あのトランプ氏が米国大統領に選出された。もちろんトランプなんてホラ吹きのレイシストなどが好きなわけはない。ヒラリーも好きではないがまああのギャグ漫画みたいなトランプに比べればまだマシ、というか政治家としてははるかにマトモだから、この結果は甚だ面白くない。しかし、驚天動地とか世紀の番狂わせとかいうけれど、何度も繰り返された大メディアの世論調査も出口調査もしたり顔の専門家とかの情勢評価も、ことごとく外れたのはむしろ小気味いいほどだ。

 今回の大統領選で考えさせられたのは、事ほどさように「何が起こるかわからん」民主主義という制度について。

 それについて書く前にひとつだけ確認、得票で優ったヒラリーだったが、独特の選挙制度のせいで当選したのは得票数で劣るトランプだった。これは米国の制度が民主主義のシステムとして大きな欠陥があることを示している。だがこの点については、選挙区による一票の価値の大きな格差や3割の得票で7割の議席を掠め取る日本の選挙制度はもっとひどい。そうした意味で、民主主義はこの両国において制度面でなお実現していないのだが、この問題は今回のテーマではないのでここまで。

 といった次第で甚だ欠陥の大きい不十分な選挙制度ではあるのだけれど、ともあれその選挙制度が定めるルールに従ってトランプは大統領に選出された。それで思ったことが二つ。民主主義とはなんと危険なシステムであることか。そして民主主義とはなんと偉大なシステムであることか。

 まず、先にも書いたように大方の予想、あえていえば期待も含めた米国そして世界の想定を、米国の有権者は見事に裏切った。当初は泡沫と思われていたガサツで見るもおぞましい風体の成金のオッサンが、あれよあれよという間に大統領になってしまうのだ。だが、このまったく望まれなかった結果を誰も覆すことができない。王様や教祖が出てきて結果を否定することもなければ、軍がクーデーターを起こして選挙結果をチャラにするミャンマーのようことも起きそうにないし、ウオール街の支配者とかユダヤの闇の政府とか、陰謀論好みのシナリオが威力を発揮した形跡もない。巷に渦巻く無数無名の人々が形作る巨大な意思が最終決定となるのだ。よくよく考えてみれば、これは凄いことではないだろうか。たとえ結果がどうであろうと、ともあれ民衆が最終決定を下しそれが覆らないという民主主義のシステムはやはり偉大だと思う。

 次いで民主主義の危うさ、「たとえ結果がどうであろうと」という点についてだ。ぶっちゃけ、トランプなどという人はそもそも民主主義と相容れない思想のキャラクターなのであって、少なくとも民主国家の首長などになってはいけない欠格者ではないか。参政権の平等はもちろん民主主義の大原則で誰が大統領になろうが自由なはずなのだけれど、それはまあタテマエというものであって、例えば女性を蔑視したり他民族や異教徒や移民を差別したり、民主主義の因って立つ思想を敵視し民主主義を破壊するような人物は民主国家の代表にふさわしくないから、本来、選ばれるようなことがあってはならないのだ。

 しかし、自らを葬る選択も許してしまうのが民主主義というものなのだなあ。そういえばヒトラーだって当時最も民主的と言われたワイマール憲法下で民主的に実施された選挙で権力を握り、民主主義を葬り去った。翻って日本では、安倍晋三や石原慎太郎や橋下徹なんて民主主義の敵を国や地方自治体のリーダーとして民主的に選んでいる。今回のトランプショックは、それと同じことが米国でも起きたに過ぎないんだよなあ。ん~、なんつうか、今回のトランプの件、民主主義を本当に人類の幸福に役立つシステムにするには、まだまだ時間がかかりそうな気がした事件ではあった。もちろん、ガッカリばかりしてるわけじゃないのだけれどね。



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 またいやなものを見せられた。
 昨日朝、舛添要一東京都知事が辞意を表明。これで、これまで氏の「みみっちい」金の使途を巡り繰り広げられていた狂騒は一段落、メディアは次の都知事候補に目される顔ぶれをあげて、またぞろお祭り騒ぎの準備に怠りない。

 で、その映像では都民がインタビューに答えて小池某だの蓮舫某だの果てはアイドルのオヤジ殿だの橋下某だの、喜々として挙げているのだから呆れ果てる。もちろん編集する側の意図が働いて作られた映像に違いないのだけれど、過去の選挙結果や繰り返し安倍の支持率にびっくりさせられる世論調査の結果等に照らして、まあ、これがいわゆる我が主権者たちの平均像とそう遠くないことは認めざるを得ない。

 舛添氏の体たらくはお粗末の限りで弁解の余地はないし、辞任もやむなしとは思うがしかし、ここに至るまでの国を挙げての連日のバッシングぶりはどうだ。あえて「たかが」と言わせてもらうが、舛添問題とは要するに政治資金で趣味の絵画を買ったとか漫画本の「クレヨンしんちゃん」を買ったとか、別荘に公用車で行ったとか、正月に家族連れで泊まったスパランドで会議をしたとかしないとか、もちろん放置はできない腐敗ではあるものの、それで首都の政治経済福祉等に何か大問題が起きたというものでもない。まして、日本国レベルで何か不都合が起きるものではない。え?、リオ・オリンピック? んなもの、ブラジルでは一言も報道されちゃいないそうだ。五輪旗の受け取りなんて、誰が行ったっていいんだよ。(コジローは「ウソと汚いカネにまみれた東京オリンピックは返上」が正道と思うが、それはここでは置く)

 都知事の無駄遣いや腐敗といえば、あのアナクロ石頭じゃなかったアナクロ石原の方がはるかにひどかったという。石原は都庁に出勤することすらめったになくヘイト発言で老害をまき散らすばかりだったのだ。といった次第でその性根の悪さの程度で言えば、舛添などハダシで逃げ出すほどなのだが、メディアも都民も石原を叩くことなど一切なかった。要するに、相手次第なのだ。どこからかサインが出るのか、それとも空気を読んでの自然発生なのかはよくわからないが、叩いても許されるとなれば一気に多数を頼んでとことん徹底的なバッシングの嵐になる。で、これに都民も国民も大喜びで追随してお祭り騒ぎになるのだ。このメディアと国民とが共鳴しあっての付和雷同ほど不気味で恐ろしいものはない。冒頭に「またいやなものを見せられた」と書いたのは、この国に暮らす普通の人々の間に根強くはびこる軽薄さと一種の狂気をまたもまざまざと再確認させられたからだ。   

 今更いわずもがなかもしれないが、政治とカネの問題なら、甘利明経産大臣TPP担当相やその秘書が業者からUR(都市再生機構)の道路用地買収の補償問題で「口利き」を依頼され、金品を受け取った疑惑の方がはるかに重大だ。こちらは、「クレヨンしんちゃん」どうこうなどという牧歌的な話ではなく、それによって特定業者が得る利益の一部を還元させる代償に、大臣ないしは有力政治家の立場を利用して国家行政をゆがめたという問題なのだ。こんな手合いを無傷で放置しておいて民主政治が機能するはずはない。

 その甘利は野党の追及に耐え切れなくなって今年1月末に大臣を辞したのち、2月16日に「睡眠障害で一カ月の自宅療養が必要」というなんともうらやましくも都合のいい診断書を提出して逃亡、一カ月過ぎると「さらに2カ月自宅療養」の好都合診断書を再び出して隠れ、その2カ月たった5月16日以降は診断書なしの「ずる休み」を続け、6月1日、野党が疑惑を追及できる国会が閉会したのを見届けて同月6日、突如復帰宣言をして政界に戻ってきたのだ。

 検察はあっせん利得処罰法での立件を見送ったが(これ自体おかしい、まもなく始まる検察審査会での審査に注目だ)、政治的道義的責任はまぬかれない。だが、国会閉会中も開催可能な政治倫理審査会は25委員中18人を自公が占めており、よほど世論が盛り上がらなければ開催される見込みはないが、メディアは一言も報じない。ついでにいえば、政倫審は疑惑をもたれた政治家が自らの潔白を証明するために開催を求めることもできるのだが、甘利がそんなことやるはずはないだろう。

 一方、舛添の方も、問題は結局うやむやのままで真相は依然闇の中(例えば正月に会議をした出版社社長とは誰か)なのだが、これを解明するうえで議会の宝刀となるべき百条委員会設置の提案は自公の反対で葬り去られた。だが、メディアはこうした事実もほとんど伝えない。では、これまであれほど追及してきたマスゾエ疑惑報道とは一体何だったのだ。付和雷同世論と一緒になって首さえ取れれば、それで祭りは終わりなのか。

 コジロー同様、今回の舛添騒動を冷めた目で見ている人も少なくはないと思う。舛添を推した「製造者責任」に頬かむりする自公に対し、参院一人区同様、市民主導で統一候補を模索する動きもある。まもなく参院選挙、そしてまたぞろ都知事選。それがこの国の正気と狂気の程度を図る指標となりそうな気がする。 



 「綸言(りんげん)汗のごとし」という古代中国由来の格言がある。綸は太い糸、帝王が発する言葉は細い糸のように些細なものでも、重大な効果を及ぼすことから綸にたとえられ、それゆえいったん口にした以上、かいてしまった汗のように元に戻すことはできないという意味だ。 ひるがえって、およそ人の上に立つ者、言ってしまったことは取り返しがつかないことを肝に銘じ、十分その結果を熟慮して言葉を発しなければならないとの戒めも込めている。

 今更ながらだが、我が首相の言葉はあまりにも軽すぎる。軽いどころか、品のないヤジもあれば周囲が赤面するような傲岸不遜な自慢もあり、さらにウソも平気でつくという調子だから、糸ならすでにちぎれて用をなさない程度の代物だ。そんな首相の軽口の中でも今回のG7における「リーマン危機前夜」という妄想発言にはさすがに恐れ入った。こんな人物をいつまでも首相にしておいていいのか。

 誰もが知っていることだが、これは公約であった消費税増税を回避せざるを得なくなった言い訳を、自らの失政による日本経済低迷を棚に上げて外部環境に求めるための下手な芝居にほかならない。ドイツのメルケル首相はじめ他の首脳らはさすがに同調せず、猿芝居は不興を買うだけだったが、三文役者はへこたれないのであって、「危機感を共有した」とまたしも平気でうそをつく。

 問題はいくつもあるが、まず、この安倍首相の経済情勢認識は安倍内閣のそれとは正反対ということだ。安倍内閣はこのトンデモ発言のわずか3日前の24日、経済関係閣僚会議で現下の経済情勢について「全体としては緩やかに回復している。先行きについては、緩やかな回復が続くことが期待される」としている。それから何の調査も手続きもなしに、その内閣の責任者の口から「危機前夜」という警報が出るのだ。今の内閣の閣僚の面々、これだけコケにされてなんで怒らないのかわからない。ま、言葉の軽さについては同程度だから、怒るって感覚もないのかもしれないけど。

 次いで、では安倍がG7の首脳たちに得意満面で回した資料についてだ。第一次産品の下落率など、リーマンショック前に類似したデータをつまみ食いしてまとめたもので、不動産バブルの崩壊というリーマンショックの本質とは何の関係もない紙屑だが、こんなもので世界の首脳たちをけむに巻けるとマジで思っているらしいこの男の脳みその程度が、日本国民としては本当に顔から火が出るほど恥ずかしい。

 しかも、これはびっくり仰天もいいとこなのだが、この資料を作ったの誰かが外務省も内閣府もわからないらしい。正式の外交交渉で国の代表が使用する資料を、それを支える事務方が一切知らないって、ええ?、そんなことが現代の外交でありえるのか? ってことは、「リーマンショック前夜」って言えるデータをかき集めることを目的に、誰かが作成した怪文書じゃないか。そんないい加減な怪文書まがいの図表類を、世界の首脳たちの前に得意そうに晒すバカをどうすればいいのだ。

 それから、もし万一、G7の閣僚たちが例えば苦境に立つ安倍君に対する惻隠の情から、「危機感を共有」したとしたらどうなったか。世界経済を引っ張る経済大国の責任者がそろって「リーマンショック前夜だあ!」と叫んだ情景を想像してみてほしい。世界の株式市況、原油相場、金融界、投機筋はどのように反応したか。彼らにとっては、首脳たちの発言が真実かどうかは二の次で、ともかくそれが呼び起こす波動に乗っかって儲けられさえすればよいのだ。利ざや目的の空売りが空売りを呼び、市場が大混乱する可能性は非常に大きい。下手すれば、ウソから出たマコトで、リーマンショック並みの金融市場暴落が起きてもおかしくはなかった。生き馬の目を抜く市場に限っては、現代も首脳たちの言葉は「綸言」に近い重みがある。慎重のうえにも慎重でなければならないのだ。

 はあ、もう書けば書くだけ嫌になるし情けなくもなる。なんで我々は、こんな自分のことしか考えられない史上最低の人物を内閣総理大臣にしてしまったのだろう。なにがなんでも、次の選挙で痛い目に合わせなければならない。



 安倍首相がいま開催中の衆院予算委員会で憲法改正への意欲を表明した。改憲自体は日本国憲法を敵視し、戦前体制への回帰をめざす首相の本願でありいまさら驚くにはあたらない。驚いたのは、その必要性を説くために挙げた理由だ。首相は「憲法学者の7割が、9条の解釈からすれば自衛隊の存在自体が憲法違反の恐れがあると判断している」「この状況をなくすべきではないかという考え方もある」と述べた。つまり、自衛隊の存在すらが違憲という憲法学の多数派の意見を容認したうえで、自衛隊が合憲となるよう憲法を変える必要があると説いたのである。

 開いた口が塞がらないとはこのことだ。急迫不正の侵略行為に対し自衛の措置をとるのは憲法9条も否定していない国家固有の権利であり、それゆえ専守防衛の範囲であれば自衛隊も合憲としてきたのが歴代自民党政府の憲法解釈だった。この憲法解釈でも「専守防衛」の範囲を超えるため認められないとしてきた集団的自衛権を、閣議決定だけで合憲と変え、さらにそれを法制化までする無法を押し通したのは安倍首相自身である。

 今回、安倍首相が持ち出した改憲の必要性は、これまで圧倒的多数の憲法学者の意見を無視し合憲だと強弁して推し進めてきた集団的自衛権容認の全論理が、ウソだと認識したうえでつき通したウソと白状したに等しい。これほど国民、国会、さらには世の中を愚弄する態度は、首相に限らず政治家に限らず、およそまともな社会人ならあり得ないのではないか。にもかかわらず、安倍晋三にはそれを恥じる様子も悪びれる風も一切なくケロッとしているのだ。まともな神経を持つ人間なら信じられない光景ではないか。

 そう、この光景には既視感がある。あの東京オリンピック招致の演説での「アンダーコントロール」発言だ。福島第一原発の事故が収束していないことが誰の目にも明らかな状況でのこの発言に一瞬、耳を疑い、目がテンになったことを思い出す。処理不能の汚染水は増え続け、核燃料が今どんな状態にあるかは誰にも不明で、実に13万人の被災者が故郷を追われいまだ日本各地を放浪している。いったい、どんな神経があればあのようなあからさまなウソを平気でつけるのだろう。

 もう20年近く前に出版された『平気でうそをつく人たち』という書物がある。サブタイトルは「虚偽と邪悪の心理学」、著者は米国の精神科医で心理療法カウンセラーを営むM・スコット・ベック。当時ベストセラーの一角を占めたから、読まれた方も多いと思うが、著者は自らの診療経験から世の中には常人では想像が及ばないほど「邪悪な人間」がいると確信するに至り、本書の中で具体的にそうした人々との対話を提示しながらその精神病理を究明してゆく。

 詳しく紹介する余裕はないが、世の中にはたしかに「平気でうそをつける人間」が存在する。それは必ずしも監獄や悪の組織に棲息する人間というわけではなく、どんな街でも見かけるごく普通の人で学歴や社会的地位も様々だ。つまり一見普通なのだが、彼らに共通するのは自分には欠点がないと思い込み、異常に意志が強く、罪悪感や自責の念に耐えることを拒否する一方、他者に責任転嫁する技能で異常に優れ、対面や世間体のための努力を惜しまず、他人に善人だと思わることを強く望む、とベックは要約している。ベックは彼らの巧妙な責任転嫁の手法や隠微なウソを再現しながら、こうした人々の精神の核にあるのがつまるところ、「過度のナルシシズム」であることを解き明かしてゆくのだ。

 周知のとおり、安倍晋三のナルシシズムは見ていて気持ちが悪くなるというか、見るに堪えないほどに強い。国会の答弁はひとことで評せば無茶苦茶だが、一貫して尊大で、答弁に詰まれば責任転嫁で逃げる論法は手練れている。過去の皇軍の侵略や慰安婦問題の取り扱いでは罪悪感を受け止められない弱さがのぞく一方、自らを格好良くかつ親しみやすく見せる努力は欠かさない。政治家とはおしなべてナルシシズムの強い人種だろうと思うが、これほどまで極端な例は珍しいだろう。安倍晋三こそまさに、ベックが描き出した「邪悪な人」そのものではないか。

 ベックは、常人とこうしたある意味での異常者が争った場合、異常者が勝利するケースが多いことにも言及している。それは、勝利や名声に対する渇望の強さ、勝つために手段を選ばない非情さ、他者を蹴落とすうえでの仮借のなさなどで、異常者のパワーは常人をはるかに凌駕するからだ。ドイツを破滅のふちに追いやったヒトラーはまさにそういう人間だった。「ウソも100度繰り返せば真実になる」「ウソをつくなら出来るだけ大きなウソが良い」というのがヒトラーのやり方だ。ふたたび日本に登場した「平気でうそをつける」首相は、この国をどこに導いてゆくのか。  



 
 昨日28日、日韓外相がソウル市内で会談し、両国間の懸案であった慰安婦問題について「最終的・不可逆的に解決」することで合意した。一昨日の本ブログでも書いたが、両国の閣僚が直接会うのは、あらかじめ妥結のシナリオが用意されておればこそなのであって、合意自体に驚きはない。ただ、そのブログでも指摘した首相サイドが忌避していると伝えられる「責任」という文言が日韓外相の共同記者発表で「あっさり」入ったこと、元慰安婦を慰撫し支援するための財団を韓国政府が新たに設立しこれに日本政府が10億円を拠出することの二点が予想外だった。

 慰安婦問題の最大のキーワードは「法的責任」だ。韓国側は日本軍慰安婦は当時の国際法国内法に照らしても違法であったのだから、その当事者である日本政府は違法行為を謝罪しその証として元慰安婦に賠償を行えという立場、一方日本側は、日韓の法的な問題は従軍慰安婦制度が違法かどうかに関係なく1965年の日韓請求権協定で解決済みという立場だ。これに対しさらに韓国側は、同協定で国家間の問題は決着しているとしても、個々の被害者への日本の法的責任は未解決としている。

 こうした韓国の主張の背景には、当時の日韓の経済的格差などから不本意な協定を呑むしかなかったという屈辱の記憶、戦後40年を経て韓国に民主主義が定着する中でようやく元慰安婦らが自らの存在を表明することができた現実もあり、国際法の基準では一律に裁断できない事情が横たわっている。が、だからといって日本も譲れない。政治は建て前の世界だ。長年引き継いできた建て前は余程のことがない限り変更できない。こうして双方の建て前が非和解的に対立したまま時間が経過し、置き去りにされた多くの元慰安婦が無念のうちに世を去っていった。

 河野談話は、この建て前を崩さず本音の部分で韓国側の求めに応じる政治の知恵だった。談話は「法的責任」には触れないが、実質的に日本国家の責任を認め、元慰安婦に首相が送った親書は「道義的責任」を明確に認めた。「道義的」の意味は一昨日のブログに書いたとおりだ。だが、当初はこれを歓迎していた韓国政府もあくまで「法的責任」の建て前にこだわる韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の反発を受けて批判に転じ、解決は先送りされて今日に至っている。

 昨日の合意はこの問題について単に「日本政府は責任を痛感」と表現、かつての「道義的」の文言を取り去ることで日韓の建て前を両立させるものだ。「法的」と書いていないことで日本側が、また「道義的」を取り去ったことで韓国側が、それぞれ自らの主張を一貫させたと主張することが可能となるからだ。だからといって「道義」が打ち捨てられることがないよう願いたいが、これが外交の知恵というものだろう。率直に評価したいと思う。

 もう一点、韓国が設立するという元慰安婦への支援を目的とする財団に日本政府が10億円を拠出するという話。この財団は河野談話の際に設立された「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を実質的に引き継ぐものだが、これを韓国が設立するというのがサプライズだった。韓国側はこれまで「法的責任」と一体のものとして元慰安婦への日本政府の支払いによる「賠償」を求めてきた。これに対し日本側は「法的責任」と関係なく人道的立場から民間資金を集めて「補償」するとし、やはり建て前は譲れないものの本音の部分で柔軟に対処しようとしたのだが、やはり韓国国内の強硬な批判で元慰安婦を慰撫する十分な効果を発揮できないまま頓挫してしまう。

 今回の措置は先の「責任」問題同様、こうした両国の建て前を両立させる苦心の作だ。韓国側は民間基金ではなく日本政府が資金を提供するようにしたことで実質的に「賠償」を取ったということが可能だし、日本側は元慰安婦への直接支払いではなく韓国の財団をフィルターとして通過させることで「法的責任」に伴う賠償ではないと主張することができる。やはり外交の知恵が発揮されたというべきだろう。

 問題は、こうした苦心を両国の政治家や運動団体が理解できるかだ。ここに書いたように、これらの合意は玉虫色の繊細なガラス細工に過ぎない。伝えられるところでは挺対協内にはやはり「法的責任」が不明だとして、今回の合意を非難する動きがあるという。このような原理主義が再び力を持てば、韓国政府は困難な立場に追い込まれる。逆に嫌韓を声高に叫ぶ日本のヘイトグループの妄動やこれに毒された政治家の愚かな妄言が再び繰り返されれば、壊れやすいガラス細工はたちまち崩壊してしまうだろう。歴史的な合意を成立させたからには、日本政府にはこうしたヘイト言動や歴史修正主義の表れに対し、毅然とした態度をとることが不可欠の義務であることを強調しておきたい。