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 今朝12月26日の『朝日』は1面トップで、慰安婦問題の妥結をめざし28日に日韓外相会談が開かれることを報じた。両国の閣僚同士が会うからには手ぶらでは帰れない。これまでの事務折衝で双方、妥結の見通しが立ったからこその会談だろう。同紙によれば日本側は政府予算で医療・福祉支援を実施することで最終調整、2007年に解散した「女性のためのアジア平和国民基金」(=アジア女性基金)に代わる新たな基金を設ける方向で検討している。一方、安倍首相が元慰安婦に伝える言葉などをめぐり、立場の違いが残されているという。

 アジア女性基金を引き継ぐ基金の再開は大賛成だ。存命の慰安婦はもう48人にまで減った。政府資金をどのような形で入れるか、民間の拠金をどのように求めるか、技術的な課題はあるが、彼女らの名誉を公式に回復し、傷ついた心を慰撫することにもはや逡巡は許されない。この問題で最大の焦点は、生身の人間が不幸な歴史によって負った傷を癒すことだ。これ以上、国や運動団体のメンツや筋論で時間を浪費することは許されない。

 翻って、安倍首相が慰安婦に伝える言葉での「立場の違い」とはどういうことなのだろう。『朝日』が伝えるところでは、日本側が「責任」という言葉で引っかかっているらしい。事実とすれば、「何をいまさら」というのが率直な印象だ。いかにも歴史修正主義者らしい狭量ぶりに改めて嘆息するが、これは河野談話を引き継ぐことに難色を示したのと同じ構図で幼稚な歴史感覚に既視感がある。

 正確に言えば、河野談話は「責任」という言葉こそ使用しなかったが、文面に実質的にそれを織り込み、内閣総理大臣が慰安婦に送った親書には「責任」の言葉を二度にわたり使用した。これは、談話が日本政府を代表しての公式の声明であるため、慰安婦問題は1965年の日韓請求権協定で解決済みという日本側の公式の立場を譲るわけにはいかない一方、慰安婦への私信である首相の手紙にはそうした制約はないためと、私は理解している。


 なお、さらに詳しくいえば、親書の方も責任は「未来への責任」「道義的責任」という文脈で使用されており、「法的責任」と誤読されることは慎重に避けている。しかし思うのだ。果たして「法的責任」と「道義的責任」のどちらが言葉として重いのかと。法的責任とは無法を行ったということであり、償いは必然だが償いに謝罪の気持ちは必要ない。些細な速度超過で覆面パトカーに反則切符を切られた時のことを想像してみればいい。あれが法的責任と償いだ。他人は知らず、「人間ができていない」自分であれば理不尽さに腹が立つばかりで心から詫びる殊勝な気持ちが起きるなど毛頭思えない。一方「道義的責任」は、違法か否かに関係なく、心から自分の非を認めることだ。その自分の犯した罪の大きさを自覚して首を垂れ、許しを請うというのが道義的責任を償うということなのだ。

 自分は、コンチクショーと思いながらも長いものには巻かれるしかないと反則金を納めるより、適切な例を思いつかないのだけれど心から反省して頭を下げるほうが人の行為として気高いと思う。河野談話とセットとして出された橋本龍太郎内閣総理大臣名の親書はそうした思いのこもる名文だったと、以前、このブログで書いた。といっても、探して読むのは面倒なので、以下、河野談話と首相の親書を引用しておこう。


慰安婦関係調査結果発表に関する
河野内閣官房長官談話
平成5年8月4日

 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。


元慰安婦の方々に対する
橋本龍太郎内閣総理大臣の手紙

拝啓

 このたび、政府と国民が協力して進めている「女性のためのアジア平和国民基金」を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。

 いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。

 我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。

 末筆ながら、皆様方のこれからの人生が安らかなものとなりますよう、心からお祈りしております。

敬具

日本国内閣総理大臣 橋本龍太郎



 いかがだろうか。私は人間としての心からの謝罪といたわりの真情のこもった美しい日本語の手紙だと思う。道義的責任とはこういうことなのだ。河野談話が発表された時の内閣総理大臣は村山富市だったが、最初にこの手紙の送り手となったのは橋本龍太郎。そしてその後、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎に至る歴代総理大臣はこの文面を引き継いで署名してきた。なのに今、この手紙にある「責任」という言葉に、それが「法的責任」を意味しないことを知りながらなお難癖をつけるとすれば、それはそれをいう人物の人間性の貧しさを雄弁に物語っていると評するほかはない。だが、それはそんな為政者をいただくこの国そして国民総体としての恥辱ではないか。慰安婦問題の最終的解決のために、狭量な歴史修正主義者のたわ言が速やかに排除されることを、切に望みたい。




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