3月22日は、紀峰山の会「なでしこ班」の山行で世界遺産でもある高野山町石道(ちょういしみち)を歩いてきました。町石道は、弘法大師空海が開いた真言密教の総本山=高野山の表参道にあたる信仰の道。大師の御母公を祀る和歌山県九度山町の慈尊院を起点として、一町(109m)ごとに石柱を立てていることから、町石道と呼ばれています。ちなみに、町名にもなっている九度山は、母思いの弘法大師が月に9度も、女人禁制の高野山から現在の町石道を下り、母が暮らすふもとの政所(まんどころ=高野山の庶務をつかさどる役所で、場所は現在の慈尊院)を訪ねてきたという故事に由来するとか。

 その町石は慈尊院から高野山の中心である根本大塔まで180基、さらに根本大塔から大師が眠る奥の院まで36基建てられていて、180基を胎蔵界180尊(仏)に、36基を金剛界37尊にあててそれぞれ梵字を彫り、かつてはこの一基一基に拝礼しつつ高野山に参ったもののようです。つまり、慈尊院から根本大塔を経て奥の院まで達すれば、真言密教の世界観を示す胎蔵界、金剛界の両界曼荼羅を身をもって体得することができるというわけなのでしょう。

 というわけで町石道は、ふもとの慈尊院にある180番目の町石からカウントダウンしつつ一町石ごとに高野山に近づき、ついに根本大塔まで登りつめる点にこそ信仰上の価値があるのですが、コジローは厳しい登りはドクターストップですので、今回はゴールの根本大塔から慈尊院に下る計画を立てました。参加してくださったのは4人。南海高野線九度山駅7時7分発の電車に乗車すべく5時40分に和歌山を出発しましたが、想定外に早く着いたので予定より一本早い6時42分の電車に乗ることができました。

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 レトロ感いっぱいの九度山駅。無人ですが券売機があり自動改札になっています。

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 終点極楽橋駅から高野山駅まではケーブルカーに乗り継ぎます。で、このケーブルカーの傾斜がハンパじゃない。最後は30度という壁のような斜面を這い上がるようにして高野山駅に到着です。写真はすれ違った下りの車両。電車もケーブルカーも、お客は我々5人以外は、南海電鉄の職員と思しき女性が二人だけでした。
 
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 快晴に映える根本大塔。高野山駅からはバスに乗り継いで千手院橋バス停で下車、10分ほど歩けば根本大塔です。いよいよ出発。スタート時間は7時50分でした。

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 壇上伽藍を出て大門に向う道すがら、間もなく進行方向右手に最初(本来のコースなら最後)の町石があります。町石はすべてこのような五輪塔で、標準的な高さは3mくらい。五輪が意味するのは上から空、風、火、水、土で、それぞれ人間の身体でいえば頭、顔、胸、腹、下半身にあたるそうです。

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 しばらく車道を歩くと大門です。これは何度見てもすごい。前景の人物からその巨大さが推し量れますね。

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 大門からしばらくは、スギやヒノキの針葉樹林を下ってゆきます。といっても、巨木が多いので飽きません。このスギも相当な迫力でしたが、写真でそれが伝わるでしょうか。

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 町石は大体こんな感じで立っています。

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 町石のほかにも、慈尊院からの距離を示す里石やこのように古い道標もあります。右慈尊院と彫られているのは読めますが、左はなんと彫られているのでしょう。かろうじて「山楼」と読めるように思いますが、楼は楼門、つまり大門のことでしょうか。

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 これが100町石。ちょうどキリがいいので記念撮影しました。

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 神田(こうだ)地蔵堂。神田はこのあたりの地名ですが、昔からこの場所にはお堂があって、参詣者はここで休憩を取ったそうです。私たちものどかな山里の風景を楽しみつつ、ここで昼食にしました。

 もうひとつ、このお堂には悲恋伝説があります。平安時代、平清盛に仕えた斎藤時頼という武士は、清盛が主宰した宴で建礼門院に仕えていた横笛という美貌の女性の舞を見て一目ぼれし、恋文を送ります。横笛は多くの男たちから交際を求められていましたが、時頼の無骨だけれど真情にあふれた恋文からその人柄を見抜いてこれに応えようとします。しかし、時頼の父は身分違いの恋を許さなかったため、失意の時頼は横笛に告げず出家して仏門修行に入り、修業した寺の名を借りて滝口入道と自称するようになります。

 その後、二人の間でいろいろいきさつはあったのですけれど、最終的に滝口入道=時頼は女人禁制の高野山に入り横笛への思いを断ち切ろうとします。横笛は滝口入道を慕って後を追うのですが女人結界に阻まれ、この地蔵堂でいつか町石道を降りてくるかもしれない滝口入道を、来る日も来る日も待ち続けて人生を終えたのです(入水自殺したという説もあります)。それを知った滝口入道は悲しみを振り捨てるようにますます一心不乱に修業に励み高野聖となって別格本山の住職を務め、後に紀伊勝浦での平維盛(これもり)の入水に立ち会っています。なお、維盛の逃避行の事績については以前、小辺路の山行報告で少し書きましたので、ご参照ください。

 以上が平家物語が伝える一段なのですが、ん~、ま、滝口入道の立場も分からなくはないけれど、これは絶対的に横笛の肩を持ちたくなるよねえ。「身分がなんぼのもんじゃ!」「滝口入道の意気地なし!」・・・と、当時の庶民も思ったようで、この町石道に近い天野の里の一角には、横笛の悲しい生涯を哀れんだ村人たちが建てたという「横笛の墓」があって、いつ訪ねても花が絶えることがありません。ともあれ、この神田地蔵堂で112町石を数えます。

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 さらに120町石付近、全行程の三分の二を歩いたところで二つ鳥居に出会います。この鳥居は先の話でも出てきた天野の里に鎮座する丹生都比売(にゅうつひめ)神社の神域を示すもので、一つは高野明神を、さらに一つは丹生明神を示すといわれています。

 空海は高野山の開創に際し、丹生都比売という女神からその神領であった地を譲り受けたという伝説があり、このとき空海を高野山に案内したのが丹生都比売の息子で、黒と白の犬を伴う狩人に化身した狩場明神(高野明神)でした。ということで神仏習合的ですが、高野山にはまずこの神社に参ってから町石道を登るのが慣習化されていたそうです。なお、丹は朱砂(しゅしゃ)=辰砂(しんしゃ)の鉱石から採取され水銀の原料ともなる朱を意味し、丹生はその鉱脈があったところに残る地名で、全国に数ある丹生神社や丹生都比売を祀る神社の総本山がこの天野の丹生都比売神社なのです。

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 余裕があればその丹生都比売神社に立ち寄りたかったのですが、時間が押していたので先を急ぎ、136町石付近で六本杉峠に到着します。
 
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 160町石を過ぎると柿畑の中の道となり、下界の展望がぐっと開けて蛇行する紀ノ川が目に飛び込んできます。気持ちの良い所ですが、堅い舗装路がすでに18kmを歩いてきた足に結構こたえます。

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 かくして、ようやくゴールの180町石に到着して記念撮影。よく頑張りました。がまだ、朝一番に車を置いた九度山駅付近まで、1.5kmほど舗装路を歩かなくてはなりません。
 
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 180町石から階段を下ると慈尊院です。冒頭にも書きましたように、弘法大師の御母公がお住まいになった所で女人高野とも呼ばれ、女性の両乳房を造形した「乳房型(ちちがた)」が多く奉納されている女性のお寺です。
 
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 まだ花の季節には早く、あまり見るべきものはありませんでした。これは先々週の「春日山」でも見たシキミの花。シキミはミカン科で、葉をちぎるとみかん独特の香りがして、明瞭にそれとわかります。

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 シロバナショウジョウバカマ。 ショウジョウは猩々(しょうじょう)と呼ばれる大酒のみで真っ赤な顔をした猿に似た架空の動物のことで、能では真っ赤な長い頭髪を振り回す姿で演じられています。ショウジョウバカマの花の多くは真っ赤なためこの名がついたのですが、白花では猩々を連想させるのは無理ですね。またハカマは和装の袴のこと。この植物の葉がロゼッタと言って、地面に広がって張り付く様子を袴に例えたのです。このショウジョウバカマについては、その生態に面白いことがいくつかあるのですが、それについてはまた別の機会に。

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 シロバナショウジョウバカマの花のクローズアップ。花は先に雌しべが伸び、そののち時間差をおいて雄しべが伸びてきます。この花は雄しべが十分伸長しているので、成熟した状態であることがわかります。

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 ホトケノザ。 同じシソ科で外来種のヒメオドリコソウと間違えやすいのですが、ホトケノザはこの写真のように葉の上に花がつくのに対し、ヒメオドリコソウは葉と葉の間に花がつきます。なお、春の七草に数えられるホトケノザはコオニタビラコというキク科の植物のこと、ホントややこしいです。
 
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 ホトケノザの花のクローズアップ。「踊り子」の名は譲りますが、ヒメオドリコソウや在来種のオドリコソウ(以前のブログに写真を掲載しています)とそっくりの花の形で、阿波踊りや佐渡おけさを踊る女性のようです。本当に自然の造形というのはつくづく驚異に満ちています。

 さて、慈尊院から車道をテクテク歩き、途中の道の駅で柿の葉寿司を買ったりして駐車場に戻ったのは16時半。根本大塔からの全行程に8時間40分を要したことになります。ガイドでは登りでも標準タイムが7時間ですので、まあ6時間もあればなんとか・・・と思ったのは甘かった。ワタクシの講釈時間が長かったのか、それともゆっくり歩きすぎたのかよくわかりませんが、丸一日たっぷり歩いて活動量計を確認したところ、39185歩で23.9kmの歩行量。まあ、疲れるはずです。ともあれ全員無事ゴールインできてやれやれです。帰りの車では運転手のワタクシ以外、みなさんそろって大爆睡でした。(^_^;)



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 最近、雨の日が多いですね。 梅は終わり、桜にはまだ早い時期ですが、ようやくひと雨ごとに春めいてくるような実感があります。以下は、わが紀峰山の会の季刊誌に連載している巻末コラム。実際に書いたのは2月半ばでした。



     植物百話 4  マンサク

  「春山淡治(たんや)にして笑ふがごとし」(郭思)。

 中国の古詩から春の季語となった「山笑う」には、木々の新芽が膨らみ花が開き、冬、長く静かな眠りに落ちていた山が目覚めてゆく様が巧みに表現されている。雪解けと競うようにして次々に蘇ってくる生命との再会に、山は喜びの微笑みを見せるのだ。淡治(たんや)とはあっさりしていて艶(なまめ)かしいさま、そこはかとなく香り立つような色気を指す。
 
 このコラムを書いている2月中旬、山はもちろん町もまだ冬のさなかだが、南の地方では梅の花がほころび、春が萌(きざ)しつつあることを伝えている。梅の季節が過ぎれば、間もなく山も日々、春の気配を増してゆく。
 
 もう何年前のことになるだろうか、東北の早春、津軽の名峰「岩木山」の山頂直下から無垢無木立の広大な斜面を歓声を上げながら滑降したときのこと、傾斜が緩くなって緊張から解放され、それまでの豪快な大滑降の余韻に浸りつつなだらかに下る雪原を滑走していると、樹林帯に入る手前でたくさんの黄色い花を付けた木に出会った。マンサクだった。

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 マンサクの花は赤紫色の「がく」から黄色い紐のような4枚の花弁を伸ばして咲く。葉に先立って花だけが展開し、花の数も多いので色彩に乏しい残雪の山では非常によく目立つ。

 マンサクは春一番に咲くことから、東北の人たちが同地のお国言葉で「まんず咲く」と呼んだのがなまってこの名になったというが、植物図鑑はマンサクの分布を関東以西の太平洋側としている。おそらく、東北の人たちが接したマンサクや自分が岩木山で見たものは、現代の植物分類では「北海道南部から日本海側に分布し多雪地に適応」と説明されている「マルバマンサク」という亜種になるのだろう。…とすれば標準和名「マンサク」の由来は東北弁ではなく、たくさん花がつくことからの豊年満作への期待を込めた太平洋側の人たちの連想が語源との説のほうが正しいのかもしれない。

 マンサクは各地で「ネソ」あるいは「ネッソ」などと呼ばれている。勉強不足で和歌山の山村でどう呼ばれていたかは知らないのだが、ネソは本来、ガマズミやソヨゴ、カマツカやヤマボウシ、リョウブなど、よくしなり強靭な性質を生かして柴や薪を結束するのに用いてきた木の枝や樹皮の総称で、なかでもマンサクが特にそうした用途に適していたため、やがてはマンサクの別名として定着したものらしい。ネソに使うのは若いマンサクの幹や枝で、生のうちに樹皮ごとねじって繊維をほぐし、ときには掛矢で叩くなどで柔らかくし、長く平たい棒のような形状で使用する。

 世界遺産に指定された白川郷や五箇山の合掌造り家屋を訪ねて、釘やかすがいを一本も使わず、あの巨大な屋根を支える木組みが造られていることに驚嘆した方もおられるだろう。外観からはローブ状のもので縛った部分しか見えないが、家屋の中に入ってよく観察してみれば、その木組み、ヤナカと呼ぶ横木とクダリと呼ぶ縦木の交差部が黒光りするネソで締め上げるようにしっかり結束されていることが分かるはずだ。ネソは巻き付けられてから時間とともに結束部を強く締めつけてゆくが、それと同時に「結ぶ」という固定法の特性から、風による屋根全体の揺れにもしなやかに対応して倒壊を防いでいるという。化繊のロープや金具ではこうはいかない。昔の山里の人たちが植物の性格を熟知して、見事に活用していたことが知れるだろう。

 もちろん、山間地では稲わらの入手が困難であったことから、わら縄の代わりに使用したケースも多かったに違いない。伝えられるところでは、筏(いかだ)に使用する木材同士の結束や、古来から河川工事で使用されてきた蛇籠(じゃかご=編んだ籠の中に石を詰めて河川の護岸形成や流路の安定などを図るもの)にも利用されてきたらしい。

 マンサクを結束材とするために捻(ひね)りながら曲げてほぐすことを「ねる」というのだが、このようにネソを多用した地域では、まだ未熟な者を表現するに際し「ようねそもねらんで…」といった言い回しがあったという。 ことほど左様に、マンサクを「ねる」ことは一人前の成人男子であれば必ず身につけねばならない生活技術であったのだ。

 そのマンサクが危ないという話を聞いた。花が終わり、葉が展開してしばらくすると上部の葉から褐色に変色し始め、やがてこれが全体に広がって枯死するマンサクが急速に増えているという。1998年に愛知県で初めて確認されて調査してみたところ、同じ症状の蔓延が東北から西日本に至る全域で確認されたそうだ。原因としてはある種のカビが疑われているが、まだ確証はない。

 自然と人間との関係は本当に微妙だ。人間が利用しなくなった結果、里山が自然林に回復してゆく過程でアカマツのように衰退してゆく植物もある。マンサクの病気の原因はわからないが、利用圧の変化にせよ温暖化にせよ、人為に起因するなんらかの変化が関与している可能性は高いだろう。マンサクを「ねる」技術など忘却して久しく、それを必要ともしなくなった現代人であっても、あの花を見られなくなるのは悲しい。早く原因が解明されて、適切な対策が打たれることを祈るばかりだ。そして今年も間もなく、マンサクが花期を迎える。



 あれからはや4年が経過した。テレビや新聞には関連の報道があふれていて、ことに失った肉親を偲ぶ遺族の言葉や姿は、なんど接しても鼻の奥ガツンと痛くなる悲しみの共感にとらえられる。今なお行方のわからない方々を含め2万人に近い犠牲者の無念と絶望は、果たしていかばかりであったことだろう。また、命だけは助かったとはいえ、震災や津波に加え原発事故もあって、住処や仕事やその他、生活の基盤を根こそぎ失った人々の苦しみや悲しみの総量を思うと、その被害の甚大さに言葉を失う。

  さればこそ、3月11日が追悼と鎮魂の日となることに異存はない。被災地に住まない多くの人々にとり、多忙に飛び去っては忘却の底に埋もれてゆく時の流れの中で、この日、ことさらに記憶を呼び起こし、改めてこの想像を絶する巨大な悲惨に心つぶれる思いをすることは、人間の良心の営みとして最低限必要なことだろうからだ。被災地を毎年訪ねたり募金に応じたり、同地の物産の購入を心がけたり、自分なりにできる範囲のことは一応してきたつもりだが、その程度のことしかできないことに、もどかしさも募る。

 だが、それはそれとして、3.11報道がこんなに哀悼ムード一色でいいのだろうか。震災や津波自体は天災だ。それを予知することは今の科学には不可能だったし、数々の不手際から犠牲者が増えた面も確かにあった一方で運が悪かったとしか評し得ない犠牲もあった。だが、その後の4年間の対応は果たして最適に行われたのか。まして原発のシビアアクシデントはその事故自体、津波による全電源喪失の恐れが指摘されていたにもかかわらず対応を怠った故の人災の面も否定しがたくある。にもかかわらず、その責任は不問に付されたまま、ただ「絆」などという綺麗ごとの気持ち悪い呪文が大量に流布され消費され、そして擦り切れていっただけではないのか。

 あの「絆」という主体不明の言葉が垂れ流されるたび、自分には広島の原爆公園に置かれた原爆死没者慰霊碑の碑文が思い出されてならなかった。周知のように、埴輪の家をかたどったその慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれている。この碑文の趣旨は、「原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならない」ということらしいが、この碑文には原爆を落とした者への抗議も、そうした破局的な事態を招いた者たちへの問責もない。

 あくまで静かに追悼の意をささげるのが趣旨であるのだから、野暮なことをいうようで気が引けなくもないのだが、これでは何が「過ち」だったのかさっぱりわからないし、従ってどうすればそうした過ちを「繰り返さな」くて済むのかの方法もわからない。かくして事態の責任の所在は宙に浮き、死者を悼んで「一億総懺悔」するほかのすべはなくなってしまう。そうした機能は「絆」も同じだ。

 そして4年後、本来なら無謀な原発推進政策と呆れるほどの無能を厳しく糾弾されねばならなかったはずの政権と原発ムラは無傷のまま生き延びて再稼働を策し、「アンダーコントロール」という目が点になりそうな公然たる嘘でオリンピックを誘致しては、その景気の良さそうな花火の煙幕に被災地の悲惨とそれを招いた自らの不作為を雲散霧消させようとしているのではないのか。これは、70年前のあの徹頭徹尾打ちのめされての全き敗戦でも責任の所在をうやむやにし、そして戦後復興と経済成長の狂騒の中に戦争責任を埋没させてしまったやり方と瓜二つの構図だ。かくしてこの国を二度にわたり破滅の淵に追いやった政官財エリートのDNAは、誰ひとり断罪されることもなく途切れず受け継がれ、この国の非業の宿痾もまた繰り返されてゆくのか。

 この手の低級な目くらましというか政治的詐欺に、一度だけでも大のオトナが恥ずべきところ、同じ手口で二度も騙されてはたまらない。「絆」などといった美しくも政治的な免罪のスローガンに騙されて、3.11を8.15と同じにしてはならないと強く思うのだ。  



  3月7日、紀峰の会「なでしこ班」の企画山行で奈良の「春日山原始林」に行ってきました。この程度の高低差ならなんとかご案内できるだろうと考えてのコジローの提案。女性ばかり4人の会員が参加してくださって実現しました。ちなみに紀峰山の会では6つある班ごとに今年3月から来年2月までの年間山行計画を作成しており、我が「なでしこ班」は約60の山行を企画。この春日山原始林が年度最初の山行になります。

 春日山は春日大社の神域で、同社が成立した平城京の時代・・・ということは、いまから1400年前から厳しく狩猟伐採を禁じ保護してきたということで、まさに「原始」の森が残されている国の特別天然記念物。また、「古都奈良の文化財」を構成する8つの文化要素の一つとして世界文化遺産にも指定されています。植生としては基本的には暖帯性の照葉樹林なのですが、より南方系の植物要素も見られるようです。

 7時前に和歌山を出発して、春日大社の駐車場に8時15分に到着。身支度を整えて8時半から春日山遊歩道を北入口から歩き始めました。

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 遊歩道の入口にある石標。ゆるやかに登ってゆく道路はよく整備されていて、左右の植物を観察しながら歩くのに最適です。いまは冬なので落葉樹が葉を落としていているため林内は明るい。葉をつけていてよく目に付くのは、スダジイやコジイ(ツブラジイ)、ツクバネガシ、ウラジロガシ、アセビ、カゴノキ、モミ、スギなど。落葉樹では、ケヤキ、ムクノキ、各種のカエデ類、それから巨大なフジも見かけました。伐採されていないだけに、見事な大木も多いのですが、残念ながら写真にはなりにくい・・(^_^;)

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 樹木などの解説も交えながら、ゆっくり歩いて9時50分には三笠山(=若草山)山頂(342m)に到達。曇っていましたがなかなかの見晴らしで、左手に金剛山がゆったりと聳えていました。また、この付近だけ、アセビが多くの花をつけていました。日当たりが良い分、林内の個体より早く咲くのでしょうか。

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 奈良公園といえば、やはりこの子たちを外すわけにはいかないでしょう。若草山周辺にも多くいましたが、春日大社におわす神様の使いです。

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 若草山から遊歩道は春日山ドライブウエイと合流します。が、ドライブウエイといっても舗装しているわけじゃなく、広い地道が続くだけで、車もほとんど通らないので感覚としては歩道と同じです。その途中で見かけた山桜の巨木。・・・なんですが、やっぱ、私の写真技術ではスケール感が出ませんねえ。

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 若草山からゆっくり歩いて一時間ほどで、大原橋の分岐点に出ます。そこにあった石標。世界遺産であることが刻まれています。ここから鶯の滝への道が分岐しているのですが、まあこの水量、この山の深さから考えて、そんなに立派な滝があるはずもないので立ち寄らず、先へ進みました。そうそう、この橋のそばに東屋があって、大きな「鹿威し」(ししおどし)が時折、静かな山中に甲高い音を響かせていました。

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 さらに半時間弱の登りでこのコースの最高標高点である芳山交番(394m)に達し、そこから少し下ると首切り地蔵です。11時25分着。なお、交番といいますが警察関係の施設ではなくハイウエイのチェックポイントのことです。

 首切り地蔵はその名のとおり首のところで切れた跡がありますが、これは荒木又兵衛が試し切りしたためとか。まあ、ありそうもない話ですけどね。それから、この写真では小さく見えますが、この地蔵さん、人の身長を上回る高さがあります。となりの小さなのが標準サイズ(?)の地蔵さんですので、比較してみてください。

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 首切り地蔵のそばにはこのような東屋とトイレが整備されています。ここで昼食としましたが、いやあ寒かった。

 ここから、再び遊歩道に戻ったのですが、トイレの横から小川沿いに不明瞭に分岐している東海自然歩道の方を歩いたほうが、良かったかもしれません。下山してからわかったのですが、岩に刻んだ何体かの石仏は、東海自然歩道からしか見られないからです。

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 まだ山は冬の眠りの中といった感じで、今回の山行中、見かけた花は、本文にも書きましたが、若草山周辺のアセビ、ところどころでポツンポツンと咲いていたヤブツバキ、それからこのシキミくらいでした。

 シキミの透明感のある白い花は可憐ですが、そのシキミは「毒物及び劇物取締法」で規制されている唯一の植物として知られるほどの毒性があり、幹や枝も葉も根も含め株全体が劇物なのです。中でも実は毒性が強く、それゆえ「悪しき実」と呼ばれたことがシキミの語源と言われる程です。

 そうした性質を昔の人はよく知っていて、土葬した死体を山犬らが掘り返すのを防ぐためこの木で墓地を覆ったとか、まだ埋める前の死者の死臭を消すためにこの枝葉が焼かれ、これが抹香の元となったとも言われます。それで、関西地方ではいまも、葬式でシキミを立てる風習が残っているのですね。

 そんな人間側の思いとは関係なく、まだ色彩に乏しい早春の森でシキミはひとり、さかんに春の訪れを告げていました。

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 最後にもう一枚。これはカゴノキの樹肌です。カゴノキは「鹿子の木」で、ようするにこの斑点模様が鹿の子の肌模様に似ていることから、この名が付いたのです。一般にはあまり見かけない木なのですけど、この原始林にはたくさん生えていて、何回も間近に見ることができました。案内したメンバーたちも、この「鹿の子模様」だけはしっかり記憶してくださって、次の機会には簡単にカゴノキを識別できることと思います。

 春日山遊歩道をぐりっとめぐって南入口に達し、さらに春日大社境内の歩道を少し歩いて駐車場に戻ったのは13時半。戻ったのを待ちかねたように、それまで薄暗かった空から大粒の雨がこぼれ落ちてきました。これはラッキー、やはり日頃より善行は積んでおくものです。その後、時間が余ったので興福寺の宝物殿でも見ていこうかと立ち寄ったのですが、駐車場が満杯で入れないほどの人だかりでしたので諦め、和歌山へ直行。15時ちょうどに無事集合地点に帰着し、パーティを解散しました。

 ま、山行とも呼べないほどの遊歩道ですが、日本でも第一級の原生の森にこんなに近くで接することができるのはすごいことです。今回は落葉樹も花もなくて寂しかったので、また機会を改めて再訪したいと思います。



 また右往左往しているうちに時間が経過してしまいました。国や県との契約に基づく仕事が多い関係で、年度末はイベントが目白押しになりとにもかくにも、めっちゃ忙しい。

 例年、5月の半ば以降から事業の公募が始まり、応募してうまくいけば選定され、そこから細かな点を詰めて事業の仕様書が出来あがって双方合意して、ようやく契約できるのが早くても夏ごろになるので、実際に事業に取り掛かれるのは秋に入ってから。で、3月には事業報告をまとめなくちゃならない…というわけで、正月明けからギシギシに日程が詰まってくるんだよね。

 さらに今年はこれに加えて、2月20日~22日にかけて「木の駅サミットinわかやま」って全国規模の催しを、日本一の梅が満開の南部に誘致して開いたものだから、忙しさも極まれりって、事務局のメンバーはそれこそ休日返上、不眠不休の大奮闘。おかげで山形県から鹿児島県まで、全国から100人の熱心な参加者が集まってホットな議論を闘わせ、催し自体は大成功でしたが、まあ、ヘトヘトに疲れました。

 それもようやくこの週末に、和歌山市と田辺市で連続して開いた地球温暖化防止活動推進員の養成講座で一段落。あとは契約した活動の成果と決算をまとめて報告し(これがまた結構大変な作業なのですけれど)、さらになんとか暇を見つけて、来年度の活動の仕込みに取り掛かることになります。

 といった次第でまだ気は抜けないのですが、今朝の朝日新聞の記事を読んで、これだけは書いておかなくてはと思ったことを一筆。

 今朝3月3日の朝日は、「検証・集団的自衛権」と銘打った連載記事で、集団的自衛権容認の閣議決定をめぐる自民党内の議論を、高村正彦副総裁が砂川判決を持ち出して平定した経緯を報告している。記事によれば、首相の安倍晋三が党内の議論を経ず、いきなり衆院予算委で集団的自衛権の行使容認を閣議決定する意向を示したことから党内で異論が噴出、このため総務懇談会が開かれたという。ちなみに総務懇談会は党を二分するような問題について、自民党の最高意思決定機関である総務会を開催する前に議論を詰める場で、開かれるのは小泉政権下での郵政民営化以来のことになる。

 その総務懇談会の場で、「憲法の『平和主義』に抵触する」「立憲主義を理解しているのか」といった、右傾化した自民党でもなお生き残っている良識的というか、まあ当たり前の疑念が表明されたのだったが、これに対し高村は「自衛権を個別と集団に区別せず、国の『存立を全うするために必要な自衛の措置は取りうる』」とした最高裁砂川判決を引き、「これが最高裁が自衛権について述べた唯一の判決だ」「最高裁が言っている範囲なら、内閣が変更しても立憲主義に反しない」とまくし立てて、異論を封じたという。

 その後、公明党が同意して集団的自衛権を合憲とする無茶苦茶な解釈改憲が一内閣の閣議決定で強行された経過は周知の通りだが、さてこの高村が錦の御旗に掲げた砂川判決とはいかなるものか。

 砂川判決のもととなった砂川事件は1857年、当時の東京都砂川町(現在の立川市の一部)の米軍基地拡張に反対するデモ隊の一部が米軍敷地内に立ち入ったとして起訴された事件。東京地裁の第一審は「日本政府が米軍の駐留を認めたのは日本国憲法9条第二項に定める『戦力の不保持』に反し違憲である」と断じ全員無罪の判決(伊達判決)を言い渡したが、検察は直ちにいきなり最高裁へ跳躍上告する。

 その最高裁大法廷で裁判長を務めた田中耕太郎最高裁長官は「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」という理由で原判決を破棄して地裁に差し戻し、その後この判決が確定する。これが砂川判決だ。

 コジローは法律には素人だが、この判決理由が要するに二つのことを言っていることくらいはわかる。ひとつは米軍は日本国が指揮管理できる戦力ではないから日本国憲法の制約を受けない、そしてもうひとつは日米安全保障条約のような「高度な政治性」を持つ条約については、(たとえ最高裁であっても)違憲かどうかの法的判断を下せないという、世に有名な「統治行為論」を採用していることだ。

 有体(ありてい)にというか、要するに、ぶっちゃけて言えば、一つ目の理由はアッと驚くような屁理屈で、二つ目の理由は日本は近代民主主義の基本である三権分立や立憲主義が通るような法治国家ではないと認めたに等しい。でもって、さらにこの二つの理由が物語るものを冷静に詰めてゆくと、日米安全保障条約(とそれに付随する日米地位協定、砂川判決当時は日米行政協定)こそがこの国のカタチを決定する最高法規なのであって、日本国憲法の諸規定など日米安全保障条約(同前)が許す範囲でしか有効ではないという現実、つまりこの国は外国軍隊に占領されてなお独立を回復していない半植民地に過ぎないという冷厳な事実を、この国の司法の最高責任者があからさまに認めちゃったということを意味する。

 さらにこの砂川判決に至る経過も植民地らしい屈辱的なものであったことが最近、米国で公開された公文書などで分かってきた。それによれば、伊達判決にあわてた当時の米国D・マッカーサー駐日大使(マッカーサー連合国軍最高司令官の甥)は藤山愛一郎外相を呼びつけ、同判決を1960年の安保改定までに覆すため最高裁に跳躍上告するよう圧力をかけたほか、田中耕太郎最高裁長官その人とも密談しその場で田中から、米国側の意向に沿うよう「伊達判決は全くの誤り」であり「判事の全員一致」で合憲の判断を下せるよう望んでいる旨の話を引き出している。また先に書いた砂山判決の「日本が指揮管理できない戦力は日本国憲法による制約を受けない」という屁理屈が、ジョン・B・ハワード国務長官特別補佐官の入れ知恵であったことも明らかになっている。そしてすべては米国が望んだ通りになった。要するに、判決も判決理由もさらにはそれ以前の司法手続きも米国がシナリオを書いたのであって、田中は法衣を着た案山子(かかし)に過ぎなかった。

 話を元に戻そう、集団的自衛権の行使容認を高村は、このように徹頭徹尾国辱的な砂川判決で合理化した。これで沈静化してしまう自民党内の「異論」の程度にもあらためてガッカリさせられるが、かくのごとく外国の軍隊に戦後70年も国土を占領され、独立を奪われ続けていることに何らの痛痒も感じない…というか、むしろ占領者に卑しく付き従うことを権力の拠り所にして恥じないこの国の傀儡(かいらい)支配層のメンタリティが、あろうことか日本の独立を否定した米国製砂川判決を持ち出して恥じない高村の発言と、さらに水戸黄門の印籠のようにその前に膝を折って拝跪する自民党内諸氏の有様からよく見て取れたのが、朝日が伝える本件の顛末だった。独立を売り渡して地位にしがみつく分際で、今後エラそうに「国益」などとは言わないでもらいたい。思考停止も極まれりというべきではないか。