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2015.08.26 夏の志賀高原
 もうかなり時間が経ってしまったのですが、私が所属する紀峰山の会の機関誌に載せた山行報告です。


       夏の志賀高原                               

 志賀高原と聞いて直ちに連想するのは冬のスキーだろう。豊富な積雪に恵まれ、広大な高原に80本を超えるリフトを縦横にかける日本最大のウインターリゾートなのだから、それは当然のことだ。しかし、実は夏の志賀も捨てたものではない。森林限界を抜くような高峰こそないが、山地帯から亜高山帯に広がる天然林に多くの池や湿原が点在し、美しい景観と多彩な花が訪れる者を魅了する。登山者がよく使用する昭文社の『山と高原地図』の一巻として「志賀高原」が採用されていることからも、それは理解されよう。

 とはいえ冬に比べればやはり、夏の志賀高原への来訪者は圧倒的に少ない。スキー宿はどことも閑古鳥で、窮余の策として東京の学習塾から小中学生の合宿セミナーを大量に受け入れてしのいでいるのが実情だ。今回の山行ではそんな塾生、「必勝」と大書したハチマキを締めた子どもたちを満載した大型バスが百数十台も連なる異様な光景を目撃して仰天した。東京の教育はこんなことになっているのか。この国はやはり病んでいるのではないのか。

 自分が過去に一度、夏の志賀高原を訪れたのは15歳の時だった。当時、長野市に単身赴任していた父が、たまには父親らしいことを…とでも考えたのか、乏しい貯えから奮発して大阪に住んでいた家族を呼び寄せ、山麓の上林温泉に宿舎をとって案内してくれたのがこの志賀高原「池めぐりコース」の一部だった。それから半世紀近くが経過し、その父は既に亡い。考えてみれば、当時の父は今の自分より20歳も若かった。その父の背を見ながら息を切らせて山道を登り、ようやく池が見えてホッとした記憶が鮮明に残っている。志賀高原を再度訪ねて、よしんばその記憶を確かめるのも今回の山行に期すささやかな思いだった。

 前置きが長くなったが、かくして8月6日、夜に臨時の仕事が入って当初の予定より大幅に遅れたが夜半に和歌山を出発、ちょうど夏山リフトが動き始める翌7日の9時前に高天原ゲレンデに到着した。早速身支度を整え9時10分にリフトに乗車。初日の今日は寺子屋峰から志賀高原の主稜線を縦走して岩菅山に登頂し、大きく周回してスタート地点に戻る計画だ。リフト終点から少し登って東館山の山頂にある高山植物園を経由して登山道に入る。同植物園には多くの高山植物が植栽展示されており、これだけでも結構楽しめる。植物園からしばらく歩くとやがて寺子屋ゲレンデに飛び出し、そこからひと登りで寺子屋峰(2125m)、さらに登って主稜線上の金山沢の頭に達したのが11時だった。2000mの気圧の低さはやはり厳しく、当初想定したより時間がかかっている。その想定もかなり余裕を見たつもりだったのだが…

 主稜線を北東へ岩菅山(2295m)を目指す。稜線上の道は右に豊かな樹林に覆われた魚野川の源流域を広く俯瞰して爽快だ。背後には快晴の空をバックに横手山もくっきりと見える。岩菅山の登路が始まるノッキリの分岐には12時半に到着。そこから岩菅山山頂までそう距離はないが、厳しい急登の道が草原を貫いているのが見えた。時計と体調を見て自重し下山を決定。15時過ぎ、高天原ゲレンデに戻って車を回収、木戸池まで走って自炊し車中泊した。

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 主稜線の道は爽快、正面にめざす岩菅山がくっきりと見えたのだが・・・

 8日は長距離の「池めぐりコース」を木戸池から全て徒歩で周る予定だったが、前日の体調を考慮してリフト利用へ計画を変更。夜明けと同時に起床後、リフトが動き出すまで時間があるので周囲を散策し、木戸池から小さな峠を越えて、田野原湿原が霧に沈む、素晴らしく幻想的な光景に出会うことができた。やはり早起きは三文の得だ。(下の写真でその絶景ぶりが伝わるだろうか)

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 前山リフトに車を回し8時10分の始発に一番で乗車。リフトの終点が前山湿原でこれを通過してひょうたん池をピストンし、さらに渋池、四十八池へと、登山道にしては広すぎる道をゆっくり登りながら、次々に池を巡ってゆく。四十八池は高層湿原で、志賀山を借景に箱庭のような美しさだ。さらに足を伸ばし小さな登りと急峻な下りを経て11時、エメラルドグリーンに輝く大沼池に達した。この池の宝石のような美しさ、特にやや高い位置から見下ろす情景は筆舌に尽くしがたい。

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  箱庭のような四十八池、背後は左が志賀山、右が裏志賀山

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  宝石のように美しい大沼池

 大沼池の周囲を巡るとやがて未舗装の林道となり、さらに塾の生徒を満載したバスが頻繁に行き交う舗装道に出たので、これを歩いて12時40分、蓮池のバス停に達した。そこで40分ほど待ってバスに乗り、前山リフトまで戻って車を回収。道草を食いながら志賀草津道路を快適に走って、万座温泉の豊国館には15時すぎに到着した。豊国館は昔ながらの湯治の宿で素朴かつリーズナブル(一泊二食でも6500円、自炊なら3500円)、しかし白濁したお湯は万座一との評判だ。その世評に間違いはなかった。

 最終日の9日は本白根山に登る予定だったが、同山の周辺には厳重な噴火警戒の入山規制が敷かれていて、山登りどころか駐停車も厳禁。仕方がないので木戸池に戻り、前日、出発を遅らせた関係でカットした「池めぐりコース」の残り「木戸池~蓮池」間を9時半から歩き始めた。そして、歩いてみて確信したのだが、この道こそが約半世紀前の中学三年生の夏、父の背を見ながら歩いた道だった。ガラにもなく少し感傷的な気分になりつつ次々に小さな池をめぐって11時過ぎに蓮池に到着。20分後のバスに乗って木戸池に戻り、和歌山への帰路についた。本白根山の入山規制は事前の調査不足だったが、そのおかげで追憶の道に再会することができたのだから、まあ、良かったとしよう。ともあれ、このように志賀高原は夏に訪れても見所は多い。いちいち書かなかったが出会える高山植物の種類も多彩だ。体力的な負担も小さく、山好きにはもっと歩かれて良い山域だとあらためて思った。

おまけに生物の写真を少しだけ

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  コバギボウシ、今が盛りで、池の周囲など湿っぽいところでは沢山咲いていました。

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  ウスユキソウ、これは少なかったです。ウスユキソウにもいろいろ種類があるのですが、これは接頭語が何もつかない普通のウスユキソウだと思います。

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  蓮池ではその名のとおり、ハスが満開でした。

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  やはり蓮池で咲いていたコウホネ。

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  木戸池で自炊していると小鳥が遊びに来ました。ハクセキレイだと思うのですが、鳥は自信ありません。


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 お盆の間はなにかと気忙しいことがあって遅くなりましたが、14日に発表された安倍首相の戦後70年談話についてです。

 村山談話の三倍に及ぶ長い長い談話でしたが、じっくり、隅々までつぶさに読ませていただきました。そのうえで読後感を一言で表現すれば、「安倍さん、相当悔しかっただろうな…」といったところです。

 この談話をめぐり、当然のことですが賛否の意見が交錯しています。「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」などのいわゆるキーワードは入ったが、村山談話や過去の内閣の立場を引用してのことであり、安倍首相自身としての主体的な言及ではなかった・・との批判は、たしかにその通りでしょう。しかし、なにはともあれ、日本が過去に行った明らかな侵略や植民地支配を居直って肯定し、70年間にわたる戦後世界の共通了解をちゃぶ台返ししてしまうような愚に至らなかったことは、よかったと思います。もし、そんな談話を出していたら、日本は世界の異端として孤立してしまうことにもなりかねませんでした。

 安倍さんは、村山談話にはしばられないと公言し、村山談話の内容をそのまま引き継ぐのであれば談話を出す意味がないとも言っていました。彼の独特な歴史観からすれば、村山談話は世界に媚びた贖罪の表明であって、これにより傷つけられたかつての日本の誇りを回復するための世界へのスピーチをこそ発信しなければならないと考えていたはずです。しかし、それは戦争法案反対世論の高揚や内閣支持率の急速な低下で困難になります。そんな状況で戦後史を否定する談話など火に油を注ぐようなもので、戦争法案の廃案はもちろん、内閣の命運すら尽きさせてしまう恐れがありました。

 その結果がこの冗長な談話でした。こうなった以上、村山談話の立場は引き継がざるをえない。が、かといってそのまま引き継ぐのであれば、それこそ「談話を出す意味がない」し、今更なにも言わないわけにも行かないので、引き継ぐふりをしつつ、自分の屈折した歴史認識も少しは紛れ込ませたい。というわけで、村山談話の三倍の文章を費やしながら、その割に主張が曖昧で限りなく空疎な談話に仕上がったということだと思います。

 こんな間の抜けた談話なら、安倍さんが以前からおっしゃっていたとおり出す必要はありませんでした。一番良いのは、村山談話よりさらに突っ込んで慰安婦問題の解決など未解決の問題に踏み込むことでしたが、安倍さんにそれは到底無理ですから、その次にいいのは何も言わないことでした。しかし、今更それもできないので語ったのがこの内容です。ま、こんな空疎な内容であるためか、中国や韓国は厳しい批判は手控えています。その点は、繰り返しになりますが、ホント、やれやれです。ともあれ、この談話はそう時間をおかず世界から忘却されてしまうでしょう。それで良いと思います。

 ただ、そんな安倍談話の中で、特にザラっとした感触の違和感を抱いたのは、日露戦争の評価です。談話は日露戦争について「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」としていますが、そんなこと、シレっと言ってしまっていいのでしょうか。

 そうした見方が一部にあることは事実です。しかし、日露戦争は古い帝国主義国ロシアと新しく勃興した帝国主義国日本が、朝鮮半島の支配や満州の権益をめぐって争った領土分割戦争でした。世界に向かって発する談話で、その受け手として当然想定すべき韓国や北朝鮮への配慮がかけらも感じられないのがたいへん気になります。現に日本はこの戦争以後朝鮮への干渉を強化、数年後にはついにその独立を奪い、日本に併合するに至るのです。まさに朝鮮半島を「植民地支配のもとにおいた」きっかけが日露戦争だったのですから、そうした歴史に頬かむりして露骨に自分を褒めるなど、慎み深い日本の伝統的な礼法に反するのではないでしょうか。

 ただ、当時の世界の情勢を考えるなら、日本に他にどんな選択肢が可能であったかも考慮する必要はあるでしょう。うかうかしていると、日本自体が欧米列強の植民地にされかねない状況は確かにあったのですから、日清日露の対外戦争がその後の帝国主義的膨張の扉を開いた側面と、列強に伍して独立を確保しようともがかざるを得なかった側面とを、歴史の事実に即し正確に公平に評価すべきだと思います。そうした複雑な要素を孕むだけに、こうした談話で安易に取り上げることは避けるべきでした。

 さて、この安倍談話の評価をめぐり、早くも世論調査が実施され、肯定的な評価が否定的な評価を上回ったと伝えられています。内閣の支持率も回復傾向とか。まずは安倍さんが「倒れてもタダでは起きない」と狙った通りの結果と言えるでしょう。しかし、先に書いたように、世界の異端でしかない自らの主義主張をむき出しにすれば自滅しかない状況で、とりあえず生き延びるために妥協する道を選択したというのは、安倍さんが狂人ではなかったということを証明したに過ぎません。我らが宰相が「狂人でなかった」というだけで世論がホッとして「評価する」国って、相当大変な状況にあるんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。




 実に久しぶりに病気の話題。今日は京都の診療所でセカンドオピニオンの受診をしました。メインの地元の病院は3カ月に1回、この京都の診療所では半年に1回、病気の進行状況をチェックしてもらっています。

 いやあ、しかし、病気の話に入る前に一言。 「京都って、めっちゃ暑いっすねえ!」 緯度は私が住む和歌山の方が南ですが、夏の日の最高気温はだいたい京都の方が3~4度高く、さらに蒸し暑さも加わって非常に厳しい。このジト~っとした蒸し暑い空気が肌にまとわりつく感じは、これまでに3度行ったインドのデリーと同じです。

 和歌山も暑いことは暑いのですが、海に近いため海風山風が常に吹き、空気が頻繁に入れ替わるせいか、ジト~っとした感じはありません。これがさらに紀伊半島を南下して潮岬あたりまでいくと、さらに気温も下がりますし爽やかさも増して、ずいぶん過ごしやすくなります。そういえば、日本の最高気温の記録は熊谷や多治見や山形や、いずれも内陸部で記録されています。緯度だけで単純に寒暖は決まらないのですね。

 そんな京都、烏丸の高倉通りを炎天下、陰から次の陰へ飛び渡るようにして診療所を訪ねました(んな忍者みたいな歩き方より日傘さすべきだよね)。診療所にはこの病気=特発性間質性肺炎の臨床研究で大きな実績をお持ちの、自分よりやや年上の女医さんがおられ、レントゲンやCT、特殊肺機能検査、6分間歩行しての血中酸素濃度測定など、毎回一連の検査を行ったうえで、そのデータをもとに助言してくださいます。

 自分の場合、明らかに病気とわかるのはやはり肺機能の低下で、肺活量が同年齢同体格での平均値の6割程度しかありません。また、その残った肺の機能、簡単に言えばO2⇔CO2のガス交換能力も低下していて、普通にしているぶんには生活で困ることはないのですが、重い荷物を持つとか、階段を登るとか、そんな心肺に負荷のかかることを少しでもすると、すぐに血中酸素濃度がど~んと低下し息が苦しくなってしまうのです。

 治る病気ではありませんので、今までに失った肺の機能回復は望めません。ただ、進行を止めることができれば延命につながりますから、定期的な診察は、病勢が前回の診察時から進んだかどうかのチェックが中心です。もし、急速に進み始めていたら、その兆候をつかんだ段階で、これを止める可能性がある薬の処方を検討することになるわけです。

 しかし、現在、自分の病気に処方可能な薬には重篤な副作用があります。まあ、数えてみれば随分たくさん副作用がある薬なのですけれど、その中でも最も気になるのが光過敏症。日光を浴びると皮膚がんになるリスクが高くなるという、非常に難儀な副作用です。この副作用を避けるためには、夏でも全身を覆う服を着用してサングラスをして日焼け止めをたっぷり塗って、さらに、日中はできるだけ外を出歩かな…といった対応が求められます。

 ・・が、んなことになったら、山も森も行けたモノではありません。まあ、自分はたしかに病人ではありますけれど、今の時間を闘病のために生きているわけではない。人生はそれを楽しむためにこそあるのです。今の私の暮らしから山や森を取ったら、あとはまあ、「抜け殻」とまでは言いませんが、相当程度スカスカの空虚な人生になってしまう。そんな「余生」はゴメンですから、実は薬を勧められても断る覚悟でいるのです。

 というわけで、毎回、その薬を勧められるほど病勢が進行しているかどうかが非常に気になるのですが、先生の診断、今回も検査の結果から診る限りでは前回からほとんど進行はしておらず、これまで通りの暮らし方でよいとのご託宣を得ました。はあ~、やれやれです。

 ということで、別れ際、先生がにこやかに送り出してくださった時の言葉、「これからも、しんどい事をしたり、登山したりしないで、普通に暮らしてくださいね」。もちろん、「は~い」と元気よく返事して(^_^;)、雲ひとつなく熱せられ、相変わらずうだるような京都高倉通りをしっかり日に焼けながら歩いて帰ったのでした。さあ、この週末は山に行くぞお!



 たまたまちょっとした偶然が重なって、先日このブログで取り上げた映画『野火』を観る機会を得た。

 塚本晋也監督が主演もして田村一等兵を演じ、リリー・フランキーら芸達者が脇を固めている。ストーリーは大岡昇平の原作をほぼ忠実にたどるが、原作にあったレイテの情景の微細な描写や、田村が現地人の女性を殺害する教会にたどり着くまでの微妙な心の動きなどは、再現するのが困難だったように思われる。しかしこれが、この作品に限らず、人間に潜む無限の想像力を刺激し活用できる文学に比べた映像芸術の限界かも知れない。

 その一方で映画は、飛散する血しぶきと砕けて地上に吐き捨てられる人間の肉塊とそれらが発する腐臭、そして極限的な飢餓の行き着く先を執拗に映像化することによって、この国がかつて行った戦争の戦慄すべき愚かさと残虐さを、原作を読んだ者が漠然と想像しえた域を遥かに超えるリアルさで観る者に提示する。その映像はまさに圧倒的な狂気が支配する地獄の饗宴を描き切って余すところがない。

 さらに、その狂気の世界は、尺(フィルムの長さ)の関係からか、映画ではごく断片的にしか取り上げられなかった日本兵たちの出自に踏み込むことで、さらに非情の度を増すように思われた。

 田村一等兵としばしば行動を共にする中年の安田と22歳の永松の二人組。リリー・フランキー演じる安田には学生時代に過ちから生まれて兄に引き取られた息子がおり、その息子は安田を強く拒否しているのだが、航空兵となった息子が今にも助けに来てくれることを夢想している。幼く気弱な永松は妾の子で父の愛情に飢えており、その感情が永松を道具のようにこき使う安田から離れられなくしている。

 要するにこの2人は特殊な人間ではない。もちろん「本を読んだり文を書いたりする」のが好きなだけの「インテリ」田村もそうだ。さらに他の日本兵も、田村に殺されるフィリピンの女も、飢えて戦闘力もない敗残兵に容赦ない機銃掃射を浴びせる米兵もみんなそうだ。平時であれば、人間関係のいろんなしがらみに繋がれながら、それなりの人生を流され生きてゆく平凡な存在に過ぎない。

 それが、殺人鬼と化しまた飢餓と病気で虫けらのように惨(むご)たらしく命を落としてゆく。田村は安田らに合流して永松が銃で狩り持ち帰る「猿」の肉で命を繋ぐが、それすらもなくなったとき、安田は田村を殺そうとして永松に射たれ、永松は半死半生の安田に飛び掛かって青竜刀で素早くその手首と足首を切断する。それは、「猿」の身体から食料にならない部分を切り捨てる行為だった。そして、実は田村もそうなることを予見していた。

 「怖しいのは、すべてこれ等の細目を、私が予期していたことであった」「もし人間がその飢えの果てに、互いに食い合うのが必然であるならば、この世は神の怒りの跡にすぎない」と田村はいいようのない怒りを感じ、「そしてもし、この時、私が吐き怒ることが出来るとすれば、私はもう人間ではない。天使である。私は神の怒りを代行しなければならない」。 そして田村は永松が安田を「処理」するあいだ放置していた銃を奪い、永松に銃口を向け・・るところで田村の記憶は途切れている。果たして田村は天使になりえたのか・・・

 自分はもちろん戦場というものを知らない。だが、戦争のリアルというものがあるとすれば、『野火』は原作も映画もともに、かつてこの国が行った愚劣な戦争を最も忠実に再現した物語なのであろうとは思う。それは『永遠のゼロ』などが美化してやまない同胞愛や家族愛(百田尚樹の脳みそはなんという「お花畑」なのだろう)などとはおよそ無縁の極限的な地獄の営みであり、それは今もイラクやシリアで繰り返されている。

 これに対する人間としてのまともな嫌悪感、拒否感をこそ大切にしたい。何を言い繕おうが、戦争とは安全な場所から命令する安倍晋三のような無能最悪の権力者のもとで、弱い立場の人々が人間であることを捨てて飢え、血みどろになり殺し合うことなのだ。たかがホルムズ海峡が通れなくなったくらいで、こんな目にあわされてたまるものか!

 これに関連してだが、7月31日、武藤貴也というこれまた礒崎陽輔首相補佐官と同じ安倍親衛隊の若い代議士が次のようなツイートを流した。

 「SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。」

 「戦争に行きたくない」というのは、「極端な利己的考えに基づく利己的個人主義」なのだそうだ。「じゃあ、真っ先にお前が行けよ」と言いたくなるが、それはさておき、たったひとつしかない命を奪い奪われるという極限の状況を想定して、それに「行きたくない」というのは未来ある若者たちにとりあまりにも当然な生命反応ではないか。それを利己主義の一言で切って捨てられる想像力ゼロの感性、その余りの軽薄さにはまことに恐れ入る。こういう人命や人権を屁とも思わない武藤氏のような人物が、立派に受験競争を勝ち抜き京大大学院を出て権力の座にまで至り、「憲法違反だっていいじゃん」という自分中心、極端な軽薄さに基づく反知性主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろう・・とまではまあ思わないが、ともあれこんな連中を政権に就かせてしまったことは「非常に残念だ」。

 戦争を阻止するため、武藤代議士が体現するような軽薄さとは徹底して闘わねばならない。鎮魂の月、8月。今年は尊い犠牲への哀悼を表するにとどまらず、犠牲を生んだ戦争のリアルを身に染みて感じることこそが大切なのではないかと思う。『野火』は小説も映画も、その有力な便(よすが)の一つとなるだろう。            



 作家の高橋源一郎さんが朝日新聞で月一回連載している論壇時評で30日、大岡昇平が書いた『野火』が取り上げられていた。自分は大岡の『レイテ戦記』こそ日本の戦争文学の最高峰ではないかと思っているが、『野火』も同じくフィリピンのレイテ島における自らの体験をもとに描いた傑作だ。

 『レイテ戦記』が当時の日米の力関係や作戦意図なども網羅し、いわば戦場を俯瞰するような視点も交えて重層的に描かれているのに対し、『野火』はもっぱら「愚劣な作戦の犠牲となって」飢えながらレイテ島の山野を彷徨する一兵士、おそらく大岡昇平自身に相違ない田村一等兵の地を這うような視点からのみ、限界状況下であらわになる人間の本質、エゴイズムと獣性とそして聖性といったものを、あえて言えば冷酷なほど透き通った筆致で徹底的に描き尽くしている。

 高橋さんが30日の論壇時評に与えたタイトルは…「狂気」とみなされる怖さ…だった。『野火』は戦後、精神を病む者として病院に収容された田村が、治療の一環としてその記憶から書きおこした手記という体裁を取っている。高橋さんは、その手記で田村一等兵が「まるでカメラと化したかのように、風景や起こった出来事を、異様なほど精密に記録し続けていること」について、それは「狂気が覆い尽くす戦場にあって、正気であり続けるために」余儀なくとった選択であるとしたうえ、「戦場にあって正気でありつづけること自体が、また狂気であることを作者は知っていた」と結んでいる。

 論壇時評で高橋さんはこれに続けて、この『野火』を映画化した塚本晋也さん、3.11以後の反原発デモを映画化した小熊英二さん、東京都現代美術館の催しで「文部科学省に物申す」と題する布に書いた檄文の作品を出品した会田誠さんのエピソードを紹介し、それがこの国の支配的な「社会常識」から逸脱するとして異端視、この時評のタイトルに従えば「狂気とみなされ」、時に排除されようとした事実を紹介している。

 類似の事例はこのところ、公民館だよりから憲法9条擁護デモの情景を詠んだ俳句だけが排除されたこと(さいたま市)、地方公共団体がこれまで毎年してきた憲法集会の後援を拒否したこと(神戸市)、自ら招致した上野千鶴子東大教授の講演会を中止したこと(山梨市)など続発している。こうした事態に至った経過や理由は様々だが、共通するのは社会の支配的な空気に合わないものは避けるということだろう。

 周知の通り、日本国憲法第21条は「.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」として、言論表現の自由を無条件に認めている(より厳密には他の基本的人権と衝突する場合を除くが)。空気に合おうが外れようが、何を言ったっていいというのは、民主主義を成立させる最大の柱のひとつだ。それが、細分化された権力の一部を担う国家機関や地方公共団体やさらにはその出先機関である公民館や公立学校などにより、時の政権の意向を忖度するようにして容易に犯されてゆく点に、この国の民主主義の脆弱さが現れている。

 付言すれば、こうした公権力による言論の自由への恥知らずな侵犯が、「市民の皆様から様々なご意見」を理由に行使されていることも見逃せない。例えば前述の上野千鶴子さんの公演中止は、市民からのメールやブログでの批判などを理由に挙げていた。要するに、現政権の意にそぐわない人間の言論を封じるには、役所に抗議の電話をかければ済むのである。それで足りなければ、メールでもブログでも動員して苦情を投げつければいい。さて、「市民の皆様からの様々なご意見」という擬制民主主義で本物の民主主義を否定するという倒錯が平然と通るほど、この国の行政マンの人権意識は低劣なのだろうか。

 現代にはびこるこの空気はすでに一種の狂気である。狂者たちはもちろん、自分たちの狂気を客観的に認識する能力を持たず、その狂気に同調しない者をこそ狂者として排除しようとする。そして狂気は蔓延し進行すればするほど偏狭になり、それに比例してなおその狂気に染まらぬものを排除する圧力も強まってゆく。最近のネトウヨと呼ばれるものどもの跳梁やヘイトの横行はその現れであり、先日このブログで取り上げた磯崎首相補佐官らの思い上がりもその症状の一つといっていいだろう。それらは、『レイテ戦記』や『野火』で大岡昇平が描いた日本帝国陸軍の病弊とほとんど同じだ。

 しかし、希望はあるのだろう。国会を連日多人数のデモ隊が取り巻き、心ある憲法学者や研究者らが、そして若者たちや女性たちが、全国津々浦々で狂気を糾弾する「正気」の声を上げている。戦争法案の行方は分からないが、それがこうした草の根の民主主義を覚醒させたことは記憶しておきたい。日本の民主主義は間違いなくいま戦後最大の危機に瀕しているが、与えられた借り物の民主主義から闘いとり築き上げる本物の民主主義へ、脱皮する可能性をも胚胎しつつ展開しているのが、目下の政治情勢の特徴ではないかと思うのだ。    



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