英国が国民投票の結果EUから離脱し他のEU諸国でも極右や離脱派が台頭、米国ではトランプが大統領に就任した。選挙制度の当否はとりあえず問わないとして、このように国民規模で理性的とは思えない選択が繰り返される現状について、「post truth」という言葉が引用される機会が増えている。「脱真実」とでも訳せばよいのだろうか、2016年の「今年の単語(Word of the year)」に選んだ世界最大の英語辞典であるオックスフォード英語辞典はこの言葉について、「与論形成において、客観的事実が感情や個人的信念に訴えるものより影響力を持たない状況」と説明している。

 英語と日本語ではたぶんニュアンスが違うのだと思うが、正直なところ「真実」という言葉は情緒的で好きではない。「今は昔」の話になってしまうが新聞の編集に携わっていた頃、部下の記者たちには事あるごとに「事実」のみを書けと繰り返し言ってきた。自分の感覚では「真実」という言葉には現に生起した事実に加えての何か、例えば取材した記者の思い入れ、感動であったり怒りであったりといった感情や、事実の見方に影響を与えるその他の要素が添加される印象がある。

 記事を読んで共感したり怒ったりするのは読者の権利であって、それを先走ってリードするのは越権も甚だしい。記者はただ地域を這い回って確実な事実を集め、それのみを読者に提供することにプロとして徹するべきなのだ。だが徹したとしても、報じる事実の選択で記者の意識のフィルターが掛かることは避けられない。であればこそなおさら、「真実の報道」などという気持ちの悪いナルシズムに流されぬよう、事実のみ、事実のみと念仏のごとく自分に命じていたものだった。

 そういう感覚からすれば現状は「脱事実」、「post fact」と言ってもらったほうが自分としては胸に落ちる気がする。ま、昔話はこれくらいにして、そう、「事実」より「気持ち良さ」が選択されるのが現代世界のグロテスクな特徴なのだろう。そしてこれは、英国や米国より日本ではより早く、小泉純一郎が政権についた2001年頃から露頭し、現在の第2次安倍内閣においてまさに猖獗(しょうけつ)をきわめるに至っている。

 安倍晋三というある種特異なキャラクターがまるで息をするように次々に発する嘘、あの東京オリンピック招致演説で発した福島第一原発の放射能が「アンダーコントロール」にあるという、聞いて目が点になると同時に世界に赤面した超弩級の嘘を始めとして、ここに枚挙の暇もないほどの嘘が撒き散らされるにも関わらず、彼の支持率は一向に下落する気配がない。ひと昔前であれば政治家として命取りになったような嘘が容認されるばかりか、むしろ支持すらされるという現象をどう評価すればよいのだろう。

 また、南京大虐殺、従軍慰安婦、朝鮮人強制連行など、被害者数や被害内容に議論はあるにせよ、こうした事件があったこと自体は動かない歴史的事実として定着している問題についても、いまだアパホテルの元谷外志雄社長によるトンデモ本を始め、歴史修正主義の言説が聞くに堪えないヘイトな罵詈雑言を交えて絶えることなく現れ、それがトランプの顧問ケリーアン・コンウェイの迷言である「alternative fact」(オルタナティブファクト=もうひとつの事実)として、ネトウヨから広く拡散され共有されそして定着している。こうした巷間での右翼的歴史修正とヘイトの潮流は首相が上から撒き散らす嘘と共鳴する関係にあり、全体としてpost truthの社会的空気を醸成している。

 しかし、なぜこのような反理性的で馬鹿げたデマが、義務教育が普及し高学歴の人も多い高度知識社会で受け入れられまかり通るのか。ジャーナリズムが役割を果たしていないという声は多い。たしかにそれは大きな要因ではあるだろう。現政権はメディア対策を非常に重視しており、例えば高市総務相による電波停止の脅しの一方、恒例となっているメディアと首相の会食など、アメとムチを巧妙に使い分けてその支配を貫徹しているし、一方商業メディア側にはジャーナリズムに徹して貧乏くじを引くより「長いものには巻かれ」て保身を図る空気が支配的だ。

 それが国民意識に影響を与えていることはもちろんあるだろう。だが自分にはもっと深い原因があるように思われてならない。むしろメディアは、国民の中にあるpost truthの空気を敏感に反映して、これに応えようとしているのではないか。自分は絶対に視聴しないが、いまテレビで毎日のように放映される「ニッポンすごい」「ニッポン偉い」番組が高視聴率を取って隆盛するのを見るにつけ、こうした厚顔無恥と評するしかない露骨な自画自賛を多くの国民が求め支持している現状を認めざるをえないのだ。

 日本の汚点をマスキングする歴史修正と「ニッポンすごい」の自画自賛はコインの表裏の関係にある。事実より気持ちよさを選好する国民の深層意識とこれに迎合しさらに煽り立てるメディア、右傾化しデマゴギー化する政権、そしてネトウヨなど草の根の歴史修正主義とはびこるヘイト、これらが相互に影響しあい、増幅しあってこの国を反知性主義の方向に転落させつつあるのが現代という時代なのだろう。その行き着く先に何が待っているのが、想像するのもおぞましい。 が、といって自分も生きているこの国が再び破滅するのを黙って放置するわけにも行くまい。と、身動きもままならぬ病身ながら分不相応に考えてはみることはあるのだ。 といった次第でしばらく、現在社会の意識や構造について思うところを連続して書いてみたいと考えている。




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 国連は昨日5日、2020年以降の全地球レベルでの地球温暖化対策の新たな枠組みとなる「パリ協定」が、11月4日に発効すると発表しました。昨年12月に採択された同条約発効の条件は、55か国以上の批准とこれら批准国における温室効果ガス排出量が世界全体の排出量の55%を上回ることでした。9月初めに中国で開かれたG20で排出量1位と2位の中国と米国がいち早く批准を表明、3位のインドもこれに続き、さらにEUやカナダ、ブラジルなどが相次いで批准してこの条件を満たしたものです。批准した国はすでに80か国に迫る勢いです。

 温室効果ガスの削減は経済成長の阻害要因となりかねないため、各国の利害が鋭く対立して長らく、包括的な削減対策の合意には至れませんでした。1997年に採択された京都議定書は発効するまでに7年を要したうえ、当時最大の排出国だった米国が脱走するなど泥まみれになってしまいました。それに対し今回はわずか10カ月で発効にこぎつけることができたのです。間違いなくこれは大きな前進です。

 もちろんここに至るまでの各国首脳のイニシアチブは高く評価されるべきです。ですがまたこれは一面、それほどまでに地球温暖化をめぐる深刻な危機が今や顕在化しており、目先の国益を理由に合意を拒むことができなくなったことを反映してもいます。はっきり言って、人類が生き残るために、残された時間はそう長くはないのです。

 国連の潘基文(バンキムン)事務総長は、同日発表した声明で「かつては不可能と思われていたことが今や(動きを)止められなくなった」と早期発効に祝意を示し、批准していない国々に国内手続きを加速するよう促しました。また、温暖化対策に力を入れてきたオバマ米大統領も、声明で「地球を守るための歴史的な日だ」と述べたとのことです。

 一方、温室効果ガスの排出量で世界第5位にランクし、地球温暖化対策で大きな責任を果たさねばならない日本では、現在開会中の国会でも政府は同条約の批准を提案しておらず、安倍総理の所信表明も同条約や地球温暖化には一言も触れませんでした。まあこの政府は要するに、世界が協力して取り組もうとしている人類救済の焦眉の課題に無関心なのでしょう。それどころか、温室効果ガスを激増させる石炭火力発電の新増設を強力に推進するばかりか、政府の音頭取りで積極的に輸出までするというのですから呆れ果てます。

 パリ協定が発効したことを受けて、11月7日にモロッコで開催されることが決まっていた「COP22」=「国連気候変動枠組み条約第22回締約国会議」では、同協定の具体的なルール作りが話し合われることになりますが、現状のまま推移して国会の承認を得て批准することができなければ、当然のことながら、日本にはオブザーバーとしての出席が許されるだけで発言権は与えられません。つまり、今後数十年にわたる地球温暖化対策について、世界のルールを決める最初の最も重要な会合で蚊帳の外に置かれるわけです。

 が、だからといってコジローは、他の環境市民団体の仲間たちのように声を極めて「日本も早く批准しろ」と主張したいわけではありません。COP22に間に合うよう大慌てで批准して、いまの石炭火力&原発推進&そもそも地球温暖化無関心・・というより財界の意を受けて本音では温暖化対策などしたくない安倍内閣が発言権を持ったところで、決して世界の地球温暖化対策を前に進める役割を果たすとは思えないからです。大量の温室効果ガスを出しながらこんな情けない政府を持って、世界の皆さんに対しまことに申し訳なく恥ずかしい限りではありますけれど、それでも口を開いて邪魔をするよりは黙っていてくれる方がまだいい。

 憲法は条約の批准つまり条約に元首が署名して締結することを内閣の職務としていますが、続けて「事前に、時宜によっては事後に、国会の承認を経ることを必要とする」としており、これまでの政府解釈では、その条約を締結することで国内法の整備を要するもの、また新たな予算措置が求められるものなどについては、事前の国会承認が必要としていますので、パリ協定の批准には国会承認が不可欠と思われます。ということで、今の情勢を見た政府が泡を食って、おっとり刀で批准を提案してこやしないかと、実のところひやひやしているのですよ。 ああ情けない!


 今回のブログは以上ですが、このパリ協定についてもう少し詳しく知りたい方は、ぜひ和歌山県が発行する地球温暖化関係情報誌「わおん通信」20号4~5ページに掲載しております特集をご覧ください。ちなみにこの記事は私が書いたものです。

 とはいうものの、同ホームページでは見開きページを無理に分解して載せておりますので、実に読みにくい。ということで、以下に元の原稿を転記しますので、関心のある方はお読みください。少々長めですが、これから大きな話題になること疑いなしのパリ協定やそれをめぐるニュースについて、勘所は間違いなく押さえられると思います。お時間の許す方は、是非ご一読を。


     COP21で何が決まったか
     パリ協定等の主要ポイント

 

 昨年12月12日、フランスのパリで開催されたCOP21(国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議)は、パリ協定とCOP21決定を満場一致で採択し閉幕しました。地球規模での気候変動が広がるなか国益をめぐる深刻な対立を乗り越えて成立した、京都議定書(1997年)以来の法的拘束力ある歴史的な国際合意であり、会場は鳴りやまぬ拍手と感動に包まれたといいます。ではいったい何が決まったのか、そのポイントを紹介します。

  1、温室効果ガス排出削減の目標

 パリ協定は地球温暖化対策で世界がめざす目標を次の三つにまとめました。

 ①長期目標=地球の平均気温上昇を産業革命前の水準より
2℃よりはるかに低い水準に抑え、1.5℃に抑制する努力をする。
 ②中期目標=そのために、可能な限り早期に世界の排出量を
頭打ちにし、その後速やかに減少させる。
 ③中期目標=今世紀下半期に温室効果ガスの人為的な排出と
人為的な吸収をバランスさせる。

 長期目標として、国際条約に具体的な数値で温度目標が書き込まれたのは初めてです。また、海水面上昇で消滅の危機に直面する小島しょ国の切実な訴えを受け1.5℃目標にも言及したことは画期的です。これを受けCOP21決定は世界の気象学者らで作るIPCC(気候変動に関する政府間パネル)に対し、1.5℃上昇に食い止める温室効果ガス排出経路等についての特別報告を、2018年に提出するよう招請しました。

 この長期目標を達成するための②と③の中期目標では「排出中立化」を明記しました。これは、森林吸収やCO2を回収貯留技術(CCS)など人為的な吸収も活用しつつ、2050年以降は差し引きでの人為的排出をゼロさらにはマイナスにすることを意味します。この目標は世界が早期に化石燃料依存の社会から卒業しなければならないことを意味しており、石油石炭文明に代わる新しい文明への転換宣言とも評すべきものです。


  2、各国目標と定期的な見直し

 目標を達成するためには、各国の国別約束(排出削減目標や行動)で目標が裏付けられなければなりません。先進国だけでなく途上国もこぞって、この国別約束をCOP21に提出したのも画期的なできごとでした。しかし、提出された国別約束は全体として2℃未満の長期目標を達成するには大きく不足しており、また京都議定書のような罰則付きの義務化は抵抗が強くてパリ協定には盛り込めず、自主目標として条約事務局が登録簿を作成するにとどまりました。

 しかしその代わり、各国は現在の国別約束を見直し引き上げたものを5年ごとに提出して長期目標に比べ十分かの評価を受けるとともに、それぞれの段階の約束の達成を保障する国内措置をとることがパリ協定で義務付けられました。こうして、自主的でありながら長期目標の達成に向けて各国の取り組みを後退させることなく継続して見直し、強化し続ける仕組みが確立されたのです。最初の評価・見直しは2018年から始められることも決まっています。


  3、先進国と途上国の「差異」の取り扱い

 これまで地球温暖化をめぐる国際交渉で、一貫して最も鋭い対立点となってきたのは先進国と途上国との責任や役割の「差異」を、どのように取り扱うかでした。現在の温暖化の主要な原因は先進国が過去に排出してきた温室効果ガスにありますが、いまや排出量の過半を占める途上国の行動なしに地球温暖化は防げませんし、途上国同士でも発展段階に大きな差があるからです。

 そこでパリ協定は、先進国と途上国の二分論を回避してすべての国に等しく行動を求める一方、先進国には「国別絶対排出量目標」を達成する率先した行動を、また途上国には「削減努力の強化」に加え発展段階に応じ徐々に先進国並みに排出削減行動を引き上げてゆくことを促すことで「差異」に配慮。また、資金供与の問題でも基本的には先進国が義務を負いつつ、途上国でもその準備がある国には積極的な協力を求めるなど、きめ細かにかつ動的に「差異」を入れ込むことで双方の合意にこぎつけています。


  4、COP21の評価と日本の課題

 京都議定書に続く地球温暖化対策の枠組みは本来、2009年にコペンハーゲンで開かれたCOP15で合意する予定でしたが失敗、その教訓を活かし6年の周到な準備を積み上げてようやく今回のCOP21で世界の合意に至ったのでした。

 採択されたパリ協定は、気候変動を防ぐために必要な行動を法的拘束力ある義務として世界に課すことこそできませんでしたが、なによりも世界の全ての国がこの枠組みに参加することで合意し、さし迫る地球規模の破局に対し人類があきらめず、克服するためのシステムを作り出した点で歴史的な意義があると評価できます。

 これは、現に地球規模で激化する異常気象を前に、米中を含め世界のリーダーが「もう後がない」という認識で一致していたこと、EUはじめ多くの国々と経済界が前向きな合意形成に向け積極的なイニシアティブを発揮したこと、そして議長国フランスの高い外交力の賜物です。、

 パリ協定を受け日本には、京都議定書の義務達成を目的とした「地球温暖化対策の推進に関する法律」を改定するか新法を制定するなど国内法を整備するとともに、協定で合意した長中期の目標に沿うとともに世界の趨勢に後れを取ることがいないよう、早期に脱炭素社会を建設してゆくための社会経済戦略の策定を急ぐことが必要です。

 私たち市民にも、脱炭素社会を展望した地域社会づくりへの関与やライフスタイルの転換など、これまで取り組んできた地球温暖化防止活動を一層強化することが求められるでしょう。歴史的なパリ協定は、そうした草の根の活動が人類の未来を開くことにつながることを示す希望の光ともいえそうです。
     




 また長らくブログを更新しないものだから、トップページに懲罰的コマーシャルが掲載されちゃいました。こんな吹けば飛ぶようなブログなどいつ閉じてもいいのですけれど、ときどきは発言したいこともあるし、これからは「よもやまネタ」で週一度くらいの更新をめざしてなんとか維持していきたいと思います。
 
 ということで、最近のニュースから「ワサビ増量お寿司」の話題からです。自分が知っている限りでの経過ですが、大阪・難波の寿司店「市場ずし難波店」で外国人観光客に対してわさびを大量にいれた寿司を提供されたとの証言が9月末〜10月1日にかけTwitterに発信されて拡散。真偽を疑う声もありましたが、市場ずし側は2日付で事実関係を認め、謝罪したという出来事です。同店のホームページに掲載された謝罪文は以下の通り。

 「この度は弊社店舗での接客に関する内容で、インターネット各所にてお騒がせ致しましたことをお詫び申し上げます。事実関係を確認しましたところ以下の確認が取れましたのでご報告いたします」
 「すしに多くのわさびを乗せていた件ですが、こちらはそのような事実がありました。海外から来られたお客様からガリやわさびの増量の要望が非常に多いため事前確認なしにサービスとして提供したことが、わさびなどが苦手なお客様に対して不愉快な思いをさせてしまう結果となってしまいました」
 「また、従業員による民族差別的な発言に関してはそのような事実は確認できませんでしが、より多くのお客様に満足していただけるよう社員教育を一層徹底してまいります」


 これに対し、現に今年3月に韓国人男性とともにこの店を訪れ、「わさび大幅増量すし」を涙を流しながら食べたという日本人女性は次のように批判しています。

 「『外国人からのわさびの増量の要望が多いからサービスとして多く入れた』という理由は、正直、言い訳のように聞こえて、受け入れ難いです。『わさびの苦手なお客様』と記載されてますが、私も私の彼もわさびは好きです」
 「私たちが目の前にいて、水を何度も頼んだり、目に涙を滲ませながら寿司を食べていたりする姿を店員が『知らなかった』とは、言い難いと思います」
 「民族的差別の発言について、私たちは確認していません。しかし、それがなくても、今回の件は差別的な行動を取られていたと思います。それがとても悲しいです。傷ついた大部分の人は外国の方だと思います。日本語で記載されたメッセージは、誰に向けてのメッセージなのでしょうか」


 公平を期すために付け加えると、「もともとワサビが多い店だった」という証言もあるようです。自分は実際にこの店のお寿司を口にしたことはありませんのでネットやメディアの情報を頼るしかないのですが、特定の客にワサビを増量したことを事実と認めるなら「事前確認なしのサービス」というのはいかにも苦しい言い訳です。これが「民族的差別」だったと断定することも難しいとは思いますが、ネットでは「よくやった」「がんばれ市場ずし」「反日家が喜んで騒いでるだけ」なんて声も出ていてあらためてウンザリさせられます。今回の店側の行いにこうしたとことん低劣な連中のどす黒い共感を呼ぶような面があったことは間違いないのですから、本当に謝罪する気があるのなら、民族差別とは戦う明確な意思を日本語だけでなく最低限、韓国語、中国語、そして英語で明記すべきでしょう。

 加えて、実はコジローがそれ以上に気になるのは、この店の従業員たちのプロ意識です。同店のホームページには、先の謝罪文の下に「市場ずしの人気の理由」として、「新鮮な食材」「自慢の低価格」等に続けて「ベテランのすし職人」をあげており、そこに以下のような一文を掲載しています。

 「新鮮な食材をより美味しく召し上がっていただくために、当店の職人たちは知識もキャリアも十分なベテラン揃いです」

 「すし職人」のプライドは客に「美味しい寿司」を出すことに尽きるでしょう。「知識もキャリアも十分なベテラン」であればなおさらのことです。わさびの量は好みにもよるでしょうが、わさびは所詮ネタとシャリの美味しさを引き立てる脇役に過ぎません。動機は何であれ、肝心の主役の味を台無しにしてしまうほどのわさびを付けて客に出す「すし職人」のその神経が理解しがたいのです。これは寿司への冒とくであると同時に「すし職人」という仕事への著しい侮辱にほかならないではありませんか。

 こんなことが本当にあったのか、実のところ半信半疑のところもあるのですが、この店に揃っているらしい「ベテラン」こそ、もしこんなふざけた手合いが周辺にいるとすれば真っ先に鉄槌を下してほしい。プロとは、人さまに何かを提供してその代償にお金をいただく立場のことです。そのプロたちの職場で意図してお客様に瑕疵のある物を出したうえにそれを自浄することも出来ないとすれば、その職業はもう終わりだからです。・・といいつつ実は、日本全体がすでにそうなりつつあるようにも思うのですが・・



 昨日、歴史的な…という割には盛り上がりに欠ける気もするが、参議院選挙がスタートした。焦点はなんといっても自公プラス大阪維新ら補完勢力からなる改憲派が、衆院に続き参院でも3分の2以上を占めることを国民が許すかどうかだ。「息を吐くようにウソをつく」安倍は、例によって争点は経済などととぼけているが、国民が嫌う改憲など一言も言わずに選挙をやり過ごし、それで勝てれば改憲発議に突っ走ることは目に見えている。政治に携わる者としての誠実さなどかけらもない、本当にどこまで腐った奴なんだろう。

 と、選挙の話はもちろん大事なのだが、今回はスポーツの話題。ロシアは陸上競技に続き重量挙げでも国としてリオ五輪に出場できない見通しとなった。周知のとおり陸上と同じくドーピング違反が発覚したからで、重量挙げについてはロシアだけでなくカザフスタン、ベラルーシ、それにブルガリアも同じ理由でリオ五輪から締め出されている。ロシアでは「99%の選手が行っている」との証言もあり、国を挙げてドーピングに手を染めていた疑いが濃厚だ。薬物汚染は広く浸透し闇は深い。

 さて、リオ五輪締め出しというと、少し前の事件だが、メダルが期待された日本のバドミントン選手が賭博関与を理由に処分された件を思い出す。世界ランキング2位まで登りつめていた桃田賢斗選手(21歳)と、その先輩で日本選手権6連覇の実績を持つ田児賢一選手(26歳)の二人は、共に東京・錦糸町の闇カジノに通っていたことが発覚し、バドミントン協会から桃田選手は無期限の競技会出場停止処分、田児選手は無期限の登録抹消つまり事実上の永久追放処分を受けた。この結果、二人ともリオ五輪への出場は不可能になったわけだ。

 まあ、裏社会の勢力が絡む賭場に出入りしていたわけだから、とりあえずのところ、このような処分も致し方ないか、とは思う。しかし、釈然としないのだ。競輪、競馬、競艇にパチンコ、パチスロ、さらに宝くじやロトからサッカーくじに至るまで日本はまさにギャンブル天国であって、2009年に厚労省の助成を受けた研究班が調査したところでは、日本の成人男性の9.6%、同じく女性の1.6%、全体平均で5.6%にギャンブル依存症のリスクがあった。これは同様の調査によるアメリカの0.6%、カナダケベック州の0.25%などと比較し、一桁以上高い水準であり、同年の成人人口(国勢調査推計)から計算すれば、男性は483万人、女性は76万人、合わせて559万人がギャンブル依存症のリスクを持っていることになる。

 正確な統計はおそらくないと思うが、実際に調べてみれば日本が世界一のギャンブル大国にランキングされる可能性は小さくない。そのおかげでパチンコに熱中して車中に放置した幼児が熱中症で死ぬなどこの国では普通のニュースだし、ギャンブルで家計が破たんして家族が路頭に迷ったり自殺に追い込まれたりするなど珍しくもない。(パチンコのような公然博打が隔離されることもなく生活圏で合法的に営業しているなんて日本くらいじゃないだろうか)。そんな目が血走ったギャンブル病人がゾロゾロ横行する国で、さらに公営カジノを設置しようなんて、狂気としか思えない政策が政権与党を中心に堂々とまかり通るのがこの国なのだ。

 そこで考えるのだが、仮に桃田選手らが競馬やパチンコに熱中して大金を蕩尽していたらどうだったろう。ん~、いや、考えるまでもないな、協会の処分もなければ、リオ五輪からの締め出しも絶対になかったはずだ。もちろんマスコミの攻撃もない。では、同じギャンブルに関与したのに、いったい何が違うのか。答えははっきりしている。胴元が違うのだ。競輪、競馬、競艇、それにくじ類の胴元は実質的には国か地方自治体等であり、パチンコ、パチスロは民間だが周知のとおりバックには警察権力がピッタリ張り付いている。つまり、お上が胴元ないし国家権力公認なら博打で破産しようが気が狂おうが死のうが、社会的には何の問題にもなりはしない。

 んな国で、たまたまお上公認でない賭博に手を染めたからと言って、このギャンブル天国のマスコミだの政治家だの協会のオッサンだのが居丈高に二人の若者を叩きまくる図には心底げっそりさせられた。ええ? お前ら、そんなエラソーなことが言えた立場か? これよりしばらく前には、プロ野球での賭け事の横行がやり玉に挙がった。巨人のように試合結果を賭けネタにしていたのは八百長に直結する行為だから、これはもちろん厳重に処罰しなければならない。しかし、その余波で複数球団が、試合前の景気づけに軽いノリでやっていた声出し担当選手への報償金の賭けなど、まあ決して感心はしないし止めたほうが良いとは思うのだけれど、あれほど目くじらを立てて騒ぐようなことか。

 聖書のヨハネによる福音書に「汝らのうち、罪なき者まず石をなげうて」というイエスの有名な言葉がある。あるとき、イエスと対立するパリサイ人や律法学者らが不倫を犯した女を引き立て、「(イエスが信奉する)モーセの律法に従ってこの女を石で撃ち殺さねばならない」と言うのに対し、イエスがこの言葉を返したというのだ。そして、誰一人として石を投げることができた者はいなかった。本件のテーマに即していえば、「汝らのうち、競馬もパチンコも賭けマージャンもしたことがなく、宝くじも買ったことがないもの、まず石を投げうて」ということだ。コジローは競輪競馬はもちろんパチンコすらしたことはないが、宝くじは何度か買っているので石を投げる資格はないと思う。

 永久追放された田児選手は、バトミントンが国技であるマレーシアで、これまでの経歴を生かせる新たな生き方を模索しているらしい。一方、桃田選手も国内での練習を再開したそうだ。彼らのこれからの生き方はもちろん自由だが、もしコジローの希望を言わせてもらえば桃田選手も、それまでの手放しの評価から手のひらを返したように無分別なバッシングに殺到するこんな国などさっさと飛び出して、どこか別の国で次の五輪(あえて「東京」とは言わない)なり世界選手権なりを目指してみてはどうだろう。そこで日本代表をコテンパンにやっつければ、自分のことは棚上げして若者たちの小さなミスにひたすら厳しいこの国の厚かましい面々にも、少しは薬になるのではないかと思うのだが。




 あれからはや4年が経過した。テレビや新聞には関連の報道があふれていて、ことに失った肉親を偲ぶ遺族の言葉や姿は、なんど接しても鼻の奥ガツンと痛くなる悲しみの共感にとらえられる。今なお行方のわからない方々を含め2万人に近い犠牲者の無念と絶望は、果たしていかばかりであったことだろう。また、命だけは助かったとはいえ、震災や津波に加え原発事故もあって、住処や仕事やその他、生活の基盤を根こそぎ失った人々の苦しみや悲しみの総量を思うと、その被害の甚大さに言葉を失う。

  さればこそ、3月11日が追悼と鎮魂の日となることに異存はない。被災地に住まない多くの人々にとり、多忙に飛び去っては忘却の底に埋もれてゆく時の流れの中で、この日、ことさらに記憶を呼び起こし、改めてこの想像を絶する巨大な悲惨に心つぶれる思いをすることは、人間の良心の営みとして最低限必要なことだろうからだ。被災地を毎年訪ねたり募金に応じたり、同地の物産の購入を心がけたり、自分なりにできる範囲のことは一応してきたつもりだが、その程度のことしかできないことに、もどかしさも募る。

 だが、それはそれとして、3.11報道がこんなに哀悼ムード一色でいいのだろうか。震災や津波自体は天災だ。それを予知することは今の科学には不可能だったし、数々の不手際から犠牲者が増えた面も確かにあった一方で運が悪かったとしか評し得ない犠牲もあった。だが、その後の4年間の対応は果たして最適に行われたのか。まして原発のシビアアクシデントはその事故自体、津波による全電源喪失の恐れが指摘されていたにもかかわらず対応を怠った故の人災の面も否定しがたくある。にもかかわらず、その責任は不問に付されたまま、ただ「絆」などという綺麗ごとの気持ち悪い呪文が大量に流布され消費され、そして擦り切れていっただけではないのか。

 あの「絆」という主体不明の言葉が垂れ流されるたび、自分には広島の原爆公園に置かれた原爆死没者慰霊碑の碑文が思い出されてならなかった。周知のように、埴輪の家をかたどったその慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれている。この碑文の趣旨は、「原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならない」ということらしいが、この碑文には原爆を落とした者への抗議も、そうした破局的な事態を招いた者たちへの問責もない。

 あくまで静かに追悼の意をささげるのが趣旨であるのだから、野暮なことをいうようで気が引けなくもないのだが、これでは何が「過ち」だったのかさっぱりわからないし、従ってどうすればそうした過ちを「繰り返さな」くて済むのかの方法もわからない。かくして事態の責任の所在は宙に浮き、死者を悼んで「一億総懺悔」するほかのすべはなくなってしまう。そうした機能は「絆」も同じだ。

 そして4年後、本来なら無謀な原発推進政策と呆れるほどの無能を厳しく糾弾されねばならなかったはずの政権と原発ムラは無傷のまま生き延びて再稼働を策し、「アンダーコントロール」という目が点になりそうな公然たる嘘でオリンピックを誘致しては、その景気の良さそうな花火の煙幕に被災地の悲惨とそれを招いた自らの不作為を雲散霧消させようとしているのではないのか。これは、70年前のあの徹頭徹尾打ちのめされての全き敗戦でも責任の所在をうやむやにし、そして戦後復興と経済成長の狂騒の中に戦争責任を埋没させてしまったやり方と瓜二つの構図だ。かくしてこの国を二度にわたり破滅の淵に追いやった政官財エリートのDNAは、誰ひとり断罪されることもなく途切れず受け継がれ、この国の非業の宿痾もまた繰り返されてゆくのか。

 この手の低級な目くらましというか政治的詐欺に、一度だけでも大のオトナが恥ずべきところ、同じ手口で二度も騙されてはたまらない。「絆」などといった美しくも政治的な免罪のスローガンに騙されて、3.11を8.15と同じにしてはならないと強く思うのだ。