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 舛添氏の圧勝で都知事選は終わった。もともと、東京都における政党の基礎票からみれば、自公連合の優位は動かない。市民運動でこの力関係を逆転するには、人物識見ともに都民の代表にふさわしく優れた候補者を擁立し、有権者の圧倒的多数を占める市井の生活者が都政に求める切実な願いを政策に明示して、それを武器に膨大な有権者の一人一人に粘り強く働きかけて支持を獲得する、まさに泥まみれになって地を這うような陣地戦を粘り強く展開してゆくしかない。民主主義の手法で歴史を変える闘いに安直な近道はないのだ。

 今回の都知事選で、こうした闘いの先頭に立つに最もふさわしい候補者は疑う余地なく宇都宮氏だった。実をいうと、コジローとしても氏の政策のすべてを支持するわけではないのだが、安倍政権が推進する復古的な軍国主義復活路線や新自由主義路線に対決する姿勢に揺ぎはなく、貧困対策や高齢化対策、少子化対策、雇用問題、東京五輪、築地市場移転問題、原発を含むエネルギー問題など、個別政策は実によく整備されているうえ、取り組み手法や財源も明示されて説得力があった。人物も経歴も頭の回転も、そして政治家やリーダーとしてのタフさでも、コジローが知る範囲では申し分ない。

 今回の選挙自体、自公推薦の前猪瀬知事の金銭失策に起因するものだっただけに、これで自公候補との対決になれば面白い展開になることが期待されたが、そこに「脱原発ワンイシュー」の旗を掲げて割り込んできたのが小泉細川連合だった。元首相二人のタッグとあってニュースバリューは十分、メディアは争ってこれを大きく報道し、選挙の様相は「舛添vs細川」の二強対決一色に塗りつぶされて、宇都宮氏は氏を支えてきた名も無い市民たちの運動もろとも、電波からも紙面からも事実上排除されてしまった。

 驚いたのは、この動きに乗じて脱原発知識人の一群が「一本化」を策したことであり、さらにそれが不調に終わるや揃って細川陣営に馳せ参じたことだ。つまり「一本化」は世間を欺くための偽りの看板で、その本音は信じがたいほど反民主的な「宇都宮下ろし」の強要だった。これについては、前回のブログでも詳しく書いたので繰り返さないが、その後の彼らの目に余る言動、投票日直前に至っても「最終盤で優勢な方に一本化」などと公然と主張して恥じない驚くべき反民主主義感覚を目の当たりにするに及び感じたことを、以下、備忘録的に書いておきたい。
 
 が、それを書く前に先に紹介した、細川支持者が宇都宮陣営に向けて叫んだ「最終盤で優勢」つまりは「細川氏に一本化」についてもう一言。そもそも一旦立候補の届出が済めば、届出日のうちに取り下げない限り、もう最後まで候補者の都合で降りることはできない。降りればその候補者に投票した期日前投票が無効になってしまい、これによって不当に奪われた選挙権を回復する手段がないからだ。ただこれには例外があり、選挙期間中に候補者が死亡した場合は投票日の三日前までなら補充立候補が認められる。ちなみに2007年の長崎市長選で、現職市長だった候補者が暴力団幹部に射殺された際にはこの規定が適用され、やむを得ず亡くなった元市長への期日前投票は無効となった。かくして、考えようによっては、「最終盤で一本化」を要求した人々は宇都宮氏に死ねと要求したに等しいのだ。彼らには、そんな自覚が果たしてあったのか。いかにも政治や選挙に通じているような口ぶりで一本化の意義をエラソーに説くからには、公選法を知らなかったで済ませられることではない。

 さて本題に戻ろう。選挙期間中、コジローが彼ら一群の脱原発文化人たちの日々の言動に呆れながら久々に思い出したのは、「小市民」とか「小ブル」(=プチブルジョアジー=プチブル)とかいう懐かしい言葉だ。今は昔の1970年代はじめの「政治の季節」、まさに小市民性を体現する全共闘の「革命ごっこ」による暴力支配に荒んだ大学の片隅で、貧困家庭の学生たちは生活費を稼ぐアルバイトに明け暮れながら、暴力排除の活動を展開する一方、自分たちの将来の生き方に即して「知識人のあり方」を模索していた。

 いま「知識人」などというと、どこかエリート臭が漂う高慢な響きがあるかもしれないが、当時は哲学者の島田豊氏が書いた『現代の知識人』という書物などを参照しながら、貧困と差別に満ちた社会の民主的な変革と自分の生涯をどうリンクさせるかといった問題意識で、激しく議論を交わしたものだった。社会を変革する主人公はあくまで圧倒的多数の勤労市民であり、自分たちそれなりに専門教育を受けたものは、その知識でその運動にどう貢献してゆくことができるのか。どう生きなければならないのか。

 そこで、どんな結論が出たのかは簡単には書けないが、エドワード・W・サイードが「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」「アマチュアというのは、社会のなかで思考し憂慮する人間のことである」などと述べているのはやや近い気がする。さらに加えれば思考するだけに留まらず、社会を支える圧倒的多数の人々とともに暮らし行動することで、その思考を実践によって鍛え検証すること、さらに知識人が陥りやすい罠としての「小ブル急進主義」への自戒も、大言壮語を振りまき「革命ごっこ」に興じる迷惑千万な全共闘の坊ちゃん達を反面教師として俎上に挙げつつ、くり返し語られたことだった。

 生活面から言えば知識人とは知識を生活の糧とする人々であり、うまく立ち回れば支配階層の一員に取り立てられる可能性がある一方、下手をすればその地位を失って転落し、明日にでもハローワークに並ばねばならない不安定な境遇に置かれもしている。これは中小企業家や小資産家とも共通する立場であり、こうした立場が「失うものは何もない」分だけ腹が据わった労働者に比べ、思想を不安定なものにしている。こうした人々をまとめて小市民(=小ブル)と呼び、そこに現れやすい思想傾向を小ブル急進主義と呼んだのだった。

 小ブル急進主義の特徴は、理念先行の頭でっかちで激高しやすい点にある。決して悪意はないのだが、例えば安倍内閣の暴走に深い危機感を抱くまでは良いのだが、国政選挙ではない都知事選を「これが最後のチャンス」などと叫んだりする。これはまさに典型的な小ブル急進主義症状といっていい。「最後のチャンス」で負けたら次はないはずだが、不思議なことにまた次の「最後の戦い」がまもなくやってくる。彼らは政治情勢の表層を鋭くキャッチしていちはやく警鐘を乱打しては「決戦」を呼びかけ、敗れるや勝手に「挫折」して落ち込む。要するに、情勢の推移に目移りして躁鬱病のように一喜一憂しては興奮と落胆を繰り返すのだ。

 なぜそんなことになるのか。それは、最近良く「99%」と呼ばれる社会の圧倒的多数を占める勤労者市民の力を信じることができないからだ。クーデターではなく、社会を民主的な手法で変革するには、彼ら主権者一人ひとりの意識を変える以外の方法はない。現体制側のメディアが国民の意識を広く強く支配する国で、これは気が遠くなるほど大変な仕事だ。しかし、例えば安倍内閣が進める軍国主義復活や、格差と貧困を強要する新自由主義路線は99%の主権者の利益と根本的に対立するのであり、そのことさえ理解されれば多数派を獲得できる根拠も展望もある。遠回りに見えても、この道を歩む以外はないのだ。

 だが、小ブル急進主義はこんな時間や手間のかかる民主的な活動の成果を待つことができない。だからこそ「急進主義」と呼ばれるのだが、勤労市民の巨大な力を信じられない、というか、もう少しはっきり言うと彼らは無名の市民たちを見下しているからそこに変革の可能性を見出すことができず、従って共に地道に闘おうという発想も出てこないし、もちろん共に行動もしはしない。

 そのうえ「最後のチャンス」と独りよがりに思い込んでいるのだから始末が悪い。そうした小ブル独特の焦燥感と自己の能力を肥大化したドン・キホーテ的思い上がりが、知名度の高い小泉・細川連合なら「手っ取り早く勝てるかも」という浅はかな判断で飛びつかせ、市民がコツコツと支持を広げてきた宇都宮氏に出馬断念を迫ったのだ。「無名の宇都宮では勝てない」という彼らの尊大な言葉は、宇都宮氏と氏を支持してきたまさに無名の市民たちとその活動に投げつけられた悪罵であり、市民運動を無力無能視する彼ら小ブル急進主義者たちの思想の非民主主義的傲慢さと近視眼的蒙昧さを見事に物語るものだった。

 だが、彼らが期待をかけて絶大に支援した細川氏の得票は、彼らが泡沫視して出馬断念を迫った宇都宮氏にも及ばなかった。細川氏には小泉氏に加えて管氏も支持を表明、つまりこの国の元内閣総理大臣三人が組み、野党第一党の民主党やかつての首相指名人小沢氏が率いる生活の党が支持するという前代未聞の布陣でこの結果だ。

 一方、大雪の影響もあって16%も投票率が落ちた選挙で宇都宮氏は前回得票に上積み、得票率は前回の15%台から20%台へと大きく伸ばした。舛添氏の当選を許したとは言え、小ブル急進文化人たちの妨害はもちろん、メディアが連日この選挙を「舛添・細川の二強対決」と描き、宇都宮氏を圏外にはじき出す報道を垂れ流し続けた中での前進だ。市民運動はこの厳しい試練によく耐えて勝利したし、首都の有権者は立派にその良識を示したといっていいとコジローは思う。空気に流されず自立して判断する市民は確実に増えているのだ。

 かくして今回、小ブル急進主義文化人はその思想的弱点を白日のもとに晒す結果となった。先のブログで私は、「細川を支持する知識人達は、オピニオンリーダーとして有権者をミスリードした責任をとる覚悟はあるのか」と問い、「いまこぞってトロイの木馬に群がりそれに拝跪するリベラル知識人たちは、いずれ自らの不明を恥じることになるだろう」と書いた。これは、知識人たちが陥りがちな小ブル急進主義の危うい思想構造を知る者にはあまりに当然の指摘であり、従ってこうした予言が的中したことを自慢する気は毛頭ないが、かつての未熟な学生たちですら、知識人としての生き方をめぐって自らに内在する小ブル性の克服を常に意識したように、誤った脱原発知識人たちは今回の恥ずべき失態を深く胸に刻むべきではないか。

 宇都宮氏が折に触れて口にされる「我々は微力だか無力ではない」という言葉の深い含蓄をあらためて噛み締めたいと思う。市民運動とは、その微力をコツコツと粘り強く積み重ねてゆく果てしのない営みであり、これ以外に社会を変革する方法はないのだ。

 彼ら、「微力の積み重ね」を信じられずに細川氏を支持した脱原発知識人たちが決して敵ではないこと、むしろ連帯して歩む人々であることは十分わかっている。彼らの主観的な善意ももちろん否定はしない。だが、今回の事態についての真摯な自己分析と総括を避けるなら、将来、再び同じ失敗を繰り返すことになるだろう。この苦しい作業を安易にパスして不問に付す限り、宇都宮氏が呼びかけた「ノーサイド」による真の連帯の再構築はないと思うのだ。


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