵犯が、「市民の皆様から様々なご意見」を理由に行使されていることも見逃せない。例えば前述の上野千鶴子さんの公演中止は、市民からのメールやブログでの批判などを理由に挙げていた。要するに、現政権の意にそぐわない人間の言論を封じるには、役所に抗議の電話をかければ済むのである。それで足りなければ、メールでもブログでも動員して苦情を投げつければいい。さて、「市民の皆様からの様々なご意見」という擬制民主主義で本物の民主主義を否定するという倒錯が平然と通るほど、この国の行政マンの人権意識は低劣なのだろうか。

 現代にはびこるこの空気はすでに一種の狂気である。狂者たちはもちろん、自分たちの狂気を客観的に認識する能力を持たず、その狂気に同調しない者をこそ狂者として排除しようとする。そして狂気は蔓延し進行すればするほど偏狭になり、それに比例してなおその狂気に染まらぬものを排除する圧力も強まってゆく。最近のネトウヨと呼ばれるものどもの跳梁やヘイトの横行はその現れであり、先日このブログで取り上げた磯崎首相補佐官らの思い上がりもその症状の一つといっていいだろう。それらは、『レイテ戦記』や『野火』で大岡昇平が描いた日本帝国陸軍の病弊とほとんど同じだ。

 しかし、希望はあるのだろう。国会を連日多人数のデモ隊が取り巻き、心ある憲法学者や研究者らが、そして若者たちや女性たちが、全国津々浦々で狂気を糾弾する「正気」の声を上げている。戦争法案の行方は分からないが、それがこうした草の根の民主主義を覚醒させたことは記憶しておきたい。日本の民主主義は間違いなくいま戦後最大の危機に瀕しているが、与えられた借り物の民主主義から闘いとり築き上げる本物の民主主義へ、脱皮する可能性をも胚胎しつつ展開しているのが、目下の政治情勢の特徴ではないかと思うのだ。    



 安倍総理大臣の補佐官で参議院議員でもある礒崎陽輔という人が、7月26日に大分市で開かれた国政報告会で、「何を考えないといけないか。法的安定性は関係ない。わが国を守るために必要な措置かどうかを基準としなければいけない」と発言したことが波紋を広げている。ちなみに大分は氏の出身地。東大法学部を出て自治省に入省し、和歌山県に出向して財政部長なども務めておられるから、わがふるさととも無縁な方ではない。

 それはともあれ、これを伝えるネットのニュースサイトは、「野党から「立憲主義を踏みにじる発言だ」などの批判が噴出した」としているが、この人は3年前、自らのツイッターで「時々、憲法改正草案に対して、「立憲主義」を理解していないという意味不明の批判を頂きます。この言葉は、Wikipediaにも載っていますが、学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか」と発信して、周囲をびっくりさせた過去がある。「聴いたことがない」人に対し「理解していない」と批判してもむなしいし、「踏みにじる」となじっても何ら痛痒を感じはしないだろう。

 礒崎氏が本音で語ったように、「必要な措置」と時の権力が判断すれば、憲法や法律との整合性など関係なく何でもできるということになれば、法治国家はその瞬間に溶解してしまう。憲法や法律は、それを尊重し政策決定や言動の規範とする合意があって初めて意味をなすのであり、その合意が崩れれば印刷された一片の文書に過ぎない。礒崎氏は恐らく、氏なりに国の行く末を思って「必要な措置」を優先することに拘るのだろうが、それがどれほど危険な事かについての内省が皆無であるように思われる点が恐ろしい。

 驚くべきは、こうした人物が国会の憲法審査会の委員を務め、また自民党の憲法改正推進本部事務局次長にして(自民党版改正憲法の)起草委員会事務局長でもあることだ。多くの憲法学者から「明治憲法以下」とこき下ろされたロクでもない憲法改正草案が飛び出してきたのも道理であるが、さらに深刻な問題は、こうした立憲主義も法治主義すらも無視してはばからない、というかそれ以前にまったく理解すらしていない人々が、安倍首相その人も含め現在の政権与党の多数を占めていると思われることだ。

 だが現に、彼らは我々が投票した結果として国会の多数を占め、内閣を組織し、この国の権力を掌握している。選挙制度の不公正はあるにせよ、彼らの勢力がその選挙で勝利したことは確かだ。戦後70年もかけて育てた民主主義は、どこでどう間違って、この国にかくも無知でグロテスクな指導者を君臨させるに至ってしまったのだろう。

 戦争法案は撤回させなければならない、安倍内閣は打倒しなければならない、そのために闘うことは今もちろん喫緊最優先の課題だが、この国の民主主義というものの故事来歴について、もっと深く考えてみることも必要なのではないだろうか。これから折に触れ、それについて書いてゆきたい。