作家の高橋源一郎さんが朝日新聞で月一回連載している論壇時評で30日、大岡昇平が書いた『野火』が取り上げられていた。自分は大岡の『レイテ戦記』こそ日本の戦争文学の最高峰ではないかと思っているが、『野火』も同じくフィリピンのレイテ島における自らの体験をもとに描いた傑作だ。

 『レイテ戦記』が当時の日米の力関係や作戦意図なども網羅し、いわば戦場を俯瞰するような視点も交えて重層的に描かれているのに対し、『野火』はもっぱら「愚劣な作戦の犠牲となって」飢えながらレイテ島の山野を彷徨する一兵士、おそらく大岡昇平自身に相違ない田村一等兵の地を這うような視点からのみ、限界状況下であらわになる人間の本質、エゴイズムと獣性とそして聖性といったものを、あえて言えば冷酷なほど透き通った筆致で徹底的に描き尽くしている。

 高橋さんが30日の論壇時評に与えたタイトルは…「狂気」とみなされる怖さ…だった。『野火』は戦後、精神を病む者として病院に収容された田村が、治療の一環としてその記憶から書きおこした手記という体裁を取っている。高橋さんは、その手記で田村一等兵が「まるでカメラと化したかのように、風景や起こった出来事を、異様なほど精密に記録し続けていること」について、それは「狂気が覆い尽くす戦場にあって、正気であり続けるために」余儀なくとった選択であるとしたうえ、「戦場にあって正気でありつづけること自体が、また狂気であることを作者は知っていた」と結んでいる。

 論壇時評で高橋さんはこれに続けて、この『野火』を映画化した塚本晋也さん、3.11以後の反原発デモを映画化した小熊英二さん、東京都現代美術館の催しで「文部科学省に物申す」と題する布に書いた檄文の作品を出品した会田誠さんのエピソードを紹介し、それがこの国の支配的な「社会常識」から逸脱するとして異端視、この時評のタイトルに従えば「狂気とみなされ」、時に排除されようとした事実を紹介している。

 類似の事例はこのところ、公民館だよりから憲法9条擁護デモの情景を詠んだ俳句だけが排除されたこと(さいたま市)、地方公共団体がこれまで毎年してきた憲法集会の後援を拒否したこと(神戸市)、自ら招致した上野千鶴子東大教授の講演会を中止したこと(山梨市)など続発している。こうした事態に至った経過や理由は様々だが、共通するのは社会の支配的な空気に合わないものは避けるということだろう。

 周知の通り、日本国憲法第21条は「.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」として、言論表現の自由を無条件に認めている(より厳密には他の基本的人権と衝突する場合を除くが)。空気に合おうが外れようが、何を言ったっていいというのは、民主主義を成立させる最大の柱のひとつだ。それが、細分化された権力の一部を担う国家機関や地方公共団体やさらにはその出先機関である公民館や公立学校などにより、時の政権の意向を忖度するようにして容易に犯されてゆく点に、この国の民主主義の脆弱さが現れている。

 付言すれば、こうした公権力による言論の自由への恥知らずな侵犯が、「市民の皆様から様々なご意見」を理由に行使されていることも見逃せない。例えば前述の上野千鶴子さんの公演中止は、市民からのメールやブログでの批判などを理由に挙げていた。要するに、現政権の意にそぐわない人間の言論を封じるには、役所に抗議の電話をかければ済むのである。それで足りなければ、メールでもブログでも動員して苦情を投げつければいい。さて、「市民の皆様からの様々なご意見」という擬制民主主義で本物の民主主義を否定するという倒錯が平然と通るほど、この国の行政マンの人権意識は低劣なのだろうか。

 現代にはびこるこの空気はすでに一種の狂気である。狂者たちはもちろん、自分たちの狂気を客観的に認識する能力を持たず、その狂気に同調しない者をこそ狂者として排除しようとする。そして狂気は蔓延し進行すればするほど偏狭になり、それに比例してなおその狂気に染まらぬものを排除する圧力も強まってゆく。最近のネトウヨと呼ばれるものどもの跳梁やヘイトの横行はその現れであり、先日このブログで取り上げた磯崎首相補佐官らの思い上がりもその症状の一つといっていいだろう。それらは、『レイテ戦記』や『野火』で大岡昇平が描いた日本帝国陸軍の病弊とほとんど同じだ。

 しかし、希望はあるのだろう。国会を連日多人数のデモ隊が取り巻き、心ある憲法学者や研究者らが、そして若者たちや女性たちが、全国津々浦々で狂気を糾弾する「正気」の声を上げている。戦争法案の行方は分からないが、それがこうした草の根の民主主義を覚醒させたことは記憶しておきたい。日本の民主主義は間違いなくいま戦後最大の危機に瀕しているが、与えられた借り物の民主主義から闘いとり築き上げる本物の民主主義へ、脱皮する可能性をも胚胎しつつ展開しているのが、目下の政治情勢の特徴ではないかと思うのだ。    



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