森友学園問題は、籠池オジサンが23日に国会に証人として呼ばれることになり、新たな展開を迎えそうだ。自公両党はこれまで頑なに籠池氏その他の参考人招致を拒んできたのだったが、安倍晋三から同学園に対し100万円の寄付があったことを同氏が暴露したことで一転、参考人どころか偽証罪も問える証人での喚問を提案するに至った。まあ、それはいいのだが、その理由「安倍首相が侮辱されたから」ってどうよって話だ。

 寄付という行為が侮辱という理屈はないだろう。出身の選挙区と関係ない団体への寄付など公選法にも違反しない、むしろ身銭を切って私学振興に貢献しようっていうのだから見上げた話ではないか(その滋賀区の教育内容は大問題だが)。では寄付したと暴露したことが侮辱なのか。それが事実であれば侮辱には当たらないし、事実でなければ否定すればいいだけのことで侮辱などという人格権に関わる問題ではない。要するに、思い通りに行かないことがよほど腹に据え兼ねたということなのだろう。加えて、だから国会に呼ぶという発想はいったいなんだ。安倍晋三の気に入らない発言をしたら、国会に呼んでとっちめてやるって言ってるに等しい。安倍はそんなに偉いのか。専制君主のつもりなのか。

 そんな前近代的な発想と教育勅語の親和性が高いのもむべなるかなではある。そうした専制君主にひたすら拝跪する陣笠どもが国会の圧倒的多数を占めている現状、一般社会でも安倍晋三が後ろ盾だと示せば公有地が格安で手に入る官民の忖度、それが森友学園問題の本質であり、日本の最も病んだ部分ではないのか。だれかが「安倍晋三は裸だ」と叫んで社会の目を覚まさせなければならない。

 で、この病める現在社会の空気のよって来たるところを自分なりに考えてみようというのがこの「POST TRUTHの時代」シリーズなのであるからして、寄り道はほどほどにして本題に入ろう。

 さて、現代社会学の始祖マックス・ヴェーバーの代表的な著作に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がある。社会学や政治学を学ぶなら真っ先に読む古典で、ヴェーバーはこの著作の中でなぜプロテスタント(それも主としてカルヴァン派)の思考法がなぜ資本主義の発展に寄与したかを論じている。書かれたのは20世紀初頭だからすでに資本主義は発展の途上にあって後づけの理屈に過ぎないし、また当時圧倒的な影響力を持っていたマルクス主義唯物史観へのアンチテーゼを提出するという意図もあって、ちょっと無理してるなあって部分もあったりするのだが、資本主義の精神の根本は合理性であるという指摘は端的にして見事である。

 同書におけるヴェーバーの論証をごくごくかいつまむとこんな感じだ。カルヴァン派のキリスト教解釈からくる禁欲と天職への没入、つまりカルヴァンにおいては神に救済される人はあらかじめ定められており、人為ではこの決定を変更することはできない。であればこそ人々は地上に神の恩寵が支配する世界を築くこと、そのために神から自らに与えられた天職に打ち込みそして成功することこそが神の意志に叶っていることの証であると考え、神による救済を確信するため生活を合理化して質素に暮らし、仕事で得た収入は享楽に費やすのではなく(合理的禁欲という)ひたすら天職に再投資したのだった。中世的な宗教規範では吝嗇や金儲けは基本的に反倫理的な行いとされてきた。だがプロテスタンティズムは金儲けを神の意志を地上に実現する行為としてむしろ賞賛したのだ。

 と、ここでヴェーバーが目の敵にするマルクスに行っちゃうのだが、マルクスは「資本とは自己増殖する価値である」と「資本」の本質についてこれまた端的にして見事な定義を行っている。プロテスタンティズムの倫理とはわかりやすく言えば徹底した合理主義に基づく拡大再生産であり、それは資本の本質そのものであったということだ。つまり、プロテスタンティズムの倫理はそのまま資本主義の精神であり、それゆえプロテスタントが資本主義発展の担い手になったということだ。プロテスタントの国である英国は産業革命から資本主義の世界を開いたが、大航海時代に覇を競い合ったカソリックのスペインやポルトガルはこと資本主義的発展の競争に関する限り、遅れを取った。

 念の為に付言しておくが、自分は資本主義の成立が宗教の影響などとは考えていないし、それはヴェーバーも同じだ。資本主義は生産力の発展を機動力としてある意味、自然発生的な過程で封建制を止揚し成立した生産関係であり、それを担った個々の初期資本家たちの信仰と直接の因果関係はない。ここではただ、プロテスタンティズムが体現する合理主義が資本主義の発展に有効に機能したことを確認しておけば十分である。

 では、もう一歩突っ込んで、この合理主義とは何であろうか。マックス・ヴェーバーにはもうひとつ『経済と社会』という重要な著作がある。『プロテスタンティズム・・』より15年ほど経って著されたもので、ひとことでいえば近代国家の本質は何かということを論じていて、私見だがこちらの方がはるかに読みどころは多い。で、超インスタント紹介になるが、ヴェーバーによれば近代国家とは合法的な支配関係であり、専門的官僚制と合理的法律を備えた「合理的国家」ということになる。資本主義はこうした合理的国家以外では成立しない。もう少しくだいて言うと、合理的国家=資本主義国家が成立するためには、法律という社会成員が合意する「一般ルール」が、村の掟や宗教の戒律や昔ながらのしきたりや慣習といった「習俗のルール」より上位になければならない。

 たとえば、ある村の地主から水田を買った他の村の農民が、田植えをしようとその村に出向いてみたら異教徒は入れないと村長が決めたので耕作を諦めたというようなことでは資本主義にならない。ん~、適切な例だったかどうかちょっと自信がないところもあるのだけれど、トランプは企業家といいながら資本主義の最も基本的な一般ルールすらもわかってないってことだ。資本主義は商品市場ならびに労働市場への自由なアクセスについて、不当な差別を禁ずるのが資本主義発展にとり最も合理的な一般ルールとして承認されている。だからまあ、建前だけでも資本主義=自由、平等、民主主義であるわけなのだ。
 
 さて、明治維新により資本主義国家を目指すこととなった日本にとり、この「習俗のルール」にまさる「一般ルール」を定めることが切実に急がれたことは言うまでもない。そのためにこそ、戊辰戦争の硝煙の匂いがまだ残る騒然たる情勢にも関わらず、大久保利通や伊藤博文ら新政府の中枢を担う幹部が大挙して明治4年11月から実に1年10ヶ月もの期間を費し、欧米の一般ルールをつぶさに視察したのだった。ついでながら、この留守中の政府首班を務めたのは西郷隆盛だった。

 ここでもう一度マックス・ヴェーバーに戻ることを許されたいが、先の『経済と社会』の超ダイジェスト紹介で、ヴェーバーが「近代国家とは合法的な支配関係である」と述べていると書いた。この「合法的な」というのは「正当性がある」と言い換えてもいい。つまりある国家による排他的な支配を成立させるためには、それに国民が合意できるだけの正当性がなければならないというのである。

 ヴェーバーによればその正当性の根拠は次の三つだ。第一は伝統の権威である。昔からそうだった、あるいは現在の国家を樹立するに至る経過から継続しているなどのケース、第二はカリスマの権威で、傑出したカリスマ性を持つ指導者が登場し、多数の国民がこれを熱狂的に支持するケース、そして第三は合法性で、たとえば民主主義国家では合法的な選挙で示された民意を代表する国家は、たとえ政府首班が低脳かつ無能でも一応は正当である。残念ながら。

 明治維新政府にとり、欧米に習い「一般ルール」を定めることとならび、新国家の正当性を何によって主張するかも問題だったが、これは天皇を担いで徳川政権を打倒した経過からヴェーバーがいう「伝統の権威」以外に選択の余地はなかった。だが、政府はそれでよくても、下々の民衆が正当性を認めるかどうかは別問題だ。都市で商工業に従事していた人々の中には世情に詳しいものもいただろうが、農村で狭い村の掟に縛られ生涯土地から離れることもなく閉ざされた狭い世界で暮らしていた農民たちは、支配者として自分の藩の殿様くらいは知っていただろうが、その殿様のうえに君臨する徳川将軍の存在すらほとんど知らず、まして京都に逼塞していた弱小封建領主である天皇など知る由もなかった。まあ、長らく続いた徳川太平の時代、衣食住不自由せず親族近所仲良くやっていければそれで十分充足して国家などどうでもよかったのだから、無理もない話ではある。

 前回、土地に縛り付けられた農民のアイデンティティを工場労働者らしく加工するために編み出されたのが国家神道だと書いたが、本質的には徳川政権を武力で打倒し成立したクーデター政権の正当性を主張するためにも国家神道という虚構が動員されたわけだ。かくも重宝な国家神道ではあったのだが、そこには重大な陥穽が隠れていた。次は、この国家神道に併存する功罪のパラドックスについて考えてみようと思う。


 ということで、今日の一枚。やはり奧津氏テキストからの習作で、京都東山、八坂の街角風景です。コットマンF4。


170318 八坂の街角 (2)サイズ



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