実はいま、東京新宿付近のある病院に入院しています。入院したのは7月5日でしたから今日でちょうど10日、主治医によれば退院まで、まだこれから一週間ほどかかるとのことです。

 自分が特発性間質性肺炎(のうちのNSIP=非特異性間質性肺炎)に罹患していることはこのブログのプロフィールにも記していますし、それを発見した経緯や胸腔鏡下肺生検の経過についてはこのブログに書いてもきました。完治が望めない難病で、タイプにもよりますが予後は一般に不良。目覚ましい成果を上げている現代医学をもってしても、肺の線維化を遅らせる薬や免疫抑制剤などの助けを借りてできるだけ延命を図るのが精一杯という、一生付き合い続けるほかない厄介な相手です。

 この病気に罹患していることが判明したのは3年前の8月1日。以来、2年余にわたって特に治療は行わず経過を観察してきましたが、肺の炎症を示す幾つかの血液マーカーはいずれも徐々に高くなり、その一方で肺活量などの肺機能は測定するたびに低下し続けてきました。中学時代から6年間ある程度本格的に金管楽器を吹いていて腹式呼吸に慣れ、長距離走の成績も上位であったことから、自分の心肺機能にはいささか自負するところがあったのですが、この病気に罹患していることが分かった時点での肺活量は、自分と同じ年齢、同じ体格の標準値のすでに7割しかありませんでした。

 ただそれまで、肺機能が落ちていることについての自覚が全くなかったわけではありません。自分の生涯をかけての生き甲斐は登山であり、最も熱中していた時期はすべての休暇という休暇を山に費やし、ヒマラヤやカラコルムまで足を伸ばして年間140日を山で過ごしたほど半ば狂気に近い打ち込みぶりでした。30代半ばで新聞記者稼業を営みながらのこの無茶苦茶。こんな社員をクビにしなかった会社は偉かったのかボンクラだったのか、今更ながらありがたいことではありました。ま、バブル全盛の人手不足、加えてモノを書ける労働者などほとんど皆無の地方都市ならではの蜃気楼だったかもしれません。

 ともあれ、手足が短い分、岩登りでの華麗なムーブでは長身のクライマーに遅れをとるものの、重荷を担いで坂道をかけ上がったり、腰まで埋める雪の中に進路を開くラッセルでは無類の強さを自慢にしていたのですが、それが7〜8年前から徐々に思い通りにいかなくなり始めていたのです。とにかく息が無茶苦茶に苦しくって仕方がない。最初はトシのせいともトレーニング不足のせいとも思い、あらためて毎朝のジョギングなども始めたのですが、状況は一向に改善されない。それどころか、やがては見るからにビギナーの高齢登山者にも次々に追い抜かれるに至り、これはさすがにおかしいと受診した結果が、先の病気でした。

 話は戻りますが、経過を観察している2年の間に、肺活量はさらに落ちて昨年10月の時点では標準値の6割にまで低下しました。一方、ちょうどその頃、肺の線維化を遅らせるオフェブという新薬が承認されたため、これを服用して様子を見ることになりました。要するにやっと経過観察ではなく「治療」が始まったわけです。しかし、肺の炎症を示すマーカーに変化はなく、肺機能の低下にもストップはかかりませんでした。そんな中でこの6月、無謀なことをしてしまいました。

 こんな肺の状態で「登山」はもう無理ですが、長年鍛えた足腰は頑強なので肺に負担がかからない「下山」なら大丈夫だろうと、病気が判明して以後も、登りがないか少ない山を歩き続けていました。富士山五合目から精進湖への「下山」や利尻岳始め北海道の山々の踏破記録はこのブログで紹介した通りです。その一環で6月11〜12日、大台ケ原から宮川ダムまで大杉谷を下る山行を計画したのでした。パーティを宮川ダムから登る部隊と大台ケ原から下る部隊の二つに分け、途中一泊する桃ノ木小屋でランデブーして車のキーを交換するいわゆる交差登山、もちろん自分は下山組です。

 このルートは懸崖を際どくへつるようにたどるリスキーなコースで転落死亡事故も度々起きていますが、自分はこれまでに3回トレースしたことがあり、いずれも鼻歌交じりで気楽に歩いた記憶しかありませんでしたので、非常に気楽に考えてました。ところが、これが病人には大違い。大台から桃ノ木小屋まで標高差1200mの基本はもちろん下りなのですが、その中にも登りはそこそこあり、これに肺が耐えられずへとへとに疲れ切り、コースタイムを大幅にオーバーして登山組が待つ桃ノ木小屋に息も絶えだえで倒れるように転がり込む結果になってしまいました。

 さらに翌日、桃ノ木小屋から宮川ダムまでは標高差わずか200m、どうにでもなるだろうと歩きだしてみれば予想に反して厳しいアップダウンの連続です。あとで調べてみれば、800m登って1000m下っての標高差200mというわけで、これも肺が破裂しそうになりながら、仲間に荷物を全て持ってもらい、空荷になってなんとか倒れる寸前で宮川ダムにたどり着いたというところでした。正直、最悪の場合、この途中で終わっちゃう可能性もあったと思います。新聞ダネにならなくてホント良かった。しかし、この厳しい登りが3回のトレースの記憶に一切ないとは・・・ 元気だった当時と今の自分との落差に呆然としたものでした。ともあれ、自分の登山はこれで全て終わりました。

 なんとか生還はしましたが、この登山は肺にかなり大きなダメージを与えました。日常生活での息苦しさが強くなり、咳が切れません。職場の階段を上るのも難渋するに至り、このままでは本格的にヤバい、治すのはどのみち無理にしても、せめてこの咳だけでもなんとか制御しなければ仕事も普通の生活もできない。というわけで、「息苦しさの緩和」をキーワードに、久しぶりにこの病気についてマジに調べ直してみました。そこでヒットしたのが今入院している病院というわけです。その病院はT先生を中心に呼吸器疾患について多くの経験を蓄積しており、「息苦しさの緩和」で一定の成果を上げておられるようでした。現状ではどうしようもありませんから、試しに早速連絡を取ったところ「T先生はもう新患は受けておられない」との説明でしたが、まあこれはダメ元ということで、とりあえずT先生が外来を担当しておられる6月24日に予約を入れて上京したのでした。

 紹介状もないいきなりの外来で、しかもできればT先生にと受付でお願いしたところ、「T先生は新患は受けない」と電話時と同じ説明で「それは約束できない」とのこと、それに加え「待っていただくことになります」とのお返事でした。でも、結果として、待ちはしましたが、病院側のご配慮でT先生にお会いすることができました。診察室に入ると、T先生は自分が持参したデータをご覧になりながら非常に難しい表情です。しばらく問診を行われた上でT先生、難しい表情のまま腕を組んで自分の方に向き直り、「病名からして違っているって言ったら貴方、どうします?」と尋ねられたのでした。

 「え〜!?」だよねぇ。病名を確定するためにあの辛い肺生検も耐えたのに、それが違うってどうよ。何とリアクションしていいかわからない自分に対し、T先生は「オフェブは全然効いてませんね」と断じた上、画像を示してNSIP(非特異性間質性肺炎)ではない可能性についての説明をしてくださいます。しかし、では何という病気なのか。そう尋ねた自分に先生は、手元のメモ用紙を引っ張り出して「慢性過敏性肺炎」と書いてくださいました。これは最初に和歌山市内のCT専門医で「間質性肺炎」と書いたメモを渡された時とそっくり同じシチュエーションで既視感がありました。T先生、そのメモをトントンと指先で叩きながら、「でもね、ま、違うかもしれんけどね」とくすっと笑っておっしゃいました。実際、病名を特定することは非常に難しいそうです。「ま、それはもっと調べたらわかるかもしれませんし、それは別としても、あなたの場合は打つ手があると思います」

 「どうします」って、今のままではオフェブは結局ダメだったし、あとは咳をしながら座して衰弱するのを待つしかない身なのですから、「打つ手がある」なら試してみたいですよね。そう答えると、T先生は対策を行うなら早いほうがいいと翌週の火曜日(6月28日)からの入院を手配されました。しかし、入院中に行う検査で準備できないものがあるとのことで、診察を終えて待っている時に再度診察室に呼ばれ、先生から一週間順延しての入院を指示されました。つまり7月5日です。その日で入院の手続きをして病院を出、折角上京したのだからと新国立近代美術館で開催中のルノワール展に立ち寄って和歌山に帰りました。ルノワール展はとても充実しており満足しましたが、人ごみもあってすっかり疲れました。今の体調では展覧会にすら行けない。そんな印象も受けての帰路でした。

 和歌山に戻った翌日、改めて紹介状を書いてもらうため主治医を訪ねました。紹介状は今更だったのですが、この間に蓄積した検査データがどうしても欲しかったこと、それに5日はちょうどこの主治医の診察日に当たっているため、それを延期してもらう相談もあってこのとでしたが、事情を説明したところ、「では、こちらでの診療は終わりになります」とあっさり破門(?)されてしまいました。ま、この病院では他にすることはありませんので、これはこれでいいでしょう。円満に協議離婚といったところだと思います。また、まだ使えそうな山の道具はすべて、「紀峰山の会」の中で比較的先鋭な山行を志向する同人グループである「紀峰塾」のメンバーたちで分けてもらうよう手配もしました。これで私の登山は「卒業」です。

 かくして7月5日、夜行バスで前夜に和歌山を発ち、この病院にやってきました。入院の手続きを終えると間もなく主治医となる若いS先生が自己紹介にやってこられ、T先生にもバックアップしていただきながら治療して行く旨、説明がなされました。また日中、幾つかの検査を終えた上で夜、再び訪問されたS先生はミーティングルームで、これまでに得られたデータも参照しながら私の病気そのものについてや今後の方針について、詳しく説明してくださいました。

 6日、7日は追加しての検査、そして8日が最初の山場である気管支鏡検査でした。いわば胃カメラの肺臓版で、鉛筆大の太さの管を気管支から肺組織に差し込む検査、目的は肺細胞を少量採取して診断をつけること、そして生理食塩水で肺の一部を洗浄したうえ細胞成分を回収して治療の方向性を決めること。ただ、自分の場合はすでに2年前の肺生検で細胞の採取を行いその結果NSIPと診断はついているので(それが正しいかどうかは別として)、今回は二つ目の目的がメインとのことです。これにより、どんな薬剤が有効かが推定できるとのことでした。

 小さな異物でも激しい咳で排出しようとする気管支にチューブを入れようというのですから、非常に苦しい検査が想定されましたが、案ずるより産むが易しというか、それほどの苦痛はなく終えることができました。特に気管支鏡から麻酔液を吹き出す際(計8回)、必ず咳き込むのは仕方がないのですが耐えられる程度です。あとで話をしたT先生は、「それがうちのウリですから」と微笑んでおられました。「と言って、特別なことをしているわけではないんですよ、とにかく丁寧に慎重にやっているというだけのことです」

 その8日夕からステロイドパルスが始まりました。ステロイドパルス療法は、ソル・メドロールというステロイド薬剤を連続6回にわたり集中投与するもので、腎臓病の治療で多用されるほか、間質性肺炎では一般に急性増悪とよぶ非常事態への対策として救命治療に用いられていますが、一般的な治療で使用されることはあまりないように思います。しかし、慢性過敏性肺炎が疑われる私の場合は、効果がある可能性があるということで選択されました。静注自体は1時間程度で終わります。これを8日夕から始めて、9日朝夕、10日朝夕、11日朝まで繰り返しました。

 まあ、プラシボ効果ということもあるのかもしれません。静注が終わった後は、なんとなく息がしやすい気がするのですね。それで最初の静注が終わった8日の夜、たまたま病棟にやってこられたT先生に調子を尋ねられたので、「気のせいか、空気を爽やかに感じます」と話しところ、先生にっこり笑って、「そうですか、それは気のせいでしょう」と言われました。はあ、やっぱね。

 こうしてステロイドパルスをワンクール終了、効果を見極めて第二弾に行くかどうか判断するわけですが、プラシーボ効果を除けば自分で呼吸が楽になった感覚はあまりありません。しかし悩んでいた咳はほぼ収まりましたので、これだけでも大助かりです。肺活量も治療前に比べわずかながら改善しました。ただこれは、数値自体誤差の範囲といった程度ですし、咳が少なくなった効果が反映されているだけかもしれず、評価が難しいところです。一方、聴診の結果は改善されているとのこと。全体としては要するに、呼吸機能の急速な低下をかろうじて食い止めることができたかどうかって段階ではないかと思います。

 ということで12日、所定のインターバルを置いてステロイドパルスの第2ラウンドを実施することが決まりました。13日、14日はそのインターバルによる待機。そして今朝、15日朝から第2ラウンドが始まりました。

 以上がこれまでの経過です。あまりに個人的な内容で書くかどうか迷ったのですが、後で振り返る際に役立つこともあろうと考えて、ここに記録しておくことにしました。その後の経過、入院生活に伴うその他のことなど、また機会があれば書いてゆきたいと思います。



 
  
 

 
  
 
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