上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 たまたまちょっとした偶然が重なって、先日このブログで取り上げた映画『野火』を観る機会を得た。

 塚本晋也監督が主演もして田村一等兵を演じ、リリー・フランキーら芸達者が脇を固めている。ストーリーは大岡昇平の原作をほぼ忠実にたどるが、原作にあったレイテの情景の微細な描写や、田村が現地人の女性を殺害する教会にたどり着くまでの微妙な心の動きなどは、再現するのが困難だったように思われる。しかしこれが、この作品に限らず、人間に潜む無限の想像力を刺激し活用できる文学に比べた映像芸術の限界かも知れない。

 その一方で映画は、飛散する血しぶきと砕けて地上に吐き捨てられる人間の肉塊とそれらが発する腐臭、そして極限的な飢餓の行き着く先を執拗に映像化することによって、この国がかつて行った戦争の戦慄すべき愚かさと残虐さを、原作を読んだ者が漠然と想像しえた域を遥かに超えるリアルさで観る者に提示する。その映像はまさに圧倒的な狂気が支配する地獄の饗宴を描き切って余すところがない。

 さらに、その狂気の世界は、尺(フィルムの長さ)の関係からか、映画ではごく断片的にしか取り上げられなかった日本兵たちの出自に踏み込むことで、さらに非情の度を増すように思われた。

 田村一等兵としばしば行動を共にする中年の安田と22歳の永松の二人組。リリー・フランキー演じる安田には学生時代に過ちから生まれて兄に引き取られた息子がおり、その息子は安田を強く拒否しているのだが、航空兵となった息子が今にも助けに来てくれることを夢想している。幼く気弱な永松は妾の子で父の愛情に飢えており、その感情が永松を道具のようにこき使う安田から離れられなくしている。

 要するにこの2人は特殊な人間ではない。もちろん「本を読んだり文を書いたりする」のが好きなだけの「インテリ」田村もそうだ。さらに他の日本兵も、田村に殺されるフィリピンの女も、飢えて戦闘力もない敗残兵に容赦ない機銃掃射を浴びせる米兵もみんなそうだ。平時であれば、人間関係のいろんなしがらみに繋がれながら、それなりの人生を流され生きてゆく平凡な存在に過ぎない。

 それが、殺人鬼と化しまた飢餓と病気で虫けらのように惨(むご)たらしく命を落としてゆく。田村は安田らに合流して永松が銃で狩り持ち帰る「猿」の肉で命を繋ぐが、それすらもなくなったとき、安田は田村を殺そうとして永松に射たれ、永松は半死半生の安田に飛び掛かって青竜刀で素早くその手首と足首を切断する。それは、「猿」の身体から食料にならない部分を切り捨てる行為だった。そして、実は田村もそうなることを予見していた。

 「怖しいのは、すべてこれ等の細目を、私が予期していたことであった」「もし人間がその飢えの果てに、互いに食い合うのが必然であるならば、この世は神の怒りの跡にすぎない」と田村はいいようのない怒りを感じ、「そしてもし、この時、私が吐き怒ることが出来るとすれば、私はもう人間ではない。天使である。私は神の怒りを代行しなければならない」。 そして田村は永松が安田を「処理」するあいだ放置していた銃を奪い、永松に銃口を向け・・るところで田村の記憶は途切れている。果たして田村は天使になりえたのか・・・

 自分はもちろん戦場というものを知らない。だが、戦争のリアルというものがあるとすれば、『野火』は原作も映画もともに、かつてこの国が行った愚劣な戦争を最も忠実に再現した物語なのであろうとは思う。それは『永遠のゼロ』などが美化してやまない同胞愛や家族愛(百田尚樹の脳みそはなんという「お花畑」なのだろう)などとはおよそ無縁の極限的な地獄の営みであり、それは今もイラクやシリアで繰り返されている。

 これに対する人間としてのまともな嫌悪感、拒否感をこそ大切にしたい。何を言い繕おうが、戦争とは安全な場所から命令する安倍晋三のような無能最悪の権力者のもとで、弱い立場の人々が人間であることを捨てて飢え、血みどろになり殺し合うことなのだ。たかがホルムズ海峡が通れなくなったくらいで、こんな目にあわされてたまるものか!

 これに関連してだが、7月31日、武藤貴也というこれまた礒崎陽輔首相補佐官と同じ安倍親衛隊の若い代議士が次のようなツイートを流した。

 「SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。」

 「戦争に行きたくない」というのは、「極端な利己的考えに基づく利己的個人主義」なのだそうだ。「じゃあ、真っ先にお前が行けよ」と言いたくなるが、それはさておき、たったひとつしかない命を奪い奪われるという極限の状況を想定して、それに「行きたくない」というのは未来ある若者たちにとりあまりにも当然な生命反応ではないか。それを利己主義の一言で切って捨てられる想像力ゼロの感性、その余りの軽薄さにはまことに恐れ入る。こういう人命や人権を屁とも思わない武藤氏のような人物が、立派に受験競争を勝ち抜き京大大学院を出て権力の座にまで至り、「憲法違反だっていいじゃん」という自分中心、極端な軽薄さに基づく反知性主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろう・・とまではまあ思わないが、ともあれこんな連中を政権に就かせてしまったことは「非常に残念だ」。

 戦争を阻止するため、武藤代議士が体現するような軽薄さとは徹底して闘わねばならない。鎮魂の月、8月。今年は尊い犠牲への哀悼を表するにとどまらず、犠牲を生んだ戦争のリアルを身に染みて感じることこそが大切なのではないかと思う。『野火』は小説も映画も、その有力な便(よすが)の一つとなるだろう。            



関連記事
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://yamatomori.blog.fc2.com/tb.php/147-57b7369c
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。