入院といっても、今回は治療らしいことといえば一日一回の肝臓機能回復の為の点滴だけだ。それも今日で終わる。あとは同じく一日一回のバイタルサインのチェックくらい。といえばいかにも暇そうだが、それが案外そうでもない。その時の体調にもよるが、本を読んだり文章を書いたり、絵筆をとったりデッサンをしたり、それからこれはむしろ闘病のマイナスになりそうなストレス源でもあるのだが、目を覆わせしめる貧打で足を引っ張るばかりか、アンビリーバボーなエラーで投手を見殺しにする東北楽天イーグルスの惨めな連日の負け試合中継をスマホで観たりしていると、知らないうちに時間は経っている。

 そんな毎日の中で、備忘録としてでも書いておきたいことができた。今回、ひょんなことから野呂邦暢(くにのぶ)という作家を知り、その作品を小説も随筆もあらかた読んでみたことだ。わざわざここに書いて記憶に留めようと思ったのは、何よりもその研ぎ澄まされたような文章の見事さゆえのこと。その見事な文章を自分の拙い文章能力でうだうだ語るより、実物を読んでもらったほうがよほど気が利いているというものだろう。

 たとえば以下は『日が沈むのを』という野呂35歳の作品のラスト。主人公はバスの車掌を勤める若い女で、仕事を終えて一人暮らしの古アパートに戻り、その最奥に自分の部屋がある二階の廊下に椅子を出して足を投げ出し、寝巻きの襟を開いて湯上りの肌を風に晒しながら西の空を眺めている。もちろん、まだエアコンなどない時代の話だ。

 夕日は山の稜線に触れた。
 わたしは透明な砂金色の夕映えに浸っている。屋根瓦の濃い藍色が夕日を照り返して柔らかな黄金の陰影を帯びる。世界は深くなる。夕日の没する、なんというすみやかさ。わたしは息をのんでただうっとりとみつめる。
 いったん山の端に接するやいなや、夕日はそれ自身の重みに耐えかねたように沈む速度をはやめる。家並に風は絶えて鳥も飛ばず、庭木の繁みはそよとも動かない。
 夕日は沈んだ。
 私が向かい合っている家々と樹木はその色彩を回復した。夕日をみつめつづけたわたしの目はしばらく視力を失って、ぼんやりと青い水の層に似た夕景を眺める。西の空に漂う雲の下縁が仄かに赤い。
 ほどなくめまいは消える。影を喪った屋根が現れる。夕暮れの薄闇がひたひたと庭をみたし始める。肌の火照りが醒め、わたしは身震いする。微風がおこる。


 野呂邦暢は1935年(昭和12年)9月に長崎市で生まれた。長崎に原子爆弾が投下された当時は小学生で、生家は爆心地至近だったが被爆前に母方の実家がある諫早市に疎開していたためこれを免れた。同級生の大半は死亡している。京大を志したが失敗、浪人中に実家が破産したため進学を諦め、上京してガソリンスタンドの店員や喫茶店のボーイ、ラーメン屋の出前持ちなどを転々とし、その後自衛隊に入隊し佐世保で訓練を受けた後北海道千歳に配属され翌年除隊。このときの経験を描いた『草のつるぎ』で第70回芥川賞を受賞している。作家として自立してからも諫早市に住んでその風土に根ざす作品を多く発表、しかし1980年5月、心筋梗塞により自宅で死去。まだ42歳の若さだった。

 野呂が淡々とした筆致で丁寧に描き続けたのは、前に紹介したバス車掌のように名もない庶民の日々だった。どの作品にもいわゆる大物や英雄は出てこない。様々な意味での限界状況が出来したり大事件が生起するわけでもない。ただ市井の普通の人たちの何気ない日々を描いているのだが、ひたすらに丁寧で練り抜かれた日本語が平凡な日々の陰影を鮮やかに浮き彫りにし、柔らかな光をあて、そして静かに輝かせるのだ。自分は日本語の名手としてその筆頭に谷崎潤一郎を推してきたが、野呂はそれに伍すると思う。ただ、描いた世界の差もあってのことだろうが、谷崎の方が湿度が高い気はする。野呂の文体にはやや乾いた清潔さを感じる。

 知り合いのテレビマンから野呂の作品を紹介され、たちまち惚れ込んだのが向田邦子だった。向田は野呂の世界に魅せられ、その全作品の映像化権を望むとともに、その代表作である『諫早菖蒲日記』のドラマ化を図ろうとする。しかし、テレビ局側はその提案に難色を示した。『諫早菖蒲日記』は、長崎に黒船が頻繁に訪れる幕末の不穏な空気を背景に、佐賀鍋島藩の従藩である諫早藩で砲術指南を勤める中級武士家庭の日々を、15歳になる長女の瑞々しい視点で描いた長編だ。諫早の山野わけても河口の描写が素晴らしく、少女をはじめとする人々の屈託や喜びが丁寧に描かれている。ちなみに「諫早菖蒲」は菖蒲の原種に近い諫早に自生する品種で、多くの改良品種のように鮮やかで大きな花は付けないものの強壮で、花は小さくとも切花にしてはるかに長持ちするという。恐らく、主人公の少女のイメージを仮託したものであろう。

 ただストーリー自体は、そう地位が高くもない、そして抜きん出て優れてもいない中堅武士の、さして大きな事件も起きない日々を淡々と描くだけだ。時代劇に付き物の合戦シーンや斬り合いどころか刀を抜くシーンすらない。さらに主人公の少女は利発でお転婆で実に愛らしいが、NHKの朝ドラのように大人になって偉い人になったりはしそうにない。現に、野呂が『諫早菖蒲日記』の続編として書いた『花火』でこの少女は、長じて普通に親の決めた相手と結婚し、普通の平凡な口うるさい母親になっている。といった到底見栄えしそうもない内容なのだから、テレビ局が作品化を渋るのも当然だろう。そこで向田は次善の策として、まず野呂の別の作品『落城記』のドラマ化を提案、野呂が承諾しテレビ局もこれを受けたことから、向田はシナリオライターとしてではなく、自ら望みプロデューサーとなって関わる熱の入れようとなった。1980年2月頃の話である。

 しかし、『わが愛の城』となんとも甘ったるいが一般視聴者向けに『落城記』を改題したドラマの制作準備が徐々に進んでいた同年5月、前述のように野呂は急逝してしまう。向田は野呂の霊前に座し、この仕事を立派に成就させるとともに本命の『諫早菖蒲日記』をいつか必ず映像化することを誓ったという。かくして『わが愛の城』が完成し、放映されたのは翌1981年10月1日のことだ。だがあろうことか、向田はその直前の8月22日、台湾に向かう旅客機の墜落事故で不慮の死を遂げており、この映像を見ることはなかった。かくて『諫早菖蒲日記』にかけた夢も台湾の空に消えたのだ。

 自分はそのドラマの1シーンをいまも鮮明に覚えている。篭城側のリーダーの一人である若武者を演じるショーケンこと萩原健一が、敵襲で騒然とする城内で城主だったかその娘(これが主人公でドラマでは岸本加世子が演じていた)だったかに対し、汗と埃にまみれた合戦姿で「○○でごんす」と野太い声できっぱりと言い切るところだ。その全身から土の臭いを発散するような表情が実にいい、地に足のついた生活とそれに支えられた土着の信念を感じさせる太く低い声も素晴らしい。歌手としての萩原など評価するにも及ばないが、この演技を見て、この人は役者してなら立派にやっていけると思ったものだった。

 このドラマが放映された当時、自分はまだ20代で長女が生まれたばかりだった。仕事は早朝から夜半に及び、共稼ぎ生活の維持に慣れない育児も加わって目も回るほど忙しく、のんびりテレビましてドラマなど見る暇はなかったはずだが、このシーンだけは不思議にくっきり鮮明に覚えているのである。それほどまでにショーケンが演じた下級武士が放つ存在感が強烈だったということだろう。その後、この人が薬物に溺れてその抜群の才能を自ら埋もれさせてしまったのは周知のとおりである。

 さて、『落城記』についてだが、これは豊臣秀吉の命によるキリシタン鎮圧に参軍しなかったためその不興を買い、佐賀の龍造寺家の侵略を受けることとなった伊佐早(いまの諫早)の西郷家最後の日々を、城主の妾腹の娘の視点で描いた物語だ。野呂の他の作品とは違い「落城」という大事件はあるのだが、野呂の筆はその落城までの攻防もさりながら、むしろこの男勝りに活発な少女に起伏する感性の動揺と成長にぴったりと寄り添って進んでゆく。少女には淡い思いを寄せる別腹の文人の素養が薫る繊細な兄があり、また逆にその少女を密かに思う無骨な若い下級武士がいる。

 城を巡る戦いは苛烈だが、それ以前に凡庸な城主、次々に寝返る重臣、戦闘を前に逃げ出す足軽ら、平凡な人々の卑俗な生への欲望が城の運命をすでに決定づけているのだ。リアリストである野呂の目には戦場の英雄も輝かしい武勲もなにほどのものでもない。野呂が書きたいのは血が通った普通の人間の本当の物語にすぎない。そしてそれは、一筋縄ではゆかぬドロドロとした人間とそれを取り巻く諸関係の実相を描きながら、であればこそ瞬き輝く少女の純粋で小さな思いと矜持、若武者の真っ直ぐな思いと、それらゆえ避けられぬ悲劇をより一層、印象的に描き上げることに成功している。ドラマ『わが愛の城』でそれがどれほど再現されていたかは、今となっては知る由もない。ただ、以前からずっと何故かこの脳裏にしっかり刻み込まれて忘れることがなかったショーケンのあの見事な1シーンが、今回の入院を機にたまたま原作を読むこととなって意図せず再現された不思議を思うのみである。年を取るといろいろなことがあるものだ。

  さて、不思議といえばもうひとつ。野呂邦暢が傾倒した詩人に伊東静雄という人がいる。野呂とは同郷で、1906年(明治39年)に諫早で生まれ京大に入学するまでそこで育った。卒業後は大阪府立住吉中学校(戦後の学制改革以後は住吉高校)に奉職、その後阿倍野高校に転勤してそのまま詩人と教師の「二足のわらじ」の生活を生涯続けた。現代詩の代表的詩人として知られ、処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』(1935)は当時まだ存命の萩原朔太郎から「日本にまだ一人、詩人が残っていた」と激賞されたという。時代の先端をゆく現代詩を多く発表したが1953年肺結核により死去、まだ47歳の若さだった。

 自分も日本現代詩の雄とされた伊東静雄は知らない詩人ではない。といっても、自分が生まれた大阪で起居した文学者というだけのことで、住吉高校と同学区の天王寺高校の生徒であった頃から小野十三郎らと並び関心のある詩人ではあった。だがいかんせん難解で、もちろん日本語として読めはするが、正直言ってたぶん一行も理解はできていなかったと思う。さすがに野呂はそんなことはなく、伊藤は光と輝きを読む詩人だという。そして野呂はその詩世界の根底に諫早の風土があるのではないかと思った。伊藤の葦原の描写などに諫早の本明川河口に広がる広大な干潟の面影があるというのである。だが、二十歳の野呂が伊藤という同郷の詩人を北海道の自衛隊営舎で知った1957年、伊藤は既に鬼籍に入っていたのだから直接それを本人から確認するすべはなかった。

 野呂は自衛隊を除隊後諫早に帰郷、やがて父の病気が癒えて仕事に復帰し次いで大阪に転勤となり、兄と二人が諫早に残って他の家族が父に従い大阪に転居した機会に、野呂はこの疑問を確かめようと伊藤が住んだ大阪府堺市を訪い、大阪湾東岸に広がるこの葦原を見るのだ。真夏のこととあって「堺の暑さは九州の炎暑に慣れていたものにも」辛いほどだったが、「そこに溢れる光は肥前の激烈な夏」に通じると野呂は思う。さらに「ごく近くに広がる海、松の緑に覆われた小丘群、よく耕された肥沃な大地、それに夜の濃い闇と昼のまばゆい陽光」に接し、野呂邦暢は「堺三国丘は諫早と重なり合う多くの類似点を持っているように思われる」(『詩人の故郷』)と述懐するのである。

 この訪問は1961年(昭和36年)、野呂邦暢24歳の時のことである。高度成長が疾走を始めた当時、まだ堺の海岸には葦が生い茂っていたらしいことがわかる。広く埋め立てられて関電の巨大な火力発電所や新日鉄住金の製鉄所をはじめ、多くの化学工場や製造工場が立ち並ぶ不夜城のコンビナートとなっている現状からは想像もできない情景だ。そんな、まだ田園と砂浜ののどかさ残る堺三国丘周辺、より正確に言えば伊東静雄が暮らした堺市三国ヶ丘40番地あたりを24歳の野呂は汗を滴らせながら彷徨したに違いない。そしていま、わたしはその野呂が徘徊した三国ヶ丘の病院に入院してこの事績を知り、いまこの一文を書いているのである。病室の目の前の庭に手ぬぐいで汗を拭う24歳の野呂邦暢元自衛官の姿が見えるようだ。だがそれから56年、海はいまの三国ヶ丘から遥かに遠ざかってしまった。もちろん病室から望めるはずもない。

 余談だが、この一文を書きながら片目で見ていた楽天対オリックスの試合がいま、2-1で楽天の勝利に終わった。エースの則本が好投し、キャプテンの嶋がしぶとく決勝打を放ち、切り札の松井がなんとか抑えて、本拠地でなんと一ヶ月ぶりの勝利である。別に企業としての楽天を応援するつもりなど更なく、その風土に強く惹かれる東北に肩入れしているだけだが、さすがにこれだけ負けが続くと腹が立つ。ホント、たかが野球だ。放っておけば良いものを、下手に関わるからストレスが溜まるのだ。と思いつつ、できない子供ほど可愛いということもあって、やはり見ずにはおられないのである。困ったものだが、まあ、人間とはそういう懲りないものらしいから仕方がない。ところで、先ほど触れた『わが愛の城』放映の頃に生まれた長女だが、長じていま和歌山から大阪や神戸での対オリックス戦はいうに及ばず、わざわざ仙台まで飛行機に乗って東北楽天イーグルスの応援に行くほど熱を上げている。まあ、親に輪をかけてというべきか、親が親だからというべきか。




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