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 NHKのBS1スペシャル「欲望の資本主義2018~闇の力が目覚める時~」を観た。BS1スペシャルは、無謀なインパール作戦や731部隊の人体実験に積極的に関わった大学医学部の過去にメスを入れるなど、政府サイドへの忖度報道が目立つNHKにしてはなかなかホネのあるシリーズだ。今回は格差が広がり排外主義が蔓延し混迷する現代資本主義を問うという意欲的な企画だったが、各方面に右顧左眄(うこさべん)というか、様々な論者の意見を羅列するだけの散漫な内容に終わってしまった。

 とはいえ、資本主義の本質を解き明かそうとした経済学者としてマルクス、シュンペーター、ケインズの3人を挙げ、この3者の学説を軸に番組を構成した点は評価して良いだろう。現代主流の経済学はネオリベ=ネオリベラリズム(=新自由主義)だが、グーグルマンやハイエクらその論者の主張は、かいつまんで言えば、規制を緩和し資本が好き放題できるようにすれば市場の機能を通じ最適経済が達成されるということで、要するに200年以上前のアダム・スミスの焼き直しに過ぎない。資本の跳梁跋扈に一切手を出さず勝手にさせろというのなら、それについての学など不要な道理ではないか。つまりネオリベなど経済学の名に値しない。

 ということで番組が紹介した偉大な3人の経済学の話だ。まずマルクスは、資本主義社会を構成する原子である商品の分析から剰余価値を発見、そこから展開して大聖堂の巨大伽藍にも似た壮大で緻密な資本主義批判の理論大系を築きあげた。その仕事を代表する最大の成果が大著『資本論』だ。この書の中でマルクスは、資本主義の原子的構成単位である商品の分析から始めて資本主義社会総体の必然的な崩壊までを、比類なく厳密な論理構成で論証している。マルクスが没してすでに130年余、誤っているとか古いとか言われながらなおマルクスの名が蘇り生命力を失わないのは、要するにその学説が正しいからだ。

 マルクスを否定する論者はソ連の崩壊など社会主義の失敗を挙げるのが常だが、これはリンゴが腐ったからといってニュートンの力学を否定するのにも似たいいがかりの論法だ。理論の誤りは理論で論証されねばならないが、マルクスの剰余価値学説の誤りを論証できた例はなく、剰余価値学説の正しさを認めれば、それは必然的に純粋な資本主義の崩壊まで隙なく一直線に認めざるを得なくなる。だから、シュンペーターやケインズら真面目な学者はマルクスの正しさを認めたうえで、資本主義を一部「修正」することによってその延命を図ろうとしたのだが、最大利潤を損なう修正など受け入れたくない資本家の太鼓持ちであるネオリベの論者たちは不真面目で、前述のように腐ったリンゴでマルクスを否定したことにするか、ないしはマルクスなど初めからいなかったように振舞っている。

 では、その恐るべきマルクスの剰余価値学説とはいかなるものか。資本論は大著だが剰余価値を説く価値論はその冒頭の数十ページに過ぎない。だから読んでもらうのが一番で、ここで説明するのは荷が重いのだが少しだけ触れてみよう。まず資本主義社会とはどんな社会かだが、最大の特徴はすべての物品に値札がついていることだ。資本主義社会では世界の物品はすべて売買可能な「商品」として立ち現れる。持ち主がいない空気や海水ですら缶詰にしたり深層水を汲み上げたりして商品にできる社会なのだ。だからマルクスはこの資本主義社会の原子たる商品にまずに目をつけた。

 ここに100円のハンバーガーと50円のボールペンがあったとする。バーガー1個とボールペン2本の価値は等しいということになるが、なぜこれが等価といえるのか。詳しく論証するのはホネなので端折るが、マルクスはそれは両者に含まれる「労働」の量が等しいから、ということを突き止めた。ただし、この「労働価値説」はマルクスが元祖というわけではない。マルクスに先立ちアダム・スミスやリカードも気づいていたのだが、彼らはこの商品の売買を通じて利潤が生まれる理由を説明することができなかった。スミスらは利潤の源泉は市場にあると考えていた。上手に取引する、つまり価値以上の価格で売れば儲け=利潤が出ると素朴に考えたのだが、市場では一方の得は他方の損であるから、このような構造では社会の富はトータルでは増えないことになる。だが現実には、双方納得づくの正常な売買で利潤は生まれているのだ。この謎を解き明かした点にこそマルクスの天才がある。

 先の100円バーガーを売るバーガーショップで働くA子の時給が900円だったとしよう。資本主義社会では人間の労働も商品となる。A子は忙しく働きながら、自分の「1時間の働きの価値」はバーガー9個分なのだなあ・・と何度も思ったに違いない。だが、それは実は違うのだ。

 A子の時給、つまりA子の「1時間の労働の価値」も他の商品と同様、それを作るのに必要な労働の量で決まる。A子が明日も同じ労働ができるよう維持再生するコストということだが、まずA子の命を維持するための衣食住のコスト、人間はパンのみにて生きるものではないからレジャーやスマホのコストも必要だろう、病気に備えるコストやA子がこの仕事ができるようになるまでの教育のコスト、さらに本来なら(現代の日本では怪しいが)A子の跡継ぎを作るための恋愛や出産や子育てのコスト等々が1時間分に微分割されて含まれるはずである。

 かくして「労働の報酬」が正当に支払われ、生命が健康に維持されてこそ明日もA子は笑顔を輝かせてこの店で働くことができるのだが、実はここにひとつの誤謬がある。いまカウントしてきたのは正確にはA子の「労働力を再生維持するためのコスト」であって、その労働力を行使する労働自体のコストではない。そもそも労働とは行為そのものであるから、愛情のコストが(比喩的には別として)測れないのと同様、労働のコストなど計算のしようがないのだ。つまり、A子は「労働の報酬」という名で実はその労働を担う労働力の維持再生費、言い換えれば「労働力の使用料」を時給として受け取っているのである。

 「労働」と「労働力」は異なる、実はこれこそが資本主義の謎を解く最大の鍵なのだ。話が飛ぶようだが、太古、まだ人類が自然の恩寵と祝福を受けて暮らしていた頃、ひとりの人間が生きてゆくのに2個の芋が必要だったとしよう。話をごく単純化することを許されたいが、このとき、ひとりの人間が一日頑張って掘り出せる芋が2個だったとすれば、労働の成果と労働力の維持再生コストは等しい。ヒトの群れの個々の構成員は誰しも等しく自分が生き延びるための芋を掘ることだけに熱中していたことだろう。

 だが、例えば木の枝や動物の骨といった道具を使うことを覚え、もっと効率的に芋を掘ることができるようになれば、一日に3個の芋を掘り出せるようになる。一方で人間の命を維持再生するのに必要な芋は2個のままだから、残る1個は食べずに取り置いておくことができるだろう。つまり生産力が上がることにより、同じ労働で以前より1本多い3本の芋=価値を生み出せるようになった一方で、その労働を可能にする労働力の価値つまり労働力を維持するコストは芋2本のまま、ここが剰余価値のからくりを理解する勘所なのだ。

 このとき、10人の人間の群れは1日に30個の芋を生産できるが、群れが生き延びるためには20個の芋があれば足りる。ということは例えば7人が芋掘りに従事して21本の芋を生産することで、残る3人は芋を掘らず別のことをして暮らすことが可能になるということだ。最初は呪術師やシャーマン、あるいは用心棒などの専門職がこの特権に預かったかもしれないが、後にはこれが奴隷制という生産システムにつながる経済的基盤をなすことになる。つまり、生産力の向上こそが麗しき平等社会を破壊し、今日に至る階級社会に人間社会が分裂する動因となったのだ。

 と、このあたりからは史的唯物論の領域になるのでこのへんにしておくが、要するに生産力は歴史的にどんどん向上して労働は単位時間あたりより多くの価値を生み出せるようになっていく一方、労働力の価値(労働力を維持再生するのに必要なコスト)はそれほど大きくは変化しない。別の言い方をすれば、「労働力」はそれを使用することで元の価値以上の価値を生み出す特異な商品ということなのだ。そして、この「投入した労働力の価値以上に生じる価値」のことをマルクスは「剰余価値」と呼んだ。

 そこで次の問題は、この剰余価値を誰が手にするかだ。封建時代には封建領主や武士が土地の支配を拠り所として、それを耕す農民から年貢という形で剰余価値を吸い上げた。そして資本主義では、工場や店舗や工作機械等を所有し、原料を購入し、そして人を雇うのに金を出した(資本を投下したと言い換えてもいい)という理由で「正当」にその工場や店舗の売り上げを手に入れており、実はその中にこっそり剰余価値も含んでいるのである。アダム・スミスらが市場のうまい取引で生まれると思っていた利潤は、実は生産過程ですでに労働による剰余価値として生まれていたのだ。市場はそれを実現する場に過ぎない。これがマルクスが解き明かした資本主義の秘密である。

 バーガーショップで働くA子は今日も、自分の1時間分の労働の価値はこの100円バーガー9個分だと思ったかもしれない。だが違うのだ。現在の平均的な労働生産性なら恐らく、A子の労働には1時間に50個のバーガーを作って提供できる生産力がある。しかし支払われているのはA子の労働力を維持再生するコストだけであり、それがバーガー9個分に過ぎないということなのだ。残りは資本家がポケットに入れているのだが、気のいいA子にそれは見えない仕掛けになっている。これが資本主義の本当の姿なのだ。

 実際には、価値を生み出す労働は商品生産に関わるものだけであり、医療や教育などサービス業や多くの公務は新たな価値を生まないから、これに必要なコストは商品生産労働の剰余価値から控除する必要があるし、地代や利子など別に考えるべきコストももちろんあるのだけれど、これらを説明しだすと複雑になりすぎるので簡略に描いたが(もちろん『資本論』はこれらについても緻密で完璧な論理構成で解明している)、資本が増殖する秘密がこの見えない剰余価値にあることは概略説明できたのではないかと思う。

 ということで、冒頭のNHK・BS1スペシャル『欲望の資本主義2018』が取り上げた現代資本主義の混迷に戻るが、マルクスの学説に導かれ曇りない目で見れば問題の構造と原因は極めて明瞭なのであって、従って解決法も至ってシンプルなものだ。資本主義の問題は端的にいって1%の資本家と99%を占める労働者との利害の対立にある。双方の格差が最近天文学的に拡大したのは、ケインズらが資本主義の延命装置として導入した格差調整策さえ、ネオリベが唱える規制緩和の掛け声で、レーガン、サッチャー、小泉ら資本主義の政治的代官どもが捨て去ってしまったからだ。

 解決するにはどうするか。簡単だ。本来労働者が取るべき分を資本から取り戻せばいいのだ。ではどうすれば取り戻せるか。これも簡単で仕事をしなければいいのだ。もちろん一人がサボってクビになってはつまらないから、みんなで一斉にサボる。赤信号だって「みんなで渡れば怖くない」というではないか。蛇足ながらこれをストライキといい、もちろん合法である。いくら威張っても資本家は労働力がなければたちまち干上がってしまうが、労働者は資本家がいなくたって何も困らない。いま非正規など就業形態が不安定になり、働く人々の収入が減り、生活が苦しくなるのは、要するにその当事者が団結して戦わないからだ。労働者の強力な武器であるストライキが打たれなくなって久しい。武装解除した労働者ほど他愛なく扱いやすい相手はない。ということでいま、世の資本家どもはとことん労働者を舐めきって、強欲の限りを尽くしているわけだ。

 以上のように問題の本質も解決方法も非常に簡単である。だがだからこそ、こんな簡単なことに労働者が気づかないよう資本の側は全力を尽くしている。例えば、労働者の暮らしが苦しいのは移民が仕事を奪うからだと思わせる。生活保護や障害者福祉で一部が優遇されその煽りで自分たちは疎外されていると思わせる手もある。生活苦や閉塞感から鬱々とした苛立ちが起き上がってくるとみれば、それが資本の側に向かないよう愛国心を煽り嫌韓反中のヘイト感情を燃え上がらせてガス抜きするという手も使う。労働者の大軍を形成する可能性がある基幹産業の労働組合の幹部は買収し出世もさせて資本の手先にする。メディアも買収し、酒席での相撲取りの暴行とか、タレントの不倫とか、低俗なお笑いとか、総じて愚にもつかないことばかり報じて労働者が変に賢くならないようにする。もちろん、マルクスは古く誤っていることにするか、そもそもいなかったことにする。

 さてそろそろ結論だ。欧米で仕事を失う恐怖に駆られて移民を忌避しようとする人々には、寛容を説くのではなくあの自民党の女性代議士ではないが、「違うだろお!」と言うべきではないか。敵を見誤ってはいけない。「敵は本能寺にあり」ではないが、資本主義経済の剰余価値の秘密に潜んで労働に寄生する資本家たちこそが真の敵、国籍を問わず労働者の敵なのだ。ヘイトスピーチをがなり立てる連中はもっと程度が低いので同じ事を言っても通じないかもしれないが、対立を煽ってトクをする資本に踊らされているだけとわかれば目が覚めるかも知れない。いずれにせよ、人々の現在の生活苦や閉塞感は国籍などと関係なく、ただ欲望が肥大化した資本の凶暴な振る舞いの産物であることを知るべきだ。これを正すためのスローガンはひとつしかない。最後にマルクスのその言葉を引用してこのコラムを閉じようと思う。

         万国の労働者団結せよ!



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 NHKの大河ドラマ『西郷どん』、前回このコラムで気の早い評価は慎んだが、第二話を観てやはりこれはダメだと思った。原作を読んでいないので判断がつかないが、その林真里の原作がダメなのか、それとも中園ミホの脚本がダメなのか(恐らく原作がダメなんだろうな)、いずれにせよこの調子では時代劇と称するも拘らず時代というものが全く描けないし、西郷の複雑な人物キャラクターも描けない。かくして出現するのは単に幕末から明治にかけての激動のエピソードを適当につまみ食いしつつ、人気俳優に時代の衣装をまとわせただけの安手のドラマというのが精一杯のところだろう。

 ダメなところは目白押しで指摘するのに不自由はしないのだが、なんといっても若き西郷が藩主島津斉興の国家老に年貢の徴収方法を改めるよう直接意見するシーンにはぶったまげた。薩摩藩は77万石から90万石で、加賀百万石に次ぐ天下の大藩であると同時に、人口に占める武士の比率が異様に大きく、それが武士階層内での大きな上下格差と厳格な格式や差別をうむとともに、全国的に見てもことさら苛烈な農民支配を必然化していた。

 西郷はその武士階層中、下から二番目にあたるほぼ最下層出身の軽輩である。ドラマでは、その西郷が少年時代に次期藩主の最右翼である島津斉彬に二度も直接話を交わすなど、まあ漫画になる寸前のエピソードもあるのだが、これは偶発的な出来事であることからまあフィクションとしてギリギリ許せるとしても、長じて今で言えば農政事務所のアルバイト程度ながら薩摩武士官僚集団の末端に列し武士としてスタートしたばかりの西郷が、天上人に等しい家老職に人も介さずのこのこ出かけて行って直接モノを言うなど、どんなに妥協しても有り得ない話で、リアリティを損なうにも程がある。

 結果として叶わなかったが、血筋から言えば最有力の世子(後継)である島津斉彬の江戸出仕の際に直接意見しようとするのも同じレベルの仰天エピソードだ。薩摩藩ではそもそも西郷などの身分では登城すら許されなかった。同藩に限らず江戸封建時代を支えた主柱のひとつはこの厳格な身分制度であり、そのあたりを丁寧に描かねば「時代」劇になどなりようがない。ついでながら、先の出仕のシーンで斉彬が馬に乗っているのも異様である。必ずしも駕籠にすれば安全というわけではないが、ひとり馬上で無防備な姿を晒し歩くなど鉄砲や弓の格好の的になるようなものであって身分の高い武士には有り得ない。

 さらに気になるのは西郷が郡方書役助として務め始めた際の上司像だ。人口に膾炙(かいしゃ)するというか、世の西郷伝の多くはこの際に西郷が従った迫田太次右衛門の地を這うような仕事ぶりとその経世済民の思想に西郷は大きな影響を受けたとしている。迫田は気骨のある人物だったようで、風水害による農村の疲弊を顧みず徴税の強化を求める藩庁の指示に怒り地方巡視を中断、鹿児島城下に戻って役所の門に狂歌のような一文を大書して抗議したエピソードが伝えられている。また、こうした反骨ぶりから後には辞職に至ったともいう。

 NHK西郷は新解釈というか、この上司を農民から賄賂を取るような輩にして、その賄賂を西郷に奪われても文句ひとつ言わない暗愚凡庸の夫として描いている。そして西郷の民衆の味方としての覚醒はただ、貧困から身売りを強要されるひとりの少女との出会いに収斂される構造なのだ。だが、こうした設定であれば、同様の境遇の少女はドラマのシーンの他にも大勢いたはずではないか。西郷はいかなる理由かは分からないが、それらは見捨てたということになる。つまり史実を無視して女性絡みの美談仕立てにする展開に無理があるのだ、浅はかというほかはない。これでは西郷という人物の陰影の深さを描くことは決してできない。

 さて、他にもダメなところは多々あるのだが、まあ、もうこれ以上言っても虚しいだけなのでこのへんにしておく。ただ、宿題として残ったままのわが西郷論について、もう詳しく書く体力も気力もないので、ひとことで結論だけ述べておこうと思う。といった次第で論証もせず乱暴な決めつけになってしまうが、自分に言わせれば西郷隆盛は要するに空想的社会主義者だったというのが自分の結論だ。

 最下層の武士階級に生まれてその辛酸をなめ尽くし、さらにその武士に虐げられる農民や奄美離島の貧しい民衆と長く近しく接して義侠に満ちた世界観を確立した西郷は、開明的な君主島津斉彬の抜擢を得て活躍の場を与えられ、徹底した四民平等の水平社会を夢想して国のかたちを変える革命に挑んだのだ。だが、明治維新の結果立ち現れたのは、武士に代わって資本が民衆を支配する新たな階級社会だった。そうした意味で、明治維新は西郷にとり「裏切られた革命」にほかならない。だが、西南戦争がそれを正す第二の革命であったかどうか、その評価はむつかしいところだ。仮に西郷にその意図があったにしても、この内乱には食い詰めた氏族の不満など様々な要素が混入しており、その意図が生かされたとは思えない。

 このところ「社会主義」はやたら評判が悪いが、その本質は西郷がめざした貧民の解放、身分や出身階層を問わず幸せに暮らせる平等社会の実現にあるのであって、それ自体なんら非難さるべきものではない。空想的社会主義といえばもうひとり、北一輝の名を上げずばなるまい。北一輝は2・26事件の首謀者として処刑されたある種天才的な思想家だが、自らを公然と社会主義者と呼んで顧みるところはなかった。まあ、ヒットラーだって自分を国家社会主義者だと言っていたのだから、それに近いと言えなくもないが、まあこれについては今はおく。北は西郷が夢想した四民平等の世界を、資本主義的西欧世界に対峙する地域としての東アジア全域に広げて夢想した。

 北一輝の平等観は西郷より徹底していて、天皇という例外すら認めなかった。北はいま自称愛国者の右翼バカどもが天まで持ち上げてありがたがる教育勅語を正面から否定し、その教育勅語が忠誠を求める天皇など「土人部落の土偶」に過ぎないと喝破して憚るところはなかった。あの狂信的天皇教がこの国を支配していた時代の話である。2.26事件が歴史に果たした役割は軍国主義ファシズムへの扉を最終的に開いたことだとされる。だがこれに参加したテロリストたちのなかには疲弊する農村の子弟が多く含まれており、彼らが北の唱える壮大で徹底的な空想的社会主義の夢に酔い動かされた心情はわからなくもない。

 そうした西郷や北一輝の心情自体は、カール・マルクスを始原とし日本共産党などが受け継ぐ科学的社会主義と結構親和性の高いものであると思う。ま、共産党にしてみればこれら内乱の首魁やクーデターを主導したテロリストと一緒にされるのは迷惑だろうが、客観的に見ればそうした面は否定しがたいのではないだろうか。翻ってみれば、米国で若者を中心にサンダース現象という政治的ムーブメントを引き起こしたバーニー・サンダースも自らを民主社会主義者と定義している。現代の資本主義が抱える深刻な問題を克服できる世界をまじめに考えるなら、素朴な空想レベルから本格的な理論レベルまで、社会主義は重要な選択肢の一つとして常にあるのだ。

 ということで、えらく端折ることになったが、西郷隆盛の評価は、社会主義という物差しで測ったとき初めてその実像が見えてくるというのが自分の見解なのである。




  今年のNHK大河ドラマのヒーローは西郷隆盛だ。西郷ほど時代により毀誉褒貶(きよほうへん=ほめたりけなしたりすること)の落差が大きい人物はないが、その生涯は波乱に満ちていてドラマ化するエピソードは事欠かないし、活躍した舞台も薩摩、奄美、京、江戸など極めて広域で多彩だから絵にできるシーンにも不自由しない。そうした意味では長丁場のTVドラマの主役に、これ以上ぴったりの人物はいないだろう。

 さて、いま西郷は「毀誉褒貶の落差が大きい人物」だと書いた。西南戦争直後はもちろん逆賊だ。それから明治維新最大の功臣にして江戸を戦乱の大禍から救った国民的英雄と持ち上げられ上野に銅像も建ったが戦後は一転、明治維新の完遂に抵抗した頑迷な保守主義者として軽んじられた。それが再び評価されだしたのは明治百年がきっかけだ。明治百年とは明治元年から100年目の1968年(昭和43年)に政府が企画した祝典である。

 当時筆者は中学三年生。卒業アルバムには同じクラスの生徒たちみんなが書き連ねた文字でいっぱいの黒板の写真が収録されているが、そこに「吉田茂元首相国葬」とならび、この明治百年の文字が大書されているのが見える。中学生でも関心を持つくらいの国民的イベントだったのであり、これに対し明治維新を天まで持ち上げ100年をまとめて祝うことで戦争の過ちを忘却させ、国家主義を鼓吹する危険な動きだと革新政党や知識人陣営から鋭い批判がなされたことも覚えている。ちなみに、こうした論争の結果、官民有識者87人で作る準備会議がまとめた「明治百年を祝う5項目」のうちに「過去の過ちを反省し」の一項目が入ることで妥協が図られたのだった。いまのボンクラ2世どものアホ政権に比べ、当時の自民党政権にはそれだけの懐の深さと老獪な知恵があったということだ。

 さて、今年2018年は明治150年の節目に当たる。100年ほどキレの良い節目ではないが、これを国民の思想動員に利用してやろうという邪な意図は右翼アホ政権には当然あって、内閣官房を中心に様々なことが画策されているらしい。今回、NHKが大河ドラマで西郷を取り上げるのもその一環という気がするが、まあドラマはまだ始まったばっかりだし、評価を下すぎるに早すぎるだろう。

 たまたま、この明治100年のときに歴史作家の池波正太郎が書いた「維新の傑物・西郷隆盛」という一文を読んだ。池波は明治100年で西郷を持ち上げる社会のご都合主義を批判するとともに、国家国民に奉仕するという自らの本分を忘れて当選のためにのみ奔走する明治百年の議員たちについて、これを「もし西郷が見たら、『まだあのときの方がましでごわした』と、西郷は思うかもしれぬ。いや思うより先にびっくりして気絶してしまうであろう」と書いている。ここで「あのとき」というのはもちろん、下級武士が一気に高級官僚に出世して威張っていた明治維新のことだが、明治100年当時の今から見れば数段マシな政治でもこの評価なのだ。ましていまのボンクラ二世政権など見たら、西郷より先に池波がびっくりして気絶してしまうに違いないと思ったことであった。

 このブログでも一年ほど前、「Post Truthの時代について」とするシリーズを立ち上げ、西郷も重要なテーマとして書こうとしていたときがあったが、話題があちこち散漫に飛んでなかなか本題に行き着けないし、しつこすぎる気もしてきてなんとなく書く気が失せ、中断して現在に至っている。書きたいことはたくさんあるのだから再開すれば良さそうなものだが、もういちど文献にあたってウラを取るなどの作業はこの身体状況ではできそうにない。ということで諦めざるを得ないのだけれど、機会があれば西郷についてだけは思っていたところを書いて、けじめをつけたいと考えている。



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 昨日4日夜、韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦像が設置されたことへの対抗措置として、安倍内閣が一時帰国させていた長嶺駐韓国大使が約3か月ぶりに帰任した。もう重ね重ねだが、安倍内閣の無能ぶりというかガキぶりにはつくづく呆れ果てる。韓国側に問題がないとは言わない。だが何があったにせよ、大使を召喚するなどという、外交関係を長期に損ないかねないリスクの高い手法に訴えるのであれば、当然のことながら事態収拾への見通しや、そのための外交折衝などの目算が立っていなければならない。

 だが、この安倍晋三ボンボンとそのイエスマンだけで構成されたガキ内閣に、そんな見通しなどあったようには思えない。単に頭に血が上って、腹立ち紛れに考えられる限りで最大の強硬措置を取っただけだ。で、思うのだが、日本がこんな強硬な態度を示せば、韓国の官民は水戸黄門の印籠を見せられたごとく恐れ入って平伏するとでも思っていたのだろうか。結果は、韓国側は朴大統領の罷免をめぐる大騒ぎもあってそれどころでなく、まあ日本の駐韓国大使などいてもいなくても関係ないという身も蓋もない外交実態が明らかになっただけ。で、振り上げた拳のやり場に困り、何の成果もなくしれっと大使を戻したというのが昨日の措置だ。

 冷静な情勢分析もそれに基づく理詰めの戦略や戦術もなく、まして最悪の状況を想定しての事態収拾への考慮もなく、ただ怒りに任せて行動する。それは頭の悪さと自信のなさの表れにほかならないが、それこそが安倍晋三の実像だ。森友学園問題でそれまで拒んでいた民間人の国会への参考人招致を、鴨池氏が安倍サイドからの寄付を口にしたとたん激昂して参考人どころか証人に格上げて国会に招致したものの、その証人喚問では籠池氏を呼んで何を質すかの作戦すらなかったことが明らかになった。この策もなく激昂して行動する無能ぶり、暴支膺懲(ぼうしようちょう)といい鬼畜米英を叫んで開戦し、この国を破滅させた歴史を彷彿とさせるものがある。A級戦犯の祖父から受け継いだDNAというべきか。

 さて、歴史の話題が出たところで、久しぶりに明治維新の話の続きだ。明治維新政府は日本の資本主義化を上から急速に進める政策を推し進めていたが、その煽りで特権を失った氏族層や地租改正による「日本型原始的蓄積」により窮乏化する農村では不満が鬱積、さらにこれを顧みない政府官僚の腐敗が負け組の怨念を増幅させていた。

 このとき維新最大の功臣であった西郷隆盛は政府を去ってすでに下野していた。西郷の下野について、日本史の教科書では「征韓論に破れ」というストーリーが必ず出てくるのだが、よく誤解されるように西郷が好戦的な韓国征伐を主張し、それに反対する勢力に敗れたというのではあたらない。深入りする余裕はないのだが、先進国による植民地支配が当たり前だった当時、西欧列強に追いつこうとしていた日本として、まず隣の朝鮮半島に食指を伸ばすべしというのは西郷を含め明治政府首脳部の共通認識であり、現に西郷が下野して直後の江華島事件で朝鮮半島進出への橋頭堡を確保している。西郷の主張は、日本からの開国の呼び掛けを断る韓国攘夷派に対し自ら使者として赴き説得することにあった。だがその主張は退けられ、ではもう自分には果たすべき役割はないと西郷は鹿児島に帰ってしまったのだった。

 だが、西郷の帰郷にはもとより予定の行動という意味もあった。西郷は薩摩藩から二度にわたり島流しの憂き目に遭っているが(ただし一度目は処分に見せて藩が幕府から西郷を匿った面もある)、奄美大島での農民としての暮らしは西郷の気に入ったようで、藩からの呼び出しを受けて江戸末期の動乱に加わるため島を出る際に、用が終わればそこに戻る旨を告げている。もともと農業農民への愛着は、藩の過酷な農政に異を唱えて辞職する気骨の上司に導かれ、郡方書役助という農政末端から藩士としての歩みを始めた西郷にとり、心中深く根付く思いだった。

 西郷は直接島に帰ることはなかったが鹿児島に戻って私塾を開く一方、自分自身は半分隠居したような生活を送る。その塾生たちが西南戦争では西郷の軍となるのだから、結果としては武装蜂起の準備をしていたと考えることも可能なのだが、当時の青年層の教育に軍事教練は当たり前の教程だったのだから、そのあたりの評価は微妙ではないかと思う。ただ西郷が中央の政官界と完全に縁を切っていたことは事実だ。一方、朝鮮出兵が遠のいたことで特技である武術を活かしての再就職の希望が絶たれた不平士族は各地で騒乱を起こし、また重税に反発する農民の蜂起もあって、まだ安定するに至らない維新政府の足元はおぼつかなくなってきていた。(続く)



 今日の絵は「法隆寺」。後藤純男氏の日本画の模写です。用紙はウオーターフォードF6

170322 法隆寺 (2)サイズ



  今朝4月1日の朝刊で、安倍内閣が公教育の教材としての教育勅語の使用を容認することを閣議決定した旨の記事に接した。一瞬、エイプリルフールではないかと思ったが事実らしい。さらに中学校で習わせる武道の選択肢として銃剣道を導入することも決定したという。銃剣道というのは近代の白兵戦で敵を殺すことに特化した殺人技術だ、剣道も元はといえば殺人の技術ではあるけれど、長い歴史を経て高度の精神性を確立しスポーツに脱皮して久しい。同列に論じることはできないだろう。道徳の教科書でパン屋がダメで和菓子屋に書き換えた教科書検定の経緯など、これが漫画でなければ狂気の沙汰としか思えない事態が続発している。この狂気を放置すれば、教育勅語を納める奉安殿が復活し銃剣道や軍事教練のために配属将校が赴任してくる日もそう遠くはないのではあるまいか。日本の教育全体の森友化というべきだが、その一方で、こうした狂気のような教育を推進する文科省の高級官僚たちは違法の天下りであぶく銭を掴むというのだから恐れ入る。こういう最低な人間たちがそろって国民に対して徳を垂れるのである。世も末というしかない。

 さて、那須岳山麓での高校生雪崩遭難事故については、その後の報道でもこれまで自分がここに書いたことで修正すべき点はない。ただ、引率教師のうちの責任者が「雪崩の危険はないと考えていた」「絶対安全と判断して行動した」などと発言するのを聞いて、これまで引率教師らに抱いていた同情は消えた。この人は本当の冬山を知らない。恐らく、厳しい冬山登山の経験もないのだろうと思う。それなりの冬山経験がある登山者なら、あの降雪であの斜面を前にして、雪崩のリスクを感じないということは考えられない。この人に冬山のリーダーの資格はない。そんな無知に導かれて、死地に追い込まれた高校生たちは哀れというほかない。

 ついでだが、このニュースを伝えるワイドショーで解説役として野口健が登場していた。以前から多少ずれたヤツだとは思っていたが、この解説で本格的な馬鹿とわかった。録画したわけではないので以下はやや正確性を欠くが、現場の映像を見て野口いわく、「こんなところに行くのは登頂を目指していたとしか考えられない」「調子がいいんで行っちゃおうかって感じになったんでしょう」。アホかである。遭難現場の標高は1270m、那須岳の最高峰茶臼岳は1915m、標高差は650mもあるのだ。これに対し、高校生たちが訓練で登ったのはせいぜい50mに過ぎない。なんでここから「登頂を目指している」なんて超推理がでてくるのか。

 唯一考えられる理由は、野口が映像で見える無木立の斜面のてっぺんを頂上と勘違いしていることだ。公共の電波を使って不特定多数の人々にニュースを伝えるのに、このプロ登山家なる御仁は地図も確認しないらしい。このブログでも書いたが、急斜面は標高差で120m続き、その上はいったん緩やかな斜面になる。だから、下からの仰角の映像では急斜面の終わりがあたかも頂上のように見えるのだ。野口も馬鹿だが、それを口を開けて「なるほどお」と追従するそろって間抜け顔のキャスターやゲストらはまあ素人だから仕方ないとして、番組を作っている側は無責任も甚だしいではないか。まあ、ワイドショーってのが何の取材もしなければ検証もしない、およそ「ニュース報道」などと呼ぶ価値のないヤクザな番組だってことを知ったことだけが収穫だった。

 明治維新の続きを書こうと思っていたのだけれど、前置きを書き始めたら、腹が立って腹が立って。あ、昨日からプロ野球が開幕。我が東北楽天イーグルスは延長の末、追いすがるオリックスをペゲーロの超特大2ランで突き放して勝利した。いいニュースってこれくらいだなあ。そうそうこれに関連してだが、侍ジャパンなんてこれまたいけ好かないネーミングで戦ったWBCに参加した投手たちは、いずれも各チームのエースだが誰ひとり開幕投手にはならなかった。もちろん疲れもあるだろうし、大リーグ球で投げていた感覚を修正するにも時間がかかるという。WBCはプロ選手にとり所詮は余技に過ぎない。その余技のせいで本業に万全な態勢で望めないというのはおかしい。これからもWBCに参加するというなら、公式戦の開幕を遅らせるなどの配慮が必要ではないか。

 ま、ともあれ今日はここまで。



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