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 森友学園問題はますます泥沼化、絶対多数におごり高ぶる安倍王朝とそれに連なって甘い汁を吸おうとする右翼政官民の有象無象を巻き込む一大スキャンダルの全貌が姿を現そうとしている。国民の圧倒的多数が真相解明を支持していることを追い風に、これまで萎縮していたメディアの多くも、あのNHKすら含め「みんなで渡れば怖くない」と、権力批判に遠慮がなくなってきた。だが、ことここに至っても政府はキーマンの参考人招致すら拒否し続けている。安倍内閣の支持率はなお高い。ここは少々世論を敵にしようが多数を頼みに乗り切れると踏んでいるのだろう。数で圧倒的に劣る野党側には、この多数を切り崩す仕掛けが必要ではないかと思う。

 さて、明治維新の続き。明治維新は武力を背景に開国を迫る欧米帝国主義列強の圧力に対する現実的選択として、紆余曲折はあったものの最終的には資本主義という当時最新のグローバルスタンダードを受け入れることで決着した事件だった。明治維新は典型的なブルジョア民主主義革命ではなかったものの、その最大の課題である封建制度から資本主義への移行については、少なくともそのきっかけとはなったわけだ。こうした本質から言えば、受け入れる側の政権が江戸幕府であろうが薩長同盟であろうが大した問題ではない。

 ただ、封建制から資本主義への移行には二つの前提条件がある。ひとつは一定規模の貨幣資本の集積であり、もうひとつは資本主義的生産関係のなかに組み込まれて生産力の主体を担う自由な労働者が多数存在することだ。周知のように、資本主義の祖国であるイギリスでは封建制下での家内手工業(マニュファクチャー)や重商主義政策に保護された外国貿易により蓄財した商工業者が、より大きな利潤を期待できる投資先として毛織物工業に目を付け、牧羊地を確保するため広大な農地を確保するとともに、それまでそこで働いていた農奴を締め出す囲い込み(ディスクロージャー)により、土地から切り離された農奴たちが難民となって都市に流入、労働力の他には売るものを持たないプロレタリアートとして毛織物工場の労働者に再編されることによって、資本主義的大工場が成立したのだった。経済学ではこれを資本の「本源的蓄積」とか「原始的蓄積」と呼んでいる。

 明治維新期の日本には、すでに三井、三菱、住友などの商業資本が一定の貨幣資本を蓄積していたが、急速な資本主義化には明らかに不足したため、富岡製糸場や八幡製鉄所など国家資金を投じて官営工場を建設し、後にこれを払い下げる手法を取ることで民間資本の不足を補ったことはよく知られている。しかしさらなる問題は、これらの大工場で働く大量の労働者をどう確保するかだった。これについてはいろいろ議論があるのだが、概ね間違いないところから言えば、明治維新版ディスクロージャーは身分制の廃止と廃藩置県と地租改正によってなされた。

 勃興する日本資本主義の屋台骨を支える労働者として期待されるのは、その数からいって農民以外にはない。だが、その農民は幕藩封建制度の呪縛により一生土地に縛り付けられて身動きができない。そこで明治政府は(原始的蓄積を意図していたか否かは別として)農民から労働者への階層移動の障害となる身分制を廃止、廃藩置県で藩主のものであった農地を国家に取り上げたうえで売買を解禁し、さらに地租改正による重税で農家の家計を破綻させ、食えなくなった次男三男や娘たちが工場労働者となるほか身を立てるすべがなくなる道筋を開いたのだった。

 以上により、資本主義にテイクオフする経済的な客観条件は整った。だが実はもう一つ必要なものがある。それは労働者のハートの問題だ。江戸時代までの農民は一般的に、その一生の殆ど全てをごく狭い地縁共同体に属して過していた。彼らのアイデンティティは自らがその中で生まれ、育ち、そして命を終えてゆくその地縁共同体に大きく依存していた。彼らの生活を統率するルールやモラルはそうした地縁共同体の存続やその成員の関係を律する基準として成立し、機能し、産土(うぶすな)でもある「村の鎮守の神様」ほか数多の神々によって根拠づけられ、また逆にそうした土着の神々への素朴な信仰の共有がこの地縁共同体に他の共同体と区別される集団としての一体感を醸成してきたのだった。

 ひとりふるさとの土地を離れ、都市の労働者となることは、家族親族という血縁共同体だけでなく、それを含む地縁共同体から切り離されることを意味する。一方、資本主義的労働者とは本来、独立した個人として資本との間に労働力の売買契約を交わす主体である。だが、地縁共同体が張り巡らせる重層的な物心両面のネットワークに安住していた農民にとり、「独立した主体」など想像の埒外だったに違いない。命をつなぐため工場で働く以外の選択肢はなかったが、といってその意識が出身の地縁共同体のレベルに留まっている限り、いずれアイデンティティの分裂は避けられない。労働で拘束されている時間だけ上半身は都市労働者であっても、下半身が田舎の田んぼに足を取られた百姓のままというような状態をいつまでも続けられはしない。テイクオフしたばかりの資本主義を安定した成長軌道に乗せるには、どうしても地縁共同体とは異なる国民の新たなアイデンティティの拠り所が必要だった。そこで明治政府が国民に与えたのが国家神道という新興宗教だったのだ。


 ん~、ようやく本題に近づいてきた感じですが、なんか回りくどい感、否定できないですねえ。これでもかなり要約はしているつもりなんだけど。まあ、特にストーリーも決めず思いついたことを書いているのだから仕方ないですね。
 で、閑話休題。カマイユ画法といって1色(今回は褐色)の濃淡だけで描いた習作です。モチーフはやはり奥津さんのテキスト、用紙はコットマンF4です。


170315 カマイユ画法習作 (2)サイズ



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