前回の投稿から二週間も経ってしまった。同じテーマで連載するのだから、一週間に2本くらいのペースで書こうと思っていたのだが、またぞろ入院する羽目になって何かと気ぜわしく、すっかり間延びしてしまった。

 今回の入院は薬を切り替えるためのもの。1月に襲われた気胸は間質性肺炎治療のため服用しているステロイドのせいで治りにくかったが、ステロイドは気胸の原因になることもあるらしい。続発性気胸はただでさえ再発率が高いところ、ステロイドのリスクまで加わるとさらにヤバいので、ステロイドは止めるか減らすに越したことはない。しかし、急に減らせば急性増悪といってこれまた生死に関わる事態を招来しかねないし、ステロイドに代えて投与する免疫抑制剤ネオーラルも個人差が大きい強い副作用がある薬なので、安全のため医師が常時管理できる状況で切り替える必要があるという。それが今回の入院の目的だ。というわけで、3月2日から再び入院生活を送っている。

 不治の病に目をつけられた病人であることに変わりはないが、だといって特に体に不調があるでなし、検査や採血もするでなし、気胸で担ぎ込まれた時に比べれば気楽だがなかなか文章を書こうという気にはなれないものだ。そこで読書と水彩で時間を潰す。読書は映画化されて話題になっている『沈黙』など遠藤周作の作品やドストエフスキーの作品でまだ読んでいないもの。水彩は病室で描く制約もありF4と小サイズだが3枚を仕上げた。でもってこの勢いで県の地球温暖化関係の定期情報誌に連載している小さなコラムを締め切りに追われて書いて、ようやくこのブログを書く元気が出てきた。

 さて、前置きが長くなったが前回からの続きである。前回紹介した山本七平の『空気の研究』は山本独特の冗長な公害反対運動へのイヤミや本筋からはどうでもいい宗教改革の弁明などが長々とあって、本題だけならたぶん三分の一くらいの分量で書けるだろう内容だが、その場の「空気」が作られるメカニズムや空気に「水を差」してこれを打ち壊す「水」の作用、そしてその水がまた新たな空気を作ってゆくメカニズムなどの説明には独創性がある。

 そこでまた森友学園の話題だが、ご承知のとおり同学園が経営していた幼稚園では園児たちが毎日教育勅語を奉読しており、これを見た安倍首相夫人はじめ右翼文化人の面々が一様に講演や談話等でこもごも強く感動した旨を述べておられる。理解力もなく抵抗する術もないいたいけな子どもたちにこんなものを暗記させ唱和させるというのは虐待にほかならず、もとよりこうした偏向が公教育で認められるはずもないがそれはさておき、どうしてこの連中は教育勅語というとかくも一様に感動するのか。

 これも空気の支配というものなのだろう。教育勅語はまさに戦前の日本を象徴するシンボルであり、その戦前の日本を「美しい国」と思い「取り返し」たいと願う少々アタマのいかれた御仁には日の丸同様神聖にして侵すべからざるものである一方、リベラルや左翼にとっては戦前のシンボルゆえ不倶戴天の敵と蛇蝎のごとく嫌われている。

この「蛇蝎のごとくに嫌われる」というところが結構重要であって、右翼ご一統にはこの嫌悪感こそ戦後教育の悪しき遺産なのだという跳躍論理も手伝い、より一層ありがたみが増すという関係にある。つまり、教育勅語は一種の踏み絵であり、この国の主流派であることの証明はこの踏み絵を有り難くおし戴くことでなされるという「空気」があるのだ、そして「蛇蝎のごとくに嫌う」のはいわば「水」であり、この水の存在ゆえに空気はより一層強固にそれを戴くものたちを強迫的に支配する構造にあるのだろう。教育勅語への愛着はお仲間であることを確認する符丁のようなものなのだ。

 さて、彼らを結ぶ紐帯は基本的には国家神道というものであるはずである。国家神道とは記紀神話という創世物語を根拠に神の子孫である万世一系の天皇がこの国とそこに住む人々を統べるという非科学的な虚構だが、まあ宗教というのは国家神道に限らずすべからく基本的には非科学的虚構であるのだからして今は問わない。というか、問うても無駄である。それより問題は教育勅語だ。これは冒頭に「朕惟フニ」と語りかけ末尾に御名御璽があるからっといってもちろん明治天皇御製ではない。成立に至る細かい経過は省くが、最終的に世に出た勅語の文案を書いたのは井上毅内閣法制局長官と明治天皇側近の儒学者元田永孚(ながざね)の二人であったことが分かっている。

 井上は日本の教育制度その他に大きな足跡を残した官僚政治家だが、その思想的ルーツは儒学分けても朱子学であった。つまり、教育勅語は二人の儒学者によって書かれたのであり、その内容もまた儒教倫理そのものである。で、儒学といい儒教といい中国から伝来したものであることは言うまでもない。その中国直輸入の儒教倫理を書き記した教育勅語を天にも持ち上げてありがたがるその口で「チャンコロ」だの「シナ人」だのヘイトスピーチが出てくる脳みそというのは一体どんな構造をしているのか。滑稽極まれりというしかない。まさかとは思うが、もしかしてこのご一統、孔子が日本人だなんて思ってないだろうな。

 ついでの話だが、天皇家に仏壇はあるのだろうか。回答から言えば明治4年(1871年)までは宮中の黒戸の間に仏壇があり歴代天皇の位牌が祀られていたのである。法事も仏式で行われおり菩提寺は京都の泉涌寺だった。つまり、明治天皇を含め歴代天皇は仏教の檀家さんだったのであるが、さてそれが国家神道の教祖としての現人神と二足のわらじで両立できるものか。

 政治的無関心甚だしいのんきな国民をなにがなんでも中央集権国家に思想動員する装置として作ったのが国家神道という新興宗教だが、肝心の教祖が異教徒では話にならない。というわけで維新政府は明治6年、千年以上にわたる天皇家の仏教信仰を禁じ、仏壇や位牌は泉涌寺に引き取らせて新興宗教に改宗させたのだ。この新興宗教に軍部が悪乗りしそれからわずか70余年で日本は壊滅、昭和天皇の「人間宣言」をもって国家神道も最終的に破綻した。

 つまり、国家神道なる新興宗教の命脈はたった100年ももたなかったのだ。これが「日本の伝統」などちゃんちゃらおかしい。日本にはアニミズムと地祖霊信仰、仏教、儒教そしてキリスト教その他、多くの在来外来の宗教と文化が出会い形作られてきた長く豊穣な歴史がある。天皇のために死ねというほかは教義も定かでない怪しい明治新興宗教一色でこの国の姿を語るなど言語道断、少しは日本史を勉強してから発言してはどうかと思う。

 もうひとつついでの話、「現人神」というけれど、明治、大正、昭和の「現人神」三代にわたり、自ら「朕は神であるぞ」などと発言した例は一度たりともない。天皇は明治維新政府によって力尽くで改宗させられ、自分じゃそんなことカケラも思っちゃいないのにいつのまにか「神様」に祭り上げられ、その自分では思っても言ってもいないことの責任を取って戦後、「実はワタシ人間ですんねん」と、国民に向かって告白せざるを得なかったのだ。考えてみればまことに気の毒な話なのであって、他人のせいで赤っ恥もいいところだ。天皇陛下をかくも粗略に扱った無礼千万な国家神道こそ不敬の極みではないか。真の右翼ならこれをこそ粉砕の対象とすべきではないのか。手始めに靖国神社の解体あたりから手をつけるのが妥当かと思う。

 ん~、森友学園の話に少しでも触れると、それ自体の異常さトンデモさもさりながら、これに群がる右翼愛国者の皆さんの世にも情けない知性にひとこと言いたくて、つい横道にそれてしまうのだなあ。さらに書き進んでもいいが、あまり長くなると読んでもらえないし、安倍晋三記念小学校のせいでまことに困ったことである。とはいえ、ちょうど明治維新の話題も出たので、次はこのあたりを接ぎ穂にして西郷隆盛のことなど書いてみよう。




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