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 安倍晋三がモリカケ疑惑の追求から逃れ保身を図るだけが目的の総選挙が終わり、安倍の思惑通り自公が勝って終わった。野党の態勢が整わない中での解散だったが、前回の参院選と同様の野党と市民の共闘を急ぎ構築すれば、安倍の卑劣な目論見を粉砕できる条件はあった。だが小池百合子の野望とこれを持ち上げるメディア、次いでこれに幻惑された前原誠司の愚かな裏切りと、さらに信じられないことだがこの裏切りを満場一致で認めた野党第一党の解党で、その可能性は公示前に事実上葬られてしまった。

 小池の思い上がりと前原の愚かさが誰の目にも明らかになる中で、いわゆるリベラルの受け皿として立憲民主党が形成され、それが一定の地歩を占めたことはせめてもの救いだが、我々の前に広がっているのは基本的に、戦後民主主義が思想としてはほぼ影響力を失って立ち枯れ、それゆえ制度としては完全に擬制となって空洞化し、それどころかむしろ専制や特権が自らを正当化する粉飾の道具として利用されるような、焼け跡にも似た惨憺たる情景である。

 内田樹氏はツイッターで「端的に言って、戦後日本社会は「民主主義教育」に失敗した、ということだと思います。それがどれほど「よきもの」であっても、自力で獲得したものではない政治制度を着床させることがどれほど困難か、改めて感じます。」とツイートしている。まさにそこが核心なのだと思う。

 いまさら述べるまでもないが、西欧の民主主義は古代ギリシア、ペリクレス時代のアテネポリスの奇跡的な直接民主主義に淵源を持ちつつ、その後の専制王権や特権貴族制に対する民衆の長い戦いを経て獲得されてきたものだ。その核心は自分の運命は他者から強制されるのではなく自分自身が選択するという人民一人ひとりの自己決定権にある。利益や意見が対立する多くの人間で構成される社会を円滑に運営するには、社会横断的なルールとそれを強制する装置による支配の秩序が欠かせない。社会の成員は基本的に誰であれこの支配の秩序に服する被支配者なのであるが、そのルールを決める際に社会の全構成員が等しい資格で参加するのが民主主義のシステムである。従って、この個人の自己決定の思想と自覚なしに民主主義は機能しない。

 西欧の民衆たちは決して大げさではなく、血で血を洗うような戦いを繰り返し積み重ねてこの自己決定の権利を獲得してきた。もちろん、かくして出来上がった西欧の民主主義が人間社会の統治システムとして完成したものであるなどというつもりはない。ヒトラーの独裁は当時最も民主的と言われたワイマール憲法が定める手続きによって成立した。今日における西欧先進各国の選挙結果やそれによって打ち立てられた民主権力が民衆の利益に反することなど日常茶飯事だし、古代ギリシアの民主主義は多数決でソクラテスを殺した。

 だがそれでも、ひとりの人間、一部の特権集団に自らの生殺与奪に関わる全権力を委ねるよりは、社会全体の意思を集める方が、極端な誤りを侵す恐れは少ないだろうというのが民主主義を採用する意味である。であればこそ自分も、自分なりの意見を持って社会が求める決定に参加しなければならない。少なくともこの程度のことは、長い民主主義獲得の歴史を通じ形成された大人の常識として、西欧民主主義国の主権者意識に共有されているのではないだろうか。

 だが、日本にはそのような民主主義をめぐる本格的な闘争の歴史はなかった。いや、なかったと決め付けると言い過ぎになるが、少なくとも戦後民主主義は占領軍によって与えられたものであり、自ら血を流して勝ち取ったものではなかった。明治維新以来、民主主義の実現を目指す闘争は確かに存在したし、それに命を捧げる先駆者も少なからずおりはしたが、それがこの国に暮らすすべての人々の自意識に及ぶほどの影響力を持って展開されるまでには至らなかった。

 制度としての民主主義は与えられた。だが、それを成立させる思想としての民主主義、つまり自己決定の明確な自覚は、日本の民衆が自らのうちに育てるしかない。西欧の民衆が長年にわたる血まみれの戦いで打ち立てたその主権者意識を、「民主教育」によって育てようとしたのが日本の戦後民主主義だったといえるだろう。

 民主主義を希求する闘争の歴史がない所にその思想を育てようというこの試みは、戦後25年くらいまでの間、一定程度の成功を収めたと言えるかもしれない。それには学校での民主教育と相まって、ベトナム反戦運動や沖縄返還をめぐる市民運動、公害反対運動、労働組合の賃上げ闘争、全国の大学を吹き荒れた学園紛争など、西欧における民主主義獲得をめぐる闘争を疑似体験させるような機会が多くあったことも寄与しただろう。だが、日の丸君が代の強制など教育の反動化、労働組合の右傾化、そして小選挙区制の採用がこうした国民的な民主主義思想の育成を決定的に妨げる。

 政治意識をめぐる世論調査で共通しているのは、左派リベラルの支持率が最も高いのはまだ健全だった民主教育と世界にプロテストを提出する機会に恵まれ60代以上であり、若年層になるほど自民党や安倍内閣への支持率が高いことだ。これは教育の反動化の進行と見事に呼応している。左派やリベラルを支持するのがエライなどと言うつもりはないのだが、少なくともそれは現状に対する異議の提出であり、そうした意味でそれは政策への評価との同調を意味しており主権者の自己決定意識を反映していると言えるが、いっぽう自民党や安倍内閣への支持は、その政策や行状に同意はできないにも関わらず支持していることが明らかであり、それはつまり現状をあるがまま是認するという立場の表明にほかならない。これは殿様が何をしようが仕方がないという封建時代の農奴の感覚、ないしはなにはともあれ多数派に入れば安心という処世術の感覚に近い。

 今回の選挙で、何人か若い人たちの意見を聞く機会があった。今まで一度も投票に行ったことがないと笑う女性もいたし、わからないからみんなが入れるところに合わせるという青年もいた。でも、強調しておくが、彼も彼女も実に「いい人」なのだ。本当に世の中は「いい人」ばかりだと思う。だが、腐りきった政治に文句を言わない「いい人」たちによって民主主義は空洞化し、やがて「いい人」たちは自らの無自覚が招いた悪政のために、それを自らが招いたとは自覚することなく、大きな犠牲を支払わせられることになるかもしれない。内田樹氏がいうように「自力で獲得したものではない」民主主義を、この日本という土壌に定着させることは、事ほど作用に困難なのだというしかない。日本人というのは、自らが属する社会を自ら設計し運営するには到底力が及ばない発達段階に留まっているということなのだろう。戦後70年を過ぎての、まさに無残な光景である。



 絵は「山の晩鐘」。架空の岩壁でビバークの用意をしている情景です。 ホワイトワトソン F10

170917 山の晩鐘 (2)サイズ





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