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 さて、ようやく明治維新の話だ。そのまえに断っておくが、自分はもちろん歴史の専門家ではないし、明治維新そのものも現代において「POST TRUTH」と呼ばれる現象がどうして起きたのかを考える素材として取り上げるに過ぎないので、叙述の飛躍や寄り道はご容喙いただきたい。

 明治維新はもちろん江戸幕藩体制が崩壊し薩長雄藩中心の官僚政権が成立するに至る事件のことだ。で、この「維新」という言葉だが、中国最古(周の時代に編纂、紀元前のこと)の詩篇とされる『詩経』から、水戸藩の藤田東吾が天保元年(1830年)に引用したというのが定説。詩経の『大雅・文王篇』に「周雖旧邦 其命維新」とあるのが初出で、「周は古い国だけれども、天の意思はこれ新たなり」といった意味だろう。命を「天の意思」と勝手に訳してみたが、運命や使命といった用例に共通する用法で、自分は漢文も素人だがまあ間違いはなかろうと思う。要するに「天の意思に従い現状を大きく変革する」といった意味と考えれば良い。

 この明治維新の評価だが、これが一筋縄ではいかない。戦前、この歴史学上の評価を巡って論争を繰り広げたのが、雑誌『労農』に結集するいわゆる労農派と岩波の研究論集『日本資本主義発達史講座』に論考を寄せた講座派だった。論争のテーマは明治維新のみならず日本資本主義の現段階をめぐる経済学、社会学、歴史学、哲学、文化学の全分野に渡って展開されたが、彼らがこの学術論争で提出した議論はいま読んでも歯ごたえ十分で、あの戦前の厳しい思想抑圧の時代に、よくぞこれだけ専門的で高度な社会批評が旺盛に展開されたものと感嘆する。間違いなく日本が誇るべき大きな歴史遺産だろう。

 ともあれ、この論争で労農派はごく簡単に言えば、明治維新を不徹底ながら「ブルジョア民主主義革命」と規定した。念のためここで「ブルジョア民主主義革命」とは、最も典型的にはフランス革命にみるごとく、国王やそれを取り巻く地主貴族ら封建領主階級の専制支配を、勃興しつつある商工業者つまりブルジョアジーが打倒して権力を握る革命のことだ。この革命の結果できあがる社会は当然のことながらブルジョアジーの利益、つまり金儲けが自由にできる資本主義社会ということになる。明治維新の結果として出来した社会はまぎれもない資本主義社会であったから、労農派はこれを理由に明治維新をブルジョア民主主義革命と規定したわけだ。

 一方、講座派は論者により表現の仕方は違うが要するに「クーデター」の一種と考え、革命であるとの労農派の評価を否定した。ブルジョアジーが主体者となって行う革命が「民主主義」なる政治制度を表現する言葉を伴うのは、ブルジョアジーの最大要求たる資本主義の発達は必然的にその障害となる身分制度の廃止を求め、また政治的意思決定は一人の君主ではなく多数市民が平等な資格で参加する合議によるほかなくなることから、革命が創出する社会は必然的に民主的なものとなるからだ。しかし明治維新の結果、日本は確かに紛れもない資本主義社会にはなったが、天皇という君主が唯一の主権者として意思決定権を有していることから、到底これを民主主義社会と呼ぶことはできない。従って、明治維新をブルジョア民主主義革命と定義することはできないと講座派は主張、もちろん資本主義成立への動機となったことは否定しないが、その本質は徳川将軍から天皇とそれを取り巻く薩長官僚層へ権力が移動しただけのクーデターだったというのだ。

 そんなことどっちでもいいじゃん、とまあ、いまこれを読めば思うようなものだが、当時、当代きっての知性が束になり両派が口角泡を飛ばしつつ激しく論争を展開したにはそれだけの切実な理由があった。それは自分たちが生きているその社会をいかに変革するかという問題だ。労農派の論理によれば民主主義革命はすでに明治維新で達成されているのだから、次に社会変革の課題となるのは社会主義革命ということになる。一方、明治維新を革命と認めない講座派はまず民主主義革命から始めてその諸課題を達成し、そのうえに社会主義革命への進路も開かれると説いた。

 さて、では両派が展望する社会変革の道筋について最大の違いはどこにあるか。回答から言えば最大の焦点は天皇をどうするかだった。講座派の社会歴史認識から言えば当時の日本は半封建制的な遺制が多く残存する遅れた資本主義国であって、陸海軍という最強の暴力装置を伴い半封建制の主柱となっている天皇制を廃止することを含め、まず全般的な民主主義を実現することが最優先ということになるが、労農派が主張する社会主義革命のプログラムからは最も困難な天皇制軍国主義と闘う課題がすっぽり抜け落ちている。現在の目から見れば社会認識としてどちらが正しかったかは明らかだが、当時もそのことはやがて、当の天皇制ファシズムが論争し合う両派をまとめて厳しく弾圧し木っ端微塵に粉砕したことによって証明された。

 さて、こんな昔話を何故ここで紹介したのかというと、この明治維新の基本的な歴史的内実を知らなければ、これから話題にする西郷隆盛の心情が理解できないと思うからだ。西南戦争と呼ばれる明治10年戦争を戦うに至った西郷隆盛の心中に、自らがその主役として参画し血路を切り拓いてきた明治維新が、その結果としてもたらした現実への鬱屈たる思いがあったことは疑いない。西郷にとり明治維新は「裏切られた革命」であり、明治10年戦争は、大久保利通や伊藤博文ら洋行帰りの資本主義テクノクラートにより換骨奪胎された明治維新を本来の軌道に戻すための第二革命の武装蜂起であった。では、西郷がこの第二革命で実現しようとした社会はどのようなものであったのか、次はそれを推論してみようと思う。

 ということでこの辺で閑話休題、やはり奥津国道さんのテキストからの習作で「ソスペルの橋」。なお、ソスペルはフランスの地中海側にある町です。

170309 ソスペルの橋 (2)サイズ




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