昨日、文科省が「総理のご意向」「官邸の最高レベルが言っている」などと記されたいわゆる加計文書について再調査することを表明した。朝日新聞のスクープ、それに続く前川前文科省事務次官の証言、さらに文科省内からの匿名の告発を受けてすら、カエルのツラにションベンそのままに菅官房長官はシラを切ってきたのだが、ここにきてついに与論の怒りに抗しきれなくなったということだろう。

 その再調査の手法も期間も明らかでなく、これまでの安倍政権の行状から見て公正な調査が行われるとは到底思えないが、ともあれ舞台は第二幕に移った。これからはこの調査ついての報道が増えるだろうが、しかし問題の焦点はあくまで安倍らによる国家行政の私物化にある。安倍晋三記念小学校をめぐる疑惑も未解明だし、安倍ヨイショ本を書く売文屋がそれゆえにというべきか、準強姦罪で逮捕状が出ていたにも関わらず執行されず放免されたという放置国家にありえない無法の背景も解明されなければならない。

 お隣の韓国では国政を私した大統領を民衆が巨大なデモのうねりで権力の座から引きずり下ろした。サッカーでも市民運動でも韓国の民衆の血は熱いのだ。隣接する大国に対し民族の自立を維持するため突っ張ってきた歴史か、それとも毎日摂取する大量の唐辛子のせいなのか、不公正に対する激しい怒りの背景に何があるのかは知る由もないが、これに比する日本のメディアや民衆の静けさというか大人しさは、まあ行儀が良いとは言えるかもしれないが民主主義の担い手としてはいささか心もとない。なぜ腹の底から怒らないのか。

 このあたりは、「POST TRUTH」でまた書くとして、とりあえずは「紀峰の仲間」に連載中のコラム「植物百話」の最新号を以下に転載。今回のテーマはマツです。




  植物百話

        マツのストレス耐性戦略


 重いザックを背に黙々と登り続けてようやく尾根に出る。ホッと息をつき汗をぬぐいふと気付くと周りは明るい松林。登山者なら誰でも経験したことがある情景です。日頃からなじみ深いマツですが、植林地を除けば山麓の暗い樹林帯にはほとんどなく目にするのはもっぱら明るい尾根に出てからです。また、日本の林業では昔から「尾根マツ谷スギ中ヒノキ」といって、マツは尾根に植えるものとされてきました。どうしてなのでしょう。

 「適地適作」といいますが、植物にはそれぞれ生育の適地があります。で、マツの場合は尾根が適地、か?というと、そう単純な話ではありません。マツは本来、よほどの湿地でなければ中腹でも谷でも良く育つのです。現に東北でよく見かけるアカマツの植林地は結構山裾まで広がっています。しかし自然状態では、他の多くの樹種にも適地である中腹以下は生存競争が厳しいため競争力に乏しいマツは撤退、やむを得ず生育条件の悪さから他の樹種が見向きもしない尾根や岩場などに張り付いて生き延びているのが実情なのです。

 マツが生育する尾根や岩場は、植物に不可欠な水が不足するうえ季節風に晒されて乾燥しやすく、また土壌中の養分が雨水とともに下部に流出して栄養条件も良くないなど、植物の生育に不利な条件が揃っています。しかしそれゆえ競争相手も少ないことから、あえてこうした悪条件の地に根を張ることで厳しい生存競争を生き延びてきたマツのような植物もあり、こうした生き方を専門用語で「ストレス耐性戦略」と呼びます。

 では、マツは前述のような植物生育上の悪条件=ストレスをどのようにして克服しているのでしょうか。実は、多くの菌類の助けを借りているのです。

 太古、植物が陸に進出するには菌類の助けがあったとされ、現在も多くの植物は根に菌類を住まわせて光合成産物を与える一方、菌類が土壌中に広く張り巡らせた菌糸で集めるリンなどの養分や水分の供給を受けています。マツの祖先を含む裸子植物が地上に出現したのは3億6千万年前で、現世界の主役である広葉樹など被子植物が出現する1億4千万年前より遥かに古く、この長い時間にマツは広葉樹などに比べはるかに多くの菌類と共生関係を取り結んできました。というか、マツと菌類は共に進化し分化して今日のように多様な共生ネットワークを築き上げたのです。キノコは菌類の花に相当する器官ですが、松茸や松露(ショウロ)などマツのみに付くキノコの多さからもそれが知れるでしょう。

 マツはこのようないわば「菌友(きんとも)」の多さを武器に他の樹木は生きられない荒地で生き延びてきました。それは山だけでなく海岸も同じです。「白砂青松(はくさせいしょう)」は日本的絶景の代名詞で、これは海岸の砂地や岩礁にクロマツがしぶとく根を張ればこそ成立した景観ですが、人手が入らなければ維持できないことはご存じでしょうか。現在、白砂青松を賞される美しい海岸の松林の大半は人工林なのです。

 人手が入る前、本州以南の暖帯地の海外線はタブノキやスダジイなどを主力とする照葉樹林に覆われていました。そこへ人が進出し、建材や生活具材や燃料としてこれらの木々を伐採利用し尽くした結果、土壌の生産力が枯渇し、不毛となった荒地でも生きられるクロマツが進入、また一方では防風林や防砂林として植樹するにもクロマツ以外の選択肢はなくなってしまったため、現在に至る白砂青松の景観が人工的にも造成されたのです。

 荒地に根付いたマツは「菌友」の助けと光合成で伸び育ち、葉や枝を落としやがて命尽きて土に帰ってゆきます。それが繰り返されると土壌の豊かさが徐々に回復して他の樹種が侵入、やがて競争力のないマツは衰退し消えてゆくのが自然の遷移システムです。

 今は流行らないでしょうが、結婚前の結納という儀式では新婦側からの結納返しの品のひとつに「高砂」というものがありました。熊手を持ったお爺さんと箒を持つお婆さん二体セットの人形で、お爺さんは尉(じょう)お婆さんは姥(うば)といい「おまえ百(掃く)までわしゃ九十九まで(くまで)」と夫婦の円満長寿を祈念する寓意が込められています。が、夫婦仲はこの際どうでもよくていま問題はこの二人が何をしているのか。実は二人は播磨の高砂浜の松林で熊手と箒を使い、燃料にする松葉や枯れ枝をかき集めているのです。

 かつて、油分が多いマツは庶民の家庭の燃料として貴重でした。当時の庶民に白砂青松を愛でる余裕や審美眼があったかわかりませんが、尉や姥のような人々が生活のためクロマツの幹から葉に至るまでをせっせと運び出し続けた結果、松林の土壌の生産力は回復せず他の樹種の進入が防がれて、意図せず白砂青松の景観も維持されてきたわけです。

 逆の例も紹介しましょう。明治維新の主役の一人大久保利通は東京遷都後の京都を訪れた際、平安時代からの景勝地であった嵐山の荒廃に驚き、その理由を尋ねて地元民から「ご一新のせいだ」と言われて恥じ入ります。幕府の京都守護職は嵐山の歴史的景観維持のために山守を雇う金を出していたのに、維新政府はそれを打ち切っていました。反省した大久保が金も出して嵐山の保護に努めた結果、現在の嵐山の景観が形成されたといいます。

 と、嵐山関連サイトではこの話がよく紹介されているのですが、実際にはそう単純な復活美談ではなかったのでは? というのは、大久保が守ろうとした歴史的景観は端正に整美されたアカマツ林だったと思われるからです。京都周辺の山林は平安朝以降長らく都であった京の膨大な木材需要でことごとく皆伐され禿山となっています。保津川を経由する丹波材の大集散地であった嵐山が例外であったはずはありません。そして禿山には荒地の主役アカマツが生え、庶民が枝や松葉を採取し続けることでそれが維持されていたのでしょう。しかし大久保らは嵐山の景観を守るため庶民が山に入ることを固く禁じました。その結果、皮肉なことにアカマツ林は壊滅、これに代わって落葉広葉樹が進出して現在に見るような紅葉の名所になってしまったわけです。ま、「結果オーライ」というべきかもですが。

 マツについても共生する菌類についてもまだ書きたいことが沢山ありますが、紙幅も尽きましたので今回はここまで。今回は、広葉樹ら進化した若く強いライバルたちの出現と猛攻撃に対し、旧世代のマツが菌類との支え合いを頼りに生き延び、絶滅を免れて今ここにある不思議を、少しでも感じてもらえたらと思います。




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  また長らく更新できずに時間が過ぎてしまいました。この間、初めて出品した展覧会があり、それに忙殺されたうえに体調を崩してしばらくダウン、さらに自分の病気の原因が住居にあるのではないかとの疑いが強まったことから、医師とも相談のうえ、急きょ転居することになってバタバタしてしまいました。

  自分の病気は特発性間質性肺炎の一種であるNSIP(=特発性非特異性間質性肺炎)である可能性と、過敏性肺炎である可能性があり、いまだ病名も定かにはわからない状態なのですが、入院すると体調が良くなり帰宅すると悪化することから、幸い現在居住中の自宅とは別に以前住んでいて今は空家になっている持ち家もあることから、ダメ元でそちらに移動することになったものです。現住居とその家とは直線距離で100mほどですから、移動自体は容易です。とはいえ、一時的にせよ住むとなれば最低限の電気器具や家具もいりますし、家自体に手も入れなければなりません。ということで、知らず知らずのうちに時間が経過してしまいました。

 が、これだけ間延びすると、西郷隆盛の続きもちょっと白けてしまったなあ。(~_~;) 
 ま、これはこれでいずれなんとか決着をつけるとして、とりあえずは紀峰山の会の機関誌に連載している巻末コラムを以下に転載します。今回のテーマはクスノキ。今はちょうどクスノキの新緑が鮮やかに美しい季節ですね。


 植物百話

クスノキの話

 嬉しいことに、県連ニュースに転載したこのコラムにハガキで感想が寄せられ、加えて「次はクスノキ」について書いて欲しいとのリクエストがありました。そこで、今回はこのリクエストにお応えしようと思います。

 たしかにクスノキは私たち紀州人には馴染み深い樹木です。神社仏閣や学校、街路樹にもふんだんに植えられていますから、一歩外に出ればこの木に出会わずに過すことはないほどです。新宮出身の詩人佐藤春夫も望郷五月歌のなかで、「海(わだ)の原見廻かさんと、のぼりゆく山邊(やまべ)の道は杉檜樟の芽吹きの花よりもいみじく匂ひ」と、杉や檜と並べて樟(クスノキ)の新芽が花より強く香る「空青し山青し海青し」紀州五月の情景を見事に歌い上げています。このクスノキの匂いの成分が樟脳で防虫効果があることが知られ、また鎮痛剤としても利用されました。クスノキの名はこの匂いから「臭(くす)し木」と呼ばれたこと、あるいは「薬の木」と呼ばれたことが語源と言われています。

 と、ことほどさように慣れ親しんでいるクスノキなのですが、実は外来種だってことはご存知でしょうか。クスノキの元の自生地は台湾やベトナムなどの暖地で、日本列島にはそこから人為的に持ち込まれたものと思われます。といっても入ってきたのは有史以前のこと(専門用語では「史前帰化植物」といいます)ですから、お米同様すっかり馴染んで久しいのも頷けますが、寒がりのクスノキにとり日本の気候はやや厳しいようで、それこそ前述の宗教施設をはじめ、人の助けが得られる所や里山では育つものの、暖かい紀州や九州ですら奥深い山中に自生している例はまずありません。ですから天然照葉樹林の代表的樹種とはいえず、どちらかというと人とともに暮らす園芸樹のような趣すらあります。

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 では、有史以前から今日に至るまで、人々はなぜこのクスノキを好み列島に広げていったのでしょう。ひとつの有力な回答はその巨大さです。クスノキは日本で生育する樹木のうち最も大きく育つもののひとつで、日本の巨樹ベストテンのうち9本までをクスノキが占めています。なかでも日本の全樹木の頂点に立つ巨樹は鹿児島県姶良郡蒲生町の八幡神社にある「蒲生(かもう)の大クス」で、胸高樹周24m(根周40m)、樹高30m、推定樹齢1500年。幹の下部は朽ち八畳間大の空洞があります。「となりのトトロ」のねぐらはきっとこんな所だったのでしょうね。その巨大さを知るよすがとして、不肖ワタクシが実物を現場で写生した絵(F6号)を上に掲載しておきます。

 一方、和歌山県最大の樹木もかつらぎ町笠田東の妙楽寺にある樹周13.4mのクスノキで、「十五村(じごせ)の森」と呼ばれています。国道24号線で通過する笠田小学校の真裏(北)にありますので、機会があればぜひ立ち寄ってみてください。ちなみにこの木は近畿地方全体でもナンバーワンの巨樹、全国では43位にランキングされています。

 発掘された古代の丸木舟の遺物からは、その素材がクスノキであったことがわかっています。樹木を板に加工しさらに貼り合わすような技術が未発達の時代、丸木舟の大きさは原料木の太さに全面的に負っていたわけで巨大なクスノキは貴重だったことでしょう。古事記では、この列島に樹木を植え広げたスサノオノミコトが人々に向かい、「浮く宝にするクスも大量に植えたぞ」と語っています。この「浮く宝」とは船を指しますが、もしかしたら南洋からクスノキの丸木舟で渡ってきた海の民が、子孫が船を造るのに困らないようにとクスノキをこの列島に植えたことを神話の形で伝承しているのかもしれません。

 クスノキは常緑樹ですが、葉の寿命は1年しかなく春に新葉が開き始めると前年の葉は一斉に落葉します。秋に葉を落とす落葉樹とは異なり冬を越しはしますが、一斉に葉が世代交代するという意味では落葉樹に近い面もあるわけで、麦が実る初夏を「麦秋」と呼ぶことがあるなら、「楠秋」というのもあっても良いような・・ さて、そのクスノキの葉は主脈とその根元から両側に伸びる側脈が明瞭で、これを「三行脈」と呼びクスノキ科の樹木を見分ける際の拠り所としているのですが、よく見るとこの三行脈の分かれ目などに小さな膨らみがあります。これを「ダニ部屋」(またはダニ室)と呼び実際ダニが住んでいます。

 ダニ部屋はダニが勝手に住み着いてできるのではなく、クスノキが作ってダニを住まわせているのですが、なぜこんなことをするのでしょう? これについては定説がありません。そこでまず一説、ダニ部屋に住むダニは植物食のダニが多いのですが、これがだんだん増えてダニ部屋の外に溢れ出すと、肉食のダニがこれを捕食しようと現れ、ついでにクスノキを害する他のダニも駆除してくれる。つまり、肉食のダニを呼び寄せて利用するため撒き餌のダニを飼っているという説です。もう一説は一網打尽論というか、有害な植物食のダニをダニ部屋に集めておき、秋には部屋の出入り口を閉ざしやがて一斉に落葉させることで、被害を最小限に抑えているという説です。多くの研究者がこのダニ部屋の秘密に挑んでいるのですが、こんなに身近な植物でもまだわからないことだらけ。さて、クスノキは巨体の葉を柔らかな風に揺すらせながら、いったい何を考えているのでしょうか。




 また時間が無為に経過。というか、この間、またも結構長期間入院することになり、おかげでまあ、時間は有り余るほどあったのですけれど、文章をつづるような気分にはなかなか・・・  入院するくらいですから病状はあまり思わしくはないのですが、生来ほんと気楽な性分ですので、別に落ち込んでいるわけではありません。 でもねえ、文章を書くってそれなりに気力が充実していないと難しいんですよねえ。 というわけで、とりあえずはまた植物の話。 以下、 『紀峰の仲間』に連載中のコラムです。


植物百話 9

    「山眠る」季節の椿と山茶花

 歳時記に冬山を評して「山眠る」という季語が収められています。中国北宋時代(11世紀)の山水画家「郭熙(かくき)」の息子「郭思(かくし)」が、偉大な父の理論や言葉をまとめた画論集『林泉高致集』にある「冬山惨淡として眠るがごとく」が、この季語の起源といわれています。さて、ここで「惨淡」は日本語ではまず使わない言葉ですが、「薄暗い」とか「うら寂しい」といったニュアンスの漢語。しかし、まぶしく輝く白銀の山稜にも風雪が荒れ狂う尾根にも、さらには葉をすっかり落としてやたら明るくなった低山にも、「眠る」なんてイメージは全くありません。

 中国の冬山、雪こそ日本の豪雪地に比べれば少ないでしょうが、その姿が日本とそう違うようにも思えません。郭煕は先の画論集の「山水訓」の項で「自然を理解する最良の方法」について述べ、「自らこの山に遊んで観察すること、そうすれば山水の姿がありありと胸中に展開する」としており、実際、自身山中に良く遊び、山や自然の姿やその摂理に深く通じていたと伝えられています。まあ、我らと同じ部類の山好きだったのでしょう。してみると、その山に詳しい郭熙があえて「山眠る」の言葉で表現し主張したかったのは冬山そのものの有様というよりは、冬山を筆で水墨の世界に再現して描くメソッドというか定石や心得といったものだったのではないでしょうか。

 私たち山屋が「山眠る」の言葉で思い浮かべるのは冬山自体ではなくむしろ、冬の山における生命の営みの静けさでしょう。冬山では多くの動物が姿を隠して冬眠し、植物は雪に埋まるか多くは葉を落とし、また常緑樹でさえも光合成を止めて、ほとんどの植物はまさに休眠しています。いずれも、厳しい寒気や乾燥への生命体として懸命の適応であり、その適応がやがて歓喜の春に繋がってゆくのですが、それまでを沈黙のうちに耐えしのぶ姿はまさに「眠る」の表現がぴったりです。

 さて、そんな生命感に乏しいこの時期、紀州など雪のない低山で鮮やかに開花して生命を主張するのが椿(正確にはヤブツバキ)ですが、このツバキを山茶花(サザンカ)と識別するのはなかなか難しい。いずれもツバキ科ツバキ属で赤い花も葉もそっくりです。ちなみに学名はツバキが「Camellia japonica」でサザンカが「Camellia sasanqua」。「Camellia」はツバキともサザンカとも訳されますので、直訳すれば前者が「日本のツバキ」、後者は「サザンカのツバキ」又は「サザンカのサザンカ」って訳のわからないことに。まあ、学名にも互いがそっくり似ていることが反映しているのでしょう。

 ごく常識的な話をすれば、サザンカが咲くのは10月から2月、一方ツバキは12月から4月ですので、10月から11月に見るのはサザンカ、3月以降に見るのはツバキと判定して良さそうですが、両者がダブる12月から2月は何らかの方法で識別する必要がありますし、カンツバキといって真冬に咲くツバキもあれば春に咲くサザンカの品種も出回
っていますから、開花時期だけで最終判定はできそうにありません。その園芸品種、サザンカでざっと300種、ツバキはなんと6000種に及ぶといいますから驚きです。

 とはいえ、よく似た花もよく観察すれば違いがあります。ひとつは雄しべのつき方で、ツバキの雄しべが根元で合着しているのに対し、サザンカのそれは分離しています。もっと詳しく調べるとツバキの子房は無毛ですが、サザンカの子房には毛が生えていることがわかります。従って子房が成熟してできる実も同様、ツバキは無毛でサザンカには毛が生えています。またツバキは花がひとまとめにボトッと落ちるのに対しサザンカは花びらが一枚一枚散ってゆきます。ですから、花さえ落ちていれば識別は簡単です。

 さらに次の手段として葉に注目。ツバキの葉はサザンカより一回り大きく、肉厚で光沢があります。ツバキの語源は「厚葉木」(アツバキ)とか「艶葉木」(ツヤバキ)いわれるほどです。またサザンカの葉は鋸歯(葉の周りのギザギザ)が鋭く、葉の付け根や若枝には毛が密生しています。さらに太陽にかざしてみると、ツバキの葉脈が黒く見えるのに対しサザンカは白く見えます。花より葉のほうが識別は容易かもしれませんね。ついでながらサザンカの語源は、中国で山で生える茶の木を意味した山茶花をサンサカと読むべきところ、次第に「ン」と後の「サ」が倒置して発音されていった結果だそうです。

 そして最後の識別ポイントが匂い。サザンカの花の香りは甘く強烈ですが、ツバキの花はほとんど匂いません。さて、なぜでしょうか。サザンカの咲く時期、昆虫はまだ活動していて、足早に迫る厳しい季節を前に越冬準備に余念がありません。多くの花が受粉を終えて競争相手が減った森で、遅れて咲くサザンカはそうした昆虫に真っ赤な花と芳香を放ち、花粉を媒介してくれる昆虫たちを呼び寄せているのです。

 しかしツバキが咲く頃にはもう、受粉を任せられるほど昆虫はいません。そこでツバキは昆虫を頼りにすることをやめ、花粉の媒介を冬鳥に頼ることにしたのです。鳥類にも嗅覚はありますが、しかし何と言っても鳥類の最有力の感覚器官は視力です。例えば猛禽類の視力ですが、東京から富士山を見れば山小屋まで識別できるほどとか。彼らはこの驚異的な視力を武器に遥か上空から地上の小さな獲物を発見しているのです。となれば、真紅の色で花があることを示せば十分、重ねて匂いまでサービスする必要はないというのがツバキの考え方なのですね。その代わりツバキは、昆虫より重い鳥が留まっても壊れないよう、根元でしっかり合着した大きな花をつけるのでしょう。
 
 全部が全部というわけでもありませんが、生物の生き方や姿にはだいたい、そうなるだけの理由があります。サザンカが他の花が絶えた時期に開花するのもツバキが匂いのない花をつけるのも、長い進化の過程で獲得した独特の生存戦略であり、それが有効であったればこそ両者は今日の繁栄に至ることができたのです。そう思って見直してみると、身近な周囲の自然にも多くの驚異が潜んでいることを発見できるはず、そんな不思議の宝庫である山を、ただ一心不乱に登るだけではもったいないとは思いませんか?



 ぼんやりしているうちにオリンピックは終わり、夏も過ぎようとしています。というのに、ブログは放ったらかしでまたトップに無断でコマーシャルが掲載されるようになってしまいました。(一カ月更新しないとCMが掲載されるのです)。
 というわけで、とりあえずまたも山の会の機関誌に連載しているコラムを転載。今回はイチョウの話です。


植物百話 8

     イチョウと失われた世界

 3年前に挑んだ森林インストラクター資格試験では、木の葉を見て樹木の名前を言えることが、森の専門家として最も基礎的な素養のひとつとされていました。そこで受験対策として、図鑑片手に近所の森や植物園に出かけては木の葉の特徴を観察し記憶するのに励んだわけですが、こんなことせずとも最初から同定できたのがイチョウでした。まあ自分に限らず、スギとヒノキの区別すらつかない素人でもイチョウの葉を間違う人はないでしょう。こんなになじみ深いイチョウですが、調べてみると色々面白いことがあります。

 まずイチョウは針葉樹の仲間か広葉樹の仲間か。「針葉」から受けるイメージはマツのように細く尖がった葉です。イチョウの葉はそんなイメージとは似ても似つかず、外観は広葉樹っぽいのですが実は針葉樹の仲間なのです。ポイントは葉脈で、広葉樹の葉脈が網状に枝分かれして葉の末端に達しているのに対し、針葉樹では葉脈が平行に並んでまっすぐ葉の末端に至ります。イチョウの葉脈は末広がりになっている点でマツなどとは異なりますが、葉脈が分枝しない点で針葉樹の仲間と同じなのです。

 そんなわけでイチョウは他の針葉樹と同じ裸子植物門に分類され、以下イチョウ綱イチョウ目イチョウ科イチョウ属と分類されてゆくのですが、実はこの分類に属するたった一種の樹木なのです。「網」という大きな分類レベルですら一種のみというのは大変なことで、世界広しといえどもイチョウには裸子植物門レベル、つまりマツやスギなんてイチョウとは似ても似つかない植物に至るまで、特徴を共有できるようなお仲間の種がないということなのですね。これに対し例えば「ヒト」は脊索動物門哺乳綱サル目ヒト科ヒト属ということで、ヒト属レベルでチンパンジー、ヒト科レベルではオランウータンなどの仲間に恵まれ、さらにサル目まで広げれば仲間に不自由はしません。こう比較してみると、イチョウという種はまるでこの地球上の生命進化からかけ離れた孤島のようです。

 どうしてイチョウだけがこんな特異な位置にあるのか。それはイチョウがかつて繁栄した種族の唯一の生き残りであり「生ける化石」と呼ぶべき植物だからです。これまでに発掘された多くの化石からイチョウの仲間が繁栄したのは中生代(2億5000万年~6500万年前)から新生代にかけての時代で、その後の氷河期に唯一現存するイチョウを残して他の仲間はすべて絶滅したと考えられています。

 厳しい氷河期が終わったとき、イチョウ一族はそのほとんどすべてが死に絶え、現在私たちが見るイチョウのみが、中国安徽(あんねい)省で細々と生き延びていました。それが日本はじめ世界各地に人為的に広げられて現在に至っているわけですが、日本名の「イチョウ」は中国語でアヒルの足を意味する「イアチァオ」に由来するといいます。これはもちろん、イチョウの葉の形からアヒルの水かきのある足を連想した名前だったのでしょう。またイチョウの実を表す日本語の「ギンナン」は「銀杏」の唐の発音「ギン・アン」が語源、いずれも生き延びた土地の言語と文化をその名前に伝えているのですね。

 さてその銀杏、私たちが食用にするのは正確には銀杏の実ではなく、実の中にある種子の堅い殻を割って得る仁という部分なのですが、あの美しいエメラルドグリーンの実(仁)のモチモチした食感は茶わん蒸しに欠かせませんし、フライパンでさっと炒めて小塩を振れば酒のアテにも絶好ということで、その季節の山行のアプローチで黄葉したイチョウを見つけると、少々到着が遅れるのも承知でメンバー全員、その後のテントでの酒宴の予感に舌なめずりしつつ銀杏拾いに精を出したことが何度もあります。しかしその際、あの強烈な匂いにはいつも閉口させられました。この悪臭は果肉となっている外皮にあり、落果して間もないときは気になりませんが、熟したりつぶれたりすると強烈な悪臭を放ちます。

イチョウは日本の街路樹で断然トップの樹種ですが、日本からこれを輸入し街路樹にしたドイツはこの悪臭に困り果て、実をつける雌株の使用を禁止したほどです。・・といった悪臭のため大概の動物はギンナンを餌には選びません。鳥類がついばみに訪れることもないし、ニホンザルやネズミほかの哺乳類も全く近づきません。最近の研究ではアライグマだけは例外的に食べるようですが、喜んで食べているのかどうか。

 さて、そもそも植物が実をつけるのは、動物にそれを報酬として与える代わりに実の中の種子も飲み込ませ、肥料となる排泄物と一緒に広く散布してもらうためです。さらに言えば、匂いはその動物を実に呼び寄せるための撒き餌だったはずです。なのにその匂いが嫌われ、肝心の実が見向きもされないようなことでは、銀杏を作るのはイチョウにとって資源の浪費というか徒労にしかならないことになってしまう。唯一例外のアライグマは北米原産で日本にも原産地の中国にもいません。では、イチョウはいったい誰を種子散布の担い手と期待して銀杏の実をつけてきたのでしょうか。

 ここからはワタクシの想像たくましく・・といった話になるのですけれど、イチョウが種子を運んでもらおうと頼りにしたのは今は亡き恐竜だったのではないか・・ 先に書いたようにイチョウ一族が繁栄したのは中生代という地質時代ですが、これをさらに詳しく分けると三畳紀、ジュラ紀、白亜紀と呼ばれる時代区分になり、これはこの地上に恐竜たちが誕生し、繁栄し、そして滅亡していった時期とぴったり一致するのです。

 この想像を裏付ける傍証もあります。動物の嗅覚の良し悪しは脳のうち嗅覚をつかさどる嗅球(きゅうきゅう)と呼ばれる脳の部位が脳全体に占める比率で測れるのですが、最近カナダの科学者たちは、恐竜のそれが現在の鳩程度に優れていることを解明しました。つまり、当時の植物にとり、匂いは種子を運んでもらう相手つまり恐竜を引き付ける有力な道具として使えたということです。

 我々には猛烈な悪臭でも、恐竜たちには得も言われぬ芳香だったのかもしれません。多くの恐竜たちのうちの一群はあの強烈な匂いに引き寄せられて銀杏を食べ、糞と一緒にイチョウ族の種子を散布してその繁栄に貢献したことでしょう。しかし、そんなイチョウの生存戦略上不可欠だったパートナーも今はもういません。ですが今日に至るまで6500万年もの間、イチョウはくる年もくる年もひたすらパートナー好みの匂いの実を作り、ただその再訪を待ち続けてきたのです。これはもう、プッチーニの蝶々夫人もテレサテン(古いか?!)が繰り返し歌った「待つ恋」も真っ青の飛びっ切りの悲恋ではありませんか。

 イチョウは別名「公孫樹」ともいいます。「公」は祖父のこと、おじいさんが植え孫の代でやっと実をつける樹という意味です。そのイチョウの種子も他の樹木同様、親の近くでは育てませんから、遠くへ運んでくれる動物がいない今は人の手で植えてもらう以外に子孫を残す手段がありません。もし山でイチョウを見かけたら、それはどんな山奥であっても間違いなく人が植えたものであり、かつてそこに人の暮らしがあったことを示しています。

 絶滅して久しい恐竜たちの時代、そして過疎からやがて崩壊した山村の暮らし、
イチョウの樹はいずれも失われた世界の記憶を内に秘めつつ、秋ごとに見事な黄金色に染まっては、無心に銀杏の実をつけているのです。



  またもご無沙汰。相変わらず忙しいということも多少はあるけれど、今はちょっと別のことに熱中していて、空いた時間のほとんどすべてをそれに充てているため、世の中の動きなど、モノ申したいことは数々あれど、なかなか文章を書くところまでいかないというのが実情です。
 もう、こんな状態のまま、これ以上更新できないようならこのブログをもう閉じようかとも思ったのですけれど、熱中していることについては、もう少し時間が経過すれば、このブログで紹介できるようになるかもしれないと考え直して、とりあえず維持することにしました。といったわけで、とりあえずは山岳会の季刊誌に書いたコラムを以下に転載します。


植物百話 7

      ナラ枯れとカシナガ

 ナラやシイの仲間など日本の森林の主役であるブナ科の大木がいま、東北から九州に至る各地の山で大量に枯れていることをご存じだろうか。「ナラ枯れ」と呼ばれる現象で多くは夏に発生し、枯れた大木の葉が赤褐色に変色するため早い紅葉と間違われることもある。原因は樹木の導管(根から吸収した水などの通り道)がナラ菌と総称されるカビの侵入をきっかけに詰まり、樹体に水が行き渡らなくなるためだ。だが、この大木枯死のメカニズムをつかさどる陰の主役というか狂言回しは別にいる。

カシナガ
 カシノナガキクイムシ略して「カシナガ」と呼ばれる全長5ミリ未満ゴマ粒大のこげ茶色の地味な昆虫がその狂言回しだ。ナラ菌に移動する能力はないが、この小さな虫がナラ菌を運び「感染」を広げている。かくしてナラ枯れの被害が蔓延しているのだが、この虫の生活史には驚くべきことが多い。(上図、右メス4.7mm、左オス4.5㎜)

 6月のある晴れた日、羽化したカシナガは日の出から数時間の間に生まれ育った樹木の幹から飛び立つ。カシナガは生涯の大半を樹木の中の暗黒で過ごす。そして、ほんのわずかしかない日の当たる世界で過ごす貴重な時間のほとんどすべてを。健気にも、子孫を残すための営みに費やすのだ。休暇の大半を山登りなどという愚にもつかない道楽に費やして浮かれてるどこかのゴクつぶしには、カシナガの爪の垢(・・があればの話だが)でも煎じて呑んでもらいたいものである。

 繁殖活動のスタートは「愛の巣」探しからだ。オスは初夏の林内を飛び回り、多くの子どもを育てられる幹の太い木を探す。そしてこれぞと思う適当な大木を見つけると、集合フェロモンを発して同じカシナガのオスを呼び集め、強力なあごで一斉にその幹に穴を掘り始める。専門用語ではこの集中攻撃を「マスアタック」というのだが、このように一本の木に多くのオスが集中するのは樹木側の反撃、例えば殺虫力のある樹液を出すなどの抵抗の威力を分散し、巣作りを確実に行うためだろうと考えられている。ある調査によれば、一本の木の幹に3千にのぼるカシナガの穿孔穴が確認されたという。樹木側の迎撃など間に合わない、まさに息もつかせぬ総攻撃ではないか。

 かくして樹木の幹に橋頭保の穴を掘ったオスは、翅の裏側と腹にあるギロ(ラテン音楽の楽器、ヒョウタンに入れた刻みを棒でこすって音を出す)のような波板をこすり合わせて音を出し、メスを呼び寄せる。一斉にラブコールを発するムコ3000人を相手に品定めするメスも目移りしてさぞ大変だろうと思うが、ともあれメスはオスが穿孔した穴の中に入って出来具合を確かめ、その穴が気に入れば交尾を許す。

 さて、面白いのはここからだ。上図でも描かれているようにメスの背にはマイカンギアと呼ばれる10個の穴があって、ここにあのナラ菌の胞子を詰め込んでいる。夫婦となったカシナガは協力して樹木の芯に向かい穴を掘り進めてゆくのだが、その過程でメスの背中が穴の壁に触れナラ菌が植えつけられる。やがてメスは一定程度掘り進んだ段階で産卵、その卵が孵化する頃にはこのナラ菌が幼虫の餌になる。つまり、カシナガを含む養菌性キクイムシと呼ばれる昆虫の一群は、自ら食料とする菌類を栽培しているわけだ。

 この驚異の生態が初めて知られたのは19世紀中頃だが、当時これを発見した科学者は余程驚いたのだろう、この不思議な餌をギリシャ神話の神々が口にする不老不死の食べ物にちなみ「アンブロシア」と名付けたのだった。 ・・というような事情を知って、もう少し調べてみようと「アンブロシア」でインターネットを検索してみたら、なんと岩出市内の洋菓子屋が一発でヒットした。2年前の春、春日山原生林を歩いた際にこの話をしたら、メンバーの一人が知っている店だと返してくれた。彼女の話ではそこそこ美味しい店とのことなので、興味のある方はぜひ「神の食べ物」を賞味してみてほしい。

 次に面白いのはカシナガの家族関係だ。昆虫のペアは通常、交尾が終われば解消するが、カシナガは夫婦で子育てをする。それだけではなく、どういうわけか100個ほど産んだ卵のうち1個だけが先に孵化成熟し、この長男だか長女だかが坑道途中に置かれた卵を、新たに両親が掘り進めた奥の穴に移すなど、両親の作業をかいがいしく手伝うのだ。アリやハチなど膜翅目(まくしもく)と呼ばれる昆虫のグループでは、個々に役割を分担し群全体として社会生活を営むものが多いが、その他のグループでは珍しい。まして家族単位で生活を営む例は他にはまずなく、非常に興味深いところだ。

 長男以外の卵はこのように家族の手厚い保護を受けて越冬し翌春に孵化する。父母はすでに寿命を終えているが、親たちが栽培して残した遺産のナラ菌を食料として成長、数度の脱皮を繰り返し、6月のある晴れた朝、暗黒の坑道をたどって羽化し、父親が最初に掘った入り口から初夏の光り輝く希望の世界へ一斉に羽ばたくのだ。ある観察によれば、一本の木から1万頭のカシナガが羽化したという。

 とまあ、やや思い入れたっぷりに書いてきたが、食い荒らされる木の方はたまったものではない。カシナガは外来種ではなく、昔からブナ科の老成木の一部がカシナガに食害される例はあったのだが、前世紀末あたりから今に見るように爆発的な枯死被害が広がるようになった。どうしてこんな激甚被害となってしまったのか。

 気候変動の影響もあるようだが主な原因は1960年代の燃料革命にあるというのが最近の定説だ。かつてブナ科の樹木、ミズナラやコナラ、カシ類やシイ類は炭や薪として盛んに利用されていた。しかし60年代以降、エネルギーの主役は石油や電気に取って代わられ、里山は燃料の供給源としての価値を失った。その結果、以前は20年生程度で伐られ再生を繰り返していたこれらブナ科の樹木が放置され、カシナガが好む大木に成長して大発生できる環境を整えてしまったというわけだ。

 カシナガは自然が通常の状態であれば、老成木を倒し分解することで若い後継樹の成長を促し、全体として森林の若返りと新陳代謝を助ける役割を果たしていた。つまり、今のナラ枯れの惨状は、自分の必要から自然に手を加え、そして自分の都合で勝手に手を引いた人間の側に非がある。生態系は実に複雑にして玄妙な諸関係で成立しており、それを構成するすべての生き物に担うべき役割があって、カシナガのように余程注意しなければ目に止まることもない小さな生命にも、人智では計り知れない価値が潜んでいる。

 次に立ち枯れたブナ科の大木を見たら、その根元にカシナガが幹を穿孔して排出したフラスと呼ばれるおが粉を探してみてほしい。そして、もしそのフラスを確認したら、その森とカシナガと人間を巡る半世紀の物語に、謙虚に思いをはせてほしいのだ。