昨日、文科省が「総理のご意向」「官邸の最高レベルが言っている」などと記されたいわゆる加計文書について再調査することを表明した。朝日新聞のスクープ、それに続く前川前文科省事務次官の証言、さらに文科省内からの匿名の告発を受けてすら、カエルのツラにションベンそのままに菅官房長官はシラを切ってきたのだが、ここにきてついに与論の怒りに抗しきれなくなったということだろう。

 その再調査の手法も期間も明らかでなく、これまでの安倍政権の行状から見て公正な調査が行われるとは到底思えないが、ともあれ舞台は第二幕に移った。これからはこの調査ついての報道が増えるだろうが、しかし問題の焦点はあくまで安倍らによる国家行政の私物化にある。安倍晋三記念小学校をめぐる疑惑も未解明だし、安倍ヨイショ本を書く売文屋がそれゆえにというべきか、準強姦罪で逮捕状が出ていたにも関わらず執行されず放免されたという放置国家にありえない無法の背景も解明されなければならない。

 お隣の韓国では国政を私した大統領を民衆が巨大なデモのうねりで権力の座から引きずり下ろした。サッカーでも市民運動でも韓国の民衆の血は熱いのだ。隣接する大国に対し民族の自立を維持するため突っ張ってきた歴史か、それとも毎日摂取する大量の唐辛子のせいなのか、不公正に対する激しい怒りの背景に何があるのかは知る由もないが、これに比する日本のメディアや民衆の静けさというか大人しさは、まあ行儀が良いとは言えるかもしれないが民主主義の担い手としてはいささか心もとない。なぜ腹の底から怒らないのか。

 このあたりは、「POST TRUTH」でまた書くとして、とりあえずは「紀峰の仲間」に連載中のコラム「植物百話」の最新号を以下に転載。今回のテーマはマツです。




  植物百話

        マツのストレス耐性戦略


 重いザックを背に黙々と登り続けてようやく尾根に出る。ホッと息をつき汗をぬぐいふと気付くと周りは明るい松林。登山者なら誰でも経験したことがある情景です。日頃からなじみ深いマツですが、植林地を除けば山麓の暗い樹林帯にはほとんどなく目にするのはもっぱら明るい尾根に出てからです。また、日本の林業では昔から「尾根マツ谷スギ中ヒノキ」といって、マツは尾根に植えるものとされてきました。どうしてなのでしょう。

 「適地適作」といいますが、植物にはそれぞれ生育の適地があります。で、マツの場合は尾根が適地、か?というと、そう単純な話ではありません。マツは本来、よほどの湿地でなければ中腹でも谷でも良く育つのです。現に東北でよく見かけるアカマツの植林地は結構山裾まで広がっています。しかし自然状態では、他の多くの樹種にも適地である中腹以下は生存競争が厳しいため競争力に乏しいマツは撤退、やむを得ず生育条件の悪さから他の樹種が見向きもしない尾根や岩場などに張り付いて生き延びているのが実情なのです。

 マツが生育する尾根や岩場は、植物に不可欠な水が不足するうえ季節風に晒されて乾燥しやすく、また土壌中の養分が雨水とともに下部に流出して栄養条件も良くないなど、植物の生育に不利な条件が揃っています。しかしそれゆえ競争相手も少ないことから、あえてこうした悪条件の地に根を張ることで厳しい生存競争を生き延びてきたマツのような植物もあり、こうした生き方を専門用語で「ストレス耐性戦略」と呼びます。

 では、マツは前述のような植物生育上の悪条件=ストレスをどのようにして克服しているのでしょうか。実は、多くの菌類の助けを借りているのです。

 太古、植物が陸に進出するには菌類の助けがあったとされ、現在も多くの植物は根に菌類を住まわせて光合成産物を与える一方、菌類が土壌中に広く張り巡らせた菌糸で集めるリンなどの養分や水分の供給を受けています。マツの祖先を含む裸子植物が地上に出現したのは3億6千万年前で、現世界の主役である広葉樹など被子植物が出現する1億4千万年前より遥かに古く、この長い時間にマツは広葉樹などに比べはるかに多くの菌類と共生関係を取り結んできました。というか、マツと菌類は共に進化し分化して今日のように多様な共生ネットワークを築き上げたのです。キノコは菌類の花に相当する器官ですが、松茸や松露(ショウロ)などマツのみに付くキノコの多さからもそれが知れるでしょう。

 マツはこのようないわば「菌友(きんとも)」の多さを武器に他の樹木は生きられない荒地で生き延びてきました。それは山だけでなく海岸も同じです。「白砂青松(はくさせいしょう)」は日本的絶景の代名詞で、これは海岸の砂地や岩礁にクロマツがしぶとく根を張ればこそ成立した景観ですが、人手が入らなければ維持できないことはご存じでしょうか。現在、白砂青松を賞される美しい海岸の松林の大半は人工林なのです。

 人手が入る前、本州以南の暖帯地の海外線はタブノキやスダジイなどを主力とする照葉樹林に覆われていました。そこへ人が進出し、建材や生活具材や燃料としてこれらの木々を伐採利用し尽くした結果、土壌の生産力が枯渇し、不毛となった荒地でも生きられるクロマツが進入、また一方では防風林や防砂林として植樹するにもクロマツ以外の選択肢はなくなってしまったため、現在に至る白砂青松の景観が人工的にも造成されたのです。

 荒地に根付いたマツは「菌友」の助けと光合成で伸び育ち、葉や枝を落としやがて命尽きて土に帰ってゆきます。それが繰り返されると土壌の豊かさが徐々に回復して他の樹種が侵入、やがて競争力のないマツは衰退し消えてゆくのが自然の遷移システムです。

 今は流行らないでしょうが、結婚前の結納という儀式では新婦側からの結納返しの品のひとつに「高砂」というものがありました。熊手を持ったお爺さんと箒を持つお婆さん二体セットの人形で、お爺さんは尉(じょう)お婆さんは姥(うば)といい「おまえ百(掃く)までわしゃ九十九まで(くまで)」と夫婦の円満長寿を祈念する寓意が込められています。が、夫婦仲はこの際どうでもよくていま問題はこの二人が何をしているのか。実は二人は播磨の高砂浜の松林で熊手と箒を使い、燃料にする松葉や枯れ枝をかき集めているのです。

 かつて、油分が多いマツは庶民の家庭の燃料として貴重でした。当時の庶民に白砂青松を愛でる余裕や審美眼があったかわかりませんが、尉や姥のような人々が生活のためクロマツの幹から葉に至るまでをせっせと運び出し続けた結果、松林の土壌の生産力は回復せず他の樹種の進入が防がれて、意図せず白砂青松の景観も維持されてきたわけです。

 逆の例も紹介しましょう。明治維新の主役の一人大久保利通は東京遷都後の京都を訪れた際、平安時代からの景勝地であった嵐山の荒廃に驚き、その理由を尋ねて地元民から「ご一新のせいだ」と言われて恥じ入ります。幕府の京都守護職は嵐山の歴史的景観維持のために山守を雇う金を出していたのに、維新政府はそれを打ち切っていました。反省した大久保が金も出して嵐山の保護に努めた結果、現在の嵐山の景観が形成されたといいます。

 と、嵐山関連サイトではこの話がよく紹介されているのですが、実際にはそう単純な復活美談ではなかったのでは? というのは、大久保が守ろうとした歴史的景観は端正に整美されたアカマツ林だったと思われるからです。京都周辺の山林は平安朝以降長らく都であった京の膨大な木材需要でことごとく皆伐され禿山となっています。保津川を経由する丹波材の大集散地であった嵐山が例外であったはずはありません。そして禿山には荒地の主役アカマツが生え、庶民が枝や松葉を採取し続けることでそれが維持されていたのでしょう。しかし大久保らは嵐山の景観を守るため庶民が山に入ることを固く禁じました。その結果、皮肉なことにアカマツ林は壊滅、これに代わって落葉広葉樹が進出して現在に見るような紅葉の名所になってしまったわけです。ま、「結果オーライ」というべきかもですが。

 マツについても共生する菌類についてもまだ書きたいことが沢山ありますが、紙幅も尽きましたので今回はここまで。今回は、広葉樹ら進化した若く強いライバルたちの出現と猛攻撃に対し、旧世代のマツが菌類との支え合いを頼りに生き延び、絶滅を免れて今ここにある不思議を、少しでも感じてもらえたらと思います。




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