安倍晋三がモリカケ疑惑の追求から逃れ保身を図るだけが目的の総選挙が終わり、安倍の思惑通り自公が勝って終わった。野党の態勢が整わない中での解散だったが、前回の参院選と同様の野党と市民の共闘を急ぎ構築すれば、安倍の卑劣な目論見を粉砕できる条件はあった。だが小池百合子の野望とこれを持ち上げるメディア、次いでこれに幻惑された前原誠司の愚かな裏切りと、さらに信じられないことだがこの裏切りを満場一致で認めた野党第一党の解党で、その可能性は公示前に事実上葬られてしまった。

 小池の思い上がりと前原の愚かさが誰の目にも明らかになる中で、いわゆるリベラルの受け皿として立憲民主党が形成され、それが一定の地歩を占めたことはせめてもの救いだが、我々の前に広がっているのは基本的に、戦後民主主義が思想としてはほぼ影響力を失って立ち枯れ、それゆえ制度としては完全に擬制となって空洞化し、それどころかむしろ専制や特権が自らを正当化する粉飾の道具として利用されるような、焼け跡にも似た惨憺たる情景である。

 内田樹氏はツイッターで「端的に言って、戦後日本社会は「民主主義教育」に失敗した、ということだと思います。それがどれほど「よきもの」であっても、自力で獲得したものではない政治制度を着床させることがどれほど困難か、改めて感じます。」とツイートしている。まさにそこが核心なのだと思う。

 いまさら述べるまでもないが、西欧の民主主義は古代ギリシア、ペリクレス時代のアテネポリスの奇跡的な直接民主主義に淵源を持ちつつ、その後の専制王権や特権貴族制に対する民衆の長い戦いを経て獲得されてきたものだ。その核心は自分の運命は他者から強制されるのではなく自分自身が選択するという人民一人ひとりの自己決定権にある。利益や意見が対立する多くの人間で構成される社会を円滑に運営するには、社会横断的なルールとそれを強制する装置による支配の秩序が欠かせない。社会の成員は基本的に誰であれこの支配の秩序に服する被支配者なのであるが、そのルールを決める際に社会の全構成員が等しい資格で参加するのが民主主義のシステムである。従って、この個人の自己決定の思想と自覚なしに民主主義は機能しない。

 西欧の民衆たちは決して大げさではなく、血で血を洗うような戦いを繰り返し積み重ねてこの自己決定の権利を獲得してきた。もちろん、かくして出来上がった西欧の民主主義が人間社会の統治システムとして完成したものであるなどというつもりはない。ヒトラーの独裁は当時最も民主的と言われたワイマール憲法が定める手続きによって成立した。今日における西欧先進各国の選挙結果やそれによって打ち立てられた民主権力が民衆の利益に反することなど日常茶飯事だし、古代ギリシアの民主主義は多数決でソクラテスを殺した。

 だがそれでも、ひとりの人間、一部の特権集団に自らの生殺与奪に関わる全権力を委ねるよりは、社会全体の意思を集める方が、極端な誤りを侵す恐れは少ないだろうというのが民主主義を採用する意味である。であればこそ自分も、自分なりの意見を持って社会が求める決定に参加しなければならない。少なくともこの程度のことは、長い民主主義獲得の歴史を通じ形成された大人の常識として、西欧民主主義国の主権者意識に共有されているのではないだろうか。

 だが、日本にはそのような民主主義をめぐる本格的な闘争の歴史はなかった。いや、なかったと決め付けると言い過ぎになるが、少なくとも戦後民主主義は占領軍によって与えられたものであり、自ら血を流して勝ち取ったものではなかった。明治維新以来、民主主義の実現を目指す闘争は確かに存在したし、それに命を捧げる先駆者も少なからずおりはしたが、それがこの国に暮らすすべての人々の自意識に及ぶほどの影響力を持って展開されるまでには至らなかった。

 制度としての民主主義は与えられた。だが、それを成立させる思想としての民主主義、つまり自己決定の明確な自覚は、日本の民衆が自らのうちに育てるしかない。西欧の民衆が長年にわたる血まみれの戦いで打ち立てたその主権者意識を、「民主教育」によって育てようとしたのが日本の戦後民主主義だったといえるだろう。

 民主主義を希求する闘争の歴史がない所にその思想を育てようというこの試みは、戦後25年くらいまでの間、一定程度の成功を収めたと言えるかもしれない。それには学校での民主教育と相まって、ベトナム反戦運動や沖縄返還をめぐる市民運動、公害反対運動、労働組合の賃上げ闘争、全国の大学を吹き荒れた学園紛争など、西欧における民主主義獲得をめぐる闘争を疑似体験させるような機会が多くあったことも寄与しただろう。だが、日の丸君が代の強制など教育の反動化、労働組合の右傾化、そして小選挙区制の採用がこうした国民的な民主主義思想の育成を決定的に妨げる。

 政治意識をめぐる世論調査で共通しているのは、左派リベラルの支持率が最も高いのはまだ健全だった民主教育と世界にプロテストを提出する機会に恵まれ60代以上であり、若年層になるほど自民党や安倍内閣への支持率が高いことだ。これは教育の反動化の進行と見事に呼応している。左派やリベラルを支持するのがエライなどと言うつもりはないのだが、少なくともそれは現状に対する異議の提出であり、そうした意味でそれは政策への評価との同調を意味しており主権者の自己決定意識を反映していると言えるが、いっぽう自民党や安倍内閣への支持は、その政策や行状に同意はできないにも関わらず支持していることが明らかであり、それはつまり現状をあるがまま是認するという立場の表明にほかならない。これは殿様が何をしようが仕方がないという封建時代の農奴の感覚、ないしはなにはともあれ多数派に入れば安心という処世術の感覚に近い。

 今回の選挙で、何人か若い人たちの意見を聞く機会があった。今まで一度も投票に行ったことがないと笑う女性もいたし、わからないからみんなが入れるところに合わせるという青年もいた。でも、強調しておくが、彼も彼女も実に「いい人」なのだ。本当に世の中は「いい人」ばかりだと思う。だが、腐りきった政治に文句を言わない「いい人」たちによって民主主義は空洞化し、やがて「いい人」たちは自らの無自覚が招いた悪政のために、それを自らが招いたとは自覚することなく、大きな犠牲を支払わせられることになるかもしれない。内田樹氏がいうように「自力で獲得したものではない」民主主義を、この日本という土壌に定着させることは、事ほど作用に困難なのだというしかない。日本人というのは、自らが属する社会を自ら設計し運営するには到底力が及ばない発達段階に留まっているということなのだろう。戦後70年を過ぎての、まさに無残な光景である。



 絵は「山の晩鐘」。架空の岩壁でビバークの用意をしている情景です。 ホワイトワトソン F10

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 9月21日の木曜日に退院、まあ快調とは言いかねますが、そこそこの体調で毎日を過ごしています。昨日は自分が長く代表を務めた紀峰山の会が茶話会を開いてくれ、久々に気のおけない仲間たちと山の話で盛り上がることができました。

 入院中に会の運営委員会から見舞いに行きたいとのありがたい申し出があったのですが、まもなく退院する見通しだったうえ、自分としてはお見舞いをしてもらうよりはむしろもう一度、山小屋や幕営地で山を見ながら酒類を満たした愛用のマグカップ片手にワイワイやったあの最高の時間を再現したい思いが強く、それを伝えたところ、これを快く受けてくれた結果開かれた集まりでした。会場が公共施設だったことからアルコールは断念せざるを得ませんでしたし山の絶景もありませんでしたが、山小屋の談話室を思わせる温かな雰囲気でたっぷり話し合うことができ、心から満足しました。絶好の登山日和にもかかわらず参加してくれた山の仲間たちに心から感謝です。

 さて、最近の世の中の動き、これほど呆れ果てるような事件がよく続くものだと思う。まず安倍晋三が衆院を解散。だいたい野党が憲法の規定に基づき求めた臨時国会開催を拒み続けたあげく、ようやく開くかと思えば質疑どころか所信表明も行わずなんと開会後わずか100秒で解散。こんなことってあるかあ? 立憲政治などどこ吹く風のあきらかな違憲行為であり、森友・加計疑惑から逃亡する意図むき出しの私利私欲の暴挙だ。しかし、この程度で呆れていたらこの国の劇場政治に付き合えないのであって、小池百合子がかねての手はず通り極右政党『希望の党』を立ち上げ、さらに驚いたことに野党第一党であった民進党が事実上解体して衆院部分がこのできたばかりの極右政党に吸収されてしまった。

 安倍晋三の馬鹿さ加減や思い上がった自己チューぶりは今更いうにおよばずだが、歴史認識や極右の政治路線でほとんど瓜二つの小池百合子が安倍晋三の対抗馬などになりうるものか、少し考えれば分かりそうなものだがそんなことは一切報じられないうちに、あろうことか対抗勢力の中心と目された党が党首の独断で戦わずして消え、これまた信じられないことにこれを「満場一致」で承認した同党の議員らは自らの主張も、これまで共闘してきた市民運動や他野党との信義も投げ捨てて、ただ自らの保身のため独裁女王の前に拝跪するに至ったのだ。人間、ここまでさもしくも卑屈になれるものなのかと、呆れる一方ある意味感心したことでもあった。

 小池が都知事を辞めて出馬するかどうか、希望の党から排除された民進党議員がどう動くか、余談は許さないが、はっきりしているのは自公連合と小池新党プラス維新という右翼2勢力と、共産・社民に旧民進党などのリベラル勢力を加えた護憲勢力という、まあとりあえず政治的な立場が鮮明な形の三極構造ができそうなことだ。もっとも、この三極構造は選挙が終わるまでの一時的な対立構図であって、この選挙が終われば元々同じ穴のムジナである右翼2勢力が大連立して事実上の大政翼賛会が成立、共謀罪を駆使して護憲の一極を弾圧、さらに非合法化し日本のファシズムを完成させるというディストピア(暗黒郷)的未来もありうる事態だ。

 ムジナ同士で唯一異なる政策課題は原発への対応だが、小池の反原発など人気取りのウソに過ぎない。小池自身、日本の核武装を主張して憚らないほどなのだし、連合が反原発を唱える勢力を支持するわけがない。一人前の政党のようにエラソーなことを言うが、希望の党など連合傘下の組合員の動員がなければ政策ビラの配布はおろか、候補者ポスターすら貼ることはできないのが実情なのだ。連合は小池らしいマヌーバー(策略)として口で言ったことの撤回までは望まなかったということだろうが、連合と組む限り小池が軽々しく口で唱えるだけの反原発が公約として実現することなどない。

 かくしてこの国の政治はいま、排外主義と軍国主義が跳梁跋扈する右翼ファシズム一色に塗りつぶれさようとしているかに見える。しかし、安保法制にしても共謀罪にしても原発にしても憲法にしても、この国会の衆院議席配分で表現される政治構造は主権者国民の意識実態とはかけ離れている。こうした深刻な乖離を生み出しているものこそ、小選挙制にほかならない。つまり現に見る右翼の圧倒的多数派形成は制度が作り出した虚構に過ぎない。もちろん、虚構だからといって実害がないわけではないし、その害悪はときとして取り返しがつかないほど決定的なものとなる場合もあるが、それでも虚構は虚構であり、先の大戦における神がかりの天皇制軍国主義壊滅のように事実の前にいつかは崩壊を宿命づけられている。問題は甚大な国民的犠牲を産む前にそれを実現できるかどうかだけだろう。いまや歩くこともままならぬ身としては、今回の選挙がその第一歩となることを祈るのみである。


 以下は、一昨日完成した水彩『古座海景』。 紀南地方の古座という小さな町の海を描きました。左が九龍島(くろしま)、右が鯛島でまさに魚のタイそっくりの形、目にはホントに穴があいています。F20号とこれまでで最大の作品です。

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 今回の入院から一週間が過ぎました。しかし与えられたベッドは廊下側で外部への視界はなく、また眠ろうとするとちょうど常夜灯が目に入る位置にあって煩わしいことこの上ない。これを遮るカーテンにも不具合があってどうにもならないので、せめてこれだけは改善してくれるよう要望していたところ、昨日、別の部屋に移されました。

 移動については、入院当初から、できれば外界が見えるベッドにして欲しいとの希望を伝えていたので、それも考慮してくれたようです。移されたベッドからは、アルミサッシの窓に仕切られた小さな世界ではありますが、クスノキやカイヅカイブキ、カラスザンショウなど暖地の樹木や下草が元気よく育っているのが見え、なにより明るく澄んだ初秋の青空を望むことができるのでした。夜半には鈴虫が盛んに鳴くのを耳にすることもできました。

 と思っていたら、これまでの免疫抑制剤に代えて来週から服用する予定の繊維化抑制剤について薬剤師から説明があり、副作用の紫外線による皮膚疾患を予防するため、窓のない部屋に移ってもらうとのこと。「ありゃあ、なんちゅうこっちゃ」です。その薬に光過敏の副作用があることは以前から知っていましたが、もう外出することもないし関係ないと思っていたところが、「室内でも日焼け止めを塗ってもらった方が良いくらい」とのことです。特に処方のはじめは過剰に思えるほど警戒すべし。とはいえ、そんな窓もない穴蔵のような部屋には断固戻りたくない・・とはっきり言ったところ薬剤師、ん~としばらく考えたうえ、まあ、相談してみましょうということになりました。きっと、ベタベタ真っ白に日焼け止めを塗ることになるんだろうなあ・・

 さて、今の腹立ちテーマは政治家の不倫騒動。民進党のホープと言われた山尾志桜里議員、幹事長に内定していたのに発表の直前に降ろされるどんでん返しがあり、何があったのかと思ったら週刊誌に「不倫」(本人は否定しているのでカッコつきにする)を暴露されることがわかったからだった。本日8日昼時点、山尾氏は離党の意思を表明しているそうだ。この前には自民党の今井絵理子議員の不倫が賑やかに報じられた。その前には同じく自民党イクメン宣言宮崎謙介議員だのまたもや自民党中川俊直重婚議員だの、まあそのときどきメディアはあげて「男女の一線」をめぐり盛り上がってきたのである。

 で、この際いわせてもらうが、「それがなんやねん?」。 有名なエピソードだが、フランス大統領だったミッテランは隠し子疑惑が発覚した際、記者団の質問に対し「ええ、で、それが何か?」(oui et alors?)と答えたそうだ。また、年老いまもなく永遠の別れが近いことを悟った時、自分の生涯で愛し合ったことのある5人の女性のもとに足を運び、一人一人に深い感謝の念を伝えたという。ん~、まあ、ミッテランが偉いなどと言うつもりは毛頭ないし(多少羨ましい気はしないでもないぞ(^_^;))、自民党のオヤジ代議士のように「下半身に人格はない」などという下卑た知ったかぶりに与することもないが、政治家にとり本業の重大さに比べれば男女の関係など「で、それで?」という程度のものでしかないとは強く思う。

 山尾志桜里は政治家として有能であり将来もあると思うから、このどうでもいいことで足元をすくわれるバカバカしい事態は残念でならない。一方、今井絵理子など政治のなんたるかすら知らないというか、そもそも学ぶべき思春期青年期を芸能界でもみくちゃにされた結果なのかそれとも自業自得か、今にして中学生程度の学力も怪しいほどなので、本業の方で使い物にならないばかりか明らかに有害ですらあるのだから、不倫しようがしまいが関係なく、そもそもいま国会議員などさせてはいけない人間なのだ。イクメン宮崎謙介も重婚中川俊直も似たようなものだと思うが、安倍チルドレンには晋三親分以下同程度の低脳が滅多矢鱈に多いので、いささか身も蓋もない言い方になってしまうが、彼らの無能ぶりがいまの自民党議員のスタンダートということになって目立たないのがこの国の「国権の最高機関」の惨状なのである。メディアは、不倫などで騒いでる場合ではない。




 前回、退院してやっと落ち着いて、久々にブログを更新して「さあまたやるかあ」と思っていたら、その翌日の診察で即入院。前回の入院で調整し万全を期して導入したはずの免疫抑制剤の副作用と疑われる肝機能の異常な上昇(標準値の5倍)が確認されたからで、急遽これに対処し、その免疫抑制剤に代わる手段を検討するのが目的です。というわけで、この文章を書いているのはまたもや病室、こうなってくると、どちらが我が家かわかりません。

 さて、目下の腹立ちのテーマは世にはびこりいまや猖獗を極める歴史修正主義。「歴史修正」がまあ通り名となっているのだけれど、「修正」というより、「歴史捏造」または「歴史偽造」ないしは「歴史忘却」という方が正確であろう。いわく、南京大虐殺はなかった、日本軍が関与する慰安婦もなかった、731部隊もなかった、そして今回小池百合子東京都知事がなかったことにしたのは関東大震災における朝鮮人虐殺だ。周知の通り、小池知事はこれまで歴代知事(石原慎太郎という名うてのアナクロ歴史偽造主義者も含め)が行ってきた虐殺された朝鮮人への慰霊のメッセージを、一般の震災被害者と同じ範疇で弔うという論理で拒んだ。

 前述の南京大虐殺以下一連の事件が、「あったかなかったか」などといった次元の問題に論及する気は毛頭ない。んなもん議論の余地などない、あったに決まっとるのだ。殺された人数、殺された人たちの名前、不明なところは多いが事件があったこと自体に疑う余地はない。歴史偽造主義のノータリンども、「なぜそういえるのか、証拠はあるのか」などとしたり顔で突っ込んだつもりで無知を晒すのもええかげんにせえよ。すこしでも真面目に調べてみれば事件ごとにその不動のエビデンスなど掃いて捨てるほどあるのだ。一方、今なお細部に不明なところが多いのは加害者側が徹底して証拠を隠滅したからに過ぎない。軍隊も政府も本質的には殺人犯や窃盗犯と同じだ、自分に都合の悪い証拠は徹底して隠滅してきた。あえていわせてもらうが、日本の支配層はそれが特に際立っているのではないか。

 この夏は、過去の戦争を記録する番組でのNHKの善戦が目立った。安倍テレビと揶揄される政権べったりのNHKだが、制作スタッフにはジャーナリスト精神を持つ職員も健在なのだろう。ビッグデータを駆使した広島での被爆死の実相、狂気と無謀のインパール作戦、悪魔のような731部隊の人体実験、終戦後の樺太の戦闘、列島を焼き尽くした米軍の絨毯爆撃の経過など、いずれもジャーナリスト精神を感じさせる秀作揃いだった。

 で、思うのだが、こうしたドキュメンタリーを制作するに際し、NHKのスタッフがエビデンスを求めて例外なく訪うのは米国やロシアやイギリスやその他の国々の歴史資料館なのだ。そこでは、なんと見事に記録や公文書が保存されていることだろう。それを丁寧に紐解き読み進める中で徐々に真相が掘り出されてゆく。番組を見ればわかるとおり、その中には自国に都合の悪いことも少なからず含まれているが、少なくとも完全に隠蔽されてはいない。そうなのだ、歴史上に生起した良いことも悪いことも、その記録を失ってしまえば振り返ることができなくなってしまう。詳細な記録が残されていた米国やロシアなどが偉いなどと言うつもりはない。そうではなくて、近代国家であれば最低限これがフツーなのだ。

 記録や公文書は国の「カルテ」のようなものだといった人がいる。カルテを失ってしまえば病状がわからない。病状がわからなければ、治療の仕方がわからない。以前に罹患した同じ病気でもまた同じ失敗を繰り返すだろう。まして、悪性腫瘍を良性と見誤れば国は破滅だ。

 この前の戦争の開始時点でも、敗戦必至の戦況でも、さらには全国民の頭上に焼夷弾が降り注ぐ状況になってすらも、自分に都合のよい思考しかできなかったこの国の政府や軍部は、最後の局面では自分の保身を最優先に考え、それに不利となる証拠を隠滅することに全力を注いだ。最近リメイク版も上映されたが、終戦前日を描いた岡本喜八監督の名作『日本のいちばん長い日』では、官僚たちが山のような公文書を焼く映像が繰り返し出てくる。その官僚の指示を受け、地方でも海外の駐屯地(例えばハルビン郊外の731部隊でも)でも同じ情景が見られた。この世界最低最悪の国家指導者たちの敗戦間際の行状に、将来の世代が同じ失敗を繰り返さないよう教訓を残すことを考慮した形跡などまったくない。この国の政府や官僚たちが国民を皆殺しにしても守ろうとしたのは国体つまり自らが保身する国家支配の体制であり、軍が国民を人間の盾にしても守ろうとしたのは軍そのものでしかなかったのだ。

 自衛隊南スーダン派遣部隊の日報の隠蔽、森友学園問題や加計学園問題をめぐる数々の公文書の破棄、国会の答弁で繰り返される大臣と政治家と官僚たちのウソ。彼らに大事なのは保身のみであって、将来のために事実を正確に記録する意思など皆無であることがよくわかる。この国の支配層の吐き気を催すようにグロテスクな隠蔽体質は、戦争当時の政府や翼賛議会や軍部と何ひとつ変わっていない。他所の国の指導者がどの程度なのか論評するだけの知見はないが、この自分のことしか考えない最低のクズどもに国家権力を委ねるリスクは覚悟しておいたほうが良いだろう。この国はマジで危ない。

 そうした近代国家としては恥辱の限りともいうべき公文書や記録の不在に乗じて、自分が気持ち良いように歴史を作り変えるのが歴史偽造主義である。自分たちはそれで気炎を上げてハイな気分で自慰して気持ちがいいかもしれないが、モノゴトには相手というものがある。殺したほうが自作のウソで恍惚としているのを、殺された側が黙って見過ごせるはずはない。侵略戦争が終結して70年も経つというのに、日本がいまだ最も近い東アジアに仲良しの国をひとつも持てない現状は、無様というか惨めというほかない。こうなった主犯は仲良くなろうとする機運が盛り上がるたび、歴史を偽造した発言でちゃぶ台をひっくり返してきた自慰バカどものせいだ。

 まあ以前からわかっていたことだが、小池百合子もそのバカに連なる自慰バカであることを今回の事件は示した。バカには鉄槌を打ち下ろして思い知らせてやらねばと思うのだけれど、まあ、見渡せば大臣も知事も官僚もメディアもバカばっかだもんなあ。鉄槌を打ち下ろす人手が足りない一方、なによりバカどもは権力を持っているのである。ああ、まこと、世も末であるなあ。


 といった次第で、ストレスは溜まるばかりなのだが、そのストレスを相変わらず絵でごまかしている。今回は「南スーダンの難民母子」(ウォーターフォードF8)。モチーフは戦場カメラマン渡部陽一さんの公開作品です。


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 前回の更新から2ヶ月近くが経過してしまいました。実はその最終更新のあと、全然効かない免疫抑制剤を別のものに変更するためひと月近くまた入院する羽目になり、なんとか8月も半ばを過ぎてようやく退院したものの病勢の進行とそれに伴う体力の低下は覆うべくもなく、このブログもこのまま閉じちゃおうかと思ったのですけれど、やっぱ腹に据え兼ねる事が起きると黙ってはいられず、まあ、こんなブログで怒ったところでなんの影響もないのですけれど、取り急ぎ一言だけ。

 放置していたブログを復活させるほどいったい何に腹が立ったかって、要するに昨日早朝の北朝鮮による弾道ミサイル発射をめぐる大騒ぎだ。昨29日5時57分に北朝鮮は平壌付近から弾道ミサイルを発射、自分はバカバカしいの早くから鳴らないように設定を変更しているが、これを受けてJアラートなる「国民保護」警報が携帯電話やスマホなどから一斉に鳴り響き北海道・東北・北関東など12道県の住民に避難を呼びかけた。肝心のミサイルはその頃には北海道南部の500km上の宇宙空間を通過しており、数分後には襟裳岬のはるか東方1200kmに着水したという。要するに、避難など呼びかけることに「国民保護」の必要上何の意味もなかったわけだ。

 北朝鮮がケシカランことは今更言うまでもない。ミサイルが着水した海域には操業中の漁船もあったし空域には飛行中の民間航空機もあった。誤射や空中分解による被害もあり得る。そんなリスクを抱えるミサイルを予告もなしにぶっ放す無法に対しては、厳しく抗議しなければならない。だが、それはそれだ。北朝鮮が日本への攻撃を意図したわけではないし、実際、客観的にみて「北海道・東北・北関東など12道県の住民」に何らかの危険があったとはまったく認められない。北海道南部を通過した地上500kmといえば人工衛星や宇宙ステーションより高い、1200kmというのは「襟裳岬東方」などという表現が適切かどうかってくらい日本の排他的経済水域からも遠く遠く離れた遥かな公海だ。北朝鮮は厄介な隣人ではあるが少なくとも今のところ狂人ではない。北朝鮮のミサイル発射はあくまで米国を交渉のテーブルに引っ張り出すための揺さぶりであって、間違っても交渉相手ですらない日本を攻撃して望まぬ余計な武力紛争を誘発するような愚を犯すはずはないのだ。

 てな程度のことは、我が日本国政府にはもちろんわかっていると思う。というか、わかっていてもらわないとハナシにならないのだが、にも関わらずJアラートを鳴らし、国民に避難を呼びかけるからには、まず薄汚い政権の意図を疑わねばならない。そこには危機感を煽り政権への求心力を回復させようという邪悪な狙いや、戦争ができるよう憲法を変えることへの与論動員に利用したい意図が見え見えだ。だが、朝、テレビをつけてみてびっくりした。全てのチャンネルが通常の放送内容を変更してミサイル一色、民放の一部はコマーシャルをカットし、NHKは売り物の朝ドラを吹っ飛ばした。でもって、当事者たる「北海道・東北・北関東など12道県の住民」が「怖い」「ミサイルが飛んできたらどうするか日頃から考えておかねば」「平和ボケではいられないと思った」などという愚にもつかないコメントを流し、ワタクシから見れば吹き出すしかないほど滑稽な「ミサイル避難訓練」の映像を流すのだ。そう、これらを繰り返し繰り返し延々と流すのだ。

 これは現代に再現された大本営発表にほかならない。前回の戦時に比べメディアは多様化したが、それらはほぼ例外なく一瞬で政府のスピーカーになることがわかった。一方、往時、バケツリレーで焼夷弾空襲に、また竹槍で戦車に対抗しようとした従順で非科学的で権威主義的で付和雷同する皇国臣民も健在で、バカバカしいことこの上ない「ミサイル退避訓練」に可哀想な子供たちを巻き込み大真面目で取り組んでいる。まともな批判精神などどこにもない。安倍晋三とそれを取り巻く極右どもはアホだが、この国に分厚く分布するそれ以上にアホな国民の同調圧力と軽薄なメディアのグロテスクな相聞歌が、きっとこの国を再び滅ぼすことになるだろう。もちろんそれを喜ぶわけではないが・・・