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 NHKのBS1スペシャル「欲望の資本主義2018~闇の力が目覚める時~」を観た。BS1スペシャルは、無謀なインパール作戦や731部隊の人体実験に積極的に関わった大学医学部の過去にメスを入れるなど、政府サイドへの忖度報道が目立つNHKにしてはなかなかホネのあるシリーズだ。今回は格差が広がり排外主義が蔓延し混迷する現代資本主義を問うという意欲的な企画だったが、各方面に右顧左眄(うこさべん)というか、様々な論者の意見を羅列するだけの散漫な内容に終わってしまった。

 とはいえ、資本主義の本質を解き明かそうとした経済学者としてマルクス、シュンペーター、ケインズの3人を挙げ、この3者の学説を軸に番組を構成した点は評価して良いだろう。現代主流の経済学はネオリベ=ネオリベラリズム(=新自由主義)だが、グーグルマンやハイエクらその論者の主張は、かいつまんで言えば、規制を緩和し資本が好き放題できるようにすれば市場の機能を通じ最適経済が達成されるということで、要するに200年以上前のアダム・スミスの焼き直しに過ぎない。資本の跳梁跋扈に一切手を出さず勝手にさせろというのなら、それについての学など不要な道理ではないか。つまりネオリベなど経済学の名に値しない。

 ということで番組が紹介した偉大な3人の経済学の話だ。まずマルクスは、資本主義社会を構成する原子である商品の分析から剰余価値を発見、そこから展開して大聖堂の巨大伽藍にも似た壮大で緻密な資本主義批判の理論大系を築きあげた。その仕事を代表する最大の成果が大著『資本論』だ。この書の中でマルクスは、資本主義の原子的構成単位である商品の分析から始めて資本主義社会総体の必然的な崩壊までを、比類なく厳密な論理構成で論証している。マルクスが没してすでに130年余、誤っているとか古いとか言われながらなおマルクスの名が蘇り生命力を失わないのは、要するにその学説が正しいからだ。

 マルクスを否定する論者はソ連の崩壊など社会主義の失敗を挙げるのが常だが、これはリンゴが腐ったからといってニュートンの力学を否定するのにも似たいいがかりの論法だ。理論の誤りは理論で論証されねばならないが、マルクスの剰余価値学説の誤りを論証できた例はなく、剰余価値学説の正しさを認めれば、それは必然的に純粋な資本主義の崩壊まで隙なく一直線に認めざるを得なくなる。だから、シュンペーターやケインズら真面目な学者はマルクスの正しさを認めたうえで、資本主義を一部「修正」することによってその延命を図ろうとしたのだが、最大利潤を損なう修正など受け入れたくない資本家の太鼓持ちであるネオリベの論者たちは不真面目で、前述のように腐ったリンゴでマルクスを否定したことにするか、ないしはマルクスなど初めからいなかったように振舞っている。

 では、その恐るべきマルクスの剰余価値学説とはいかなるものか。資本論は大著だが剰余価値を説く価値論はその冒頭の数十ページに過ぎない。だから読んでもらうのが一番で、ここで説明するのは荷が重いのだが少しだけ触れてみよう。まず資本主義社会とはどんな社会かだが、最大の特徴はすべての物品に値札がついていることだ。資本主義社会では世界の物品はすべて売買可能な「商品」として立ち現れる。持ち主がいない空気や海水ですら缶詰にしたり深層水を汲み上げたりして商品にできる社会なのだ。だからマルクスはこの資本主義社会の原子たる商品にまずに目をつけた。

 ここに100円のハンバーガーと50円のボールペンがあったとする。バーガー1個とボールペン2本の価値は等しいということになるが、なぜこれが等価といえるのか。詳しく論証するのはホネなので端折るが、マルクスはそれは両者に含まれる「労働」の量が等しいから、ということを突き止めた。ただし、この「労働価値説」はマルクスが元祖というわけではない。マルクスに先立ちアダム・スミスやリカードも気づいていたのだが、彼らはこの商品の売買を通じて利潤が生まれる理由を説明することができなかった。スミスらは利潤の源泉は市場にあると考えていた。上手に取引する、つまり価値以上の価格で売れば儲け=利潤が出ると素朴に考えたのだが、市場では一方の得は他方の損であるから、このような構造では社会の富はトータルでは増えないことになる。だが現実には、双方納得づくの正常な売買で利潤は生まれているのだ。この謎を解き明かした点にこそマルクスの天才がある。

 先の100円バーガーを売るバーガーショップで働くA子の時給が900円だったとしよう。資本主義社会では人間の労働も商品となる。A子は忙しく働きながら、自分の「1時間の働きの価値」はバーガー9個分なのだなあ・・と何度も思ったに違いない。だが、それは実は違うのだ。

 A子の時給、つまりA子の「1時間の労働の価値」も他の商品と同様、それを作るのに必要な労働の量で決まる。A子が明日も同じ労働ができるよう維持再生するコストということだが、まずA子の命を維持するための衣食住のコスト、人間はパンのみにて生きるものではないからレジャーやスマホのコストも必要だろう、病気に備えるコストやA子がこの仕事ができるようになるまでの教育のコスト、さらに本来なら(現代の日本では怪しいが)A子の跡継ぎを作るための恋愛や出産や子育てのコスト等々が1時間分に微分割されて含まれるはずである。

 かくして「労働の報酬」が正当に支払われ、生命が健康に維持されてこそ明日もA子は笑顔を輝かせてこの店で働くことができるのだが、実はここにひとつの誤謬がある。いまカウントしてきたのは正確にはA子の「労働力を再生維持するためのコスト」であって、その労働力を行使する労働自体のコストではない。そもそも労働とは行為そのものであるから、愛情のコストが(比喩的には別として)測れないのと同様、労働のコストなど計算のしようがないのだ。つまり、A子は「労働の報酬」という名で実はその労働を担う労働力の維持再生費、言い換えれば「労働力の使用料」を時給として受け取っているのである。

 「労働」と「労働力」は異なる、実はこれこそが資本主義の謎を解く最大の鍵なのだ。話が飛ぶようだが、太古、まだ人類が自然の恩寵と祝福を受けて暮らしていた頃、ひとりの人間が生きてゆくのに2個の芋が必要だったとしよう。話をごく単純化することを許されたいが、このとき、ひとりの人間が一日頑張って掘り出せる芋が2個だったとすれば、労働の成果と労働力の維持再生コストは等しい。ヒトの群れの個々の構成員は誰しも等しく自分が生き延びるための芋を掘ることだけに熱中していたことだろう。

 だが、例えば木の枝や動物の骨といった道具を使うことを覚え、もっと効率的に芋を掘ることができるようになれば、一日に3個の芋を掘り出せるようになる。一方で人間の命を維持再生するのに必要な芋は2個のままだから、残る1個は食べずに取り置いておくことができるだろう。つまり生産力が上がることにより、同じ労働で以前より1本多い3本の芋=価値を生み出せるようになった一方で、その労働を可能にする労働力の価値つまり労働力を維持するコストは芋2本のまま、ここが剰余価値のからくりを理解する勘所なのだ。

 このとき、10人の人間の群れは1日に30個の芋を生産できるが、群れが生き延びるためには20個の芋があれば足りる。ということは例えば7人が芋掘りに従事して21本の芋を生産することで、残る3人は芋を掘らず別のことをして暮らすことが可能になるということだ。最初は呪術師やシャーマン、あるいは用心棒などの専門職がこの特権に預かったかもしれないが、後にはこれが奴隷制という生産システムにつながる経済的基盤をなすことになる。つまり、生産力の向上こそが麗しき平等社会を破壊し、今日に至る階級社会に人間社会が分裂する動因となったのだ。

 と、このあたりからは史的唯物論の領域になるのでこのへんにしておくが、要するに生産力は歴史的にどんどん向上して労働は単位時間あたりより多くの価値を生み出せるようになっていく一方、労働力の価値(労働力を維持再生するのに必要なコスト)はそれほど大きくは変化しない。別の言い方をすれば、「労働力」はそれを使用することで元の価値以上の価値を生み出す特異な商品ということなのだ。そして、この「投入した労働力の価値以上に生じる価値」のことをマルクスは「剰余価値」と呼んだ。

 そこで次の問題は、この剰余価値を誰が手にするかだ。封建時代には封建領主や武士が土地の支配を拠り所として、それを耕す農民から年貢という形で剰余価値を吸い上げた。そして資本主義では、工場や店舗や工作機械等を所有し、原料を購入し、そして人を雇うのに金を出した(資本を投下したと言い換えてもいい)という理由で「正当」にその工場や店舗の売り上げを手に入れており、実はその中にこっそり剰余価値も含んでいるのである。アダム・スミスらが市場のうまい取引で生まれると思っていた利潤は、実は生産過程ですでに労働による剰余価値として生まれていたのだ。市場はそれを実現する場に過ぎない。これがマルクスが解き明かした資本主義の秘密である。

 バーガーショップで働くA子は今日も、自分の1時間分の労働の価値はこの100円バーガー9個分だと思ったかもしれない。だが違うのだ。現在の平均的な労働生産性なら恐らく、A子の労働には1時間に50個のバーガーを作って提供できる生産力がある。しかし支払われているのはA子の労働力を維持再生するコストだけであり、それがバーガー9個分に過ぎないということなのだ。残りは資本家がポケットに入れているのだが、気のいいA子にそれは見えない仕掛けになっている。これが資本主義の本当の姿なのだ。

 実際には、価値を生み出す労働は商品生産に関わるものだけであり、医療や教育などサービス業や多くの公務は新たな価値を生まないから、これに必要なコストは商品生産労働の剰余価値から控除する必要があるし、地代や利子など別に考えるべきコストももちろんあるのだけれど、これらを説明しだすと複雑になりすぎるので簡略に描いたが(もちろん『資本論』はこれらについても緻密で完璧な論理構成で解明している)、資本が増殖する秘密がこの見えない剰余価値にあることは概略説明できたのではないかと思う。

 ということで、冒頭のNHK・BS1スペシャル『欲望の資本主義2018』が取り上げた現代資本主義の混迷に戻るが、マルクスの学説に導かれ曇りない目で見れば問題の構造と原因は極めて明瞭なのであって、従って解決法も至ってシンプルなものだ。資本主義の問題は端的にいって1%の資本家と99%を占める労働者との利害の対立にある。双方の格差が最近天文学的に拡大したのは、ケインズらが資本主義の延命装置として導入した格差調整策さえ、ネオリベが唱える規制緩和の掛け声で、レーガン、サッチャー、小泉ら資本主義の政治的代官どもが捨て去ってしまったからだ。

 解決するにはどうするか。簡単だ。本来労働者が取るべき分を資本から取り戻せばいいのだ。ではどうすれば取り戻せるか。これも簡単で仕事をしなければいいのだ。もちろん一人がサボってクビになってはつまらないから、みんなで一斉にサボる。赤信号だって「みんなで渡れば怖くない」というではないか。蛇足ながらこれをストライキといい、もちろん合法である。いくら威張っても資本家は労働力がなければたちまち干上がってしまうが、労働者は資本家がいなくたって何も困らない。いま非正規など就業形態が不安定になり、働く人々の収入が減り、生活が苦しくなるのは、要するにその当事者が団結して戦わないからだ。労働者の強力な武器であるストライキが打たれなくなって久しい。武装解除した労働者ほど他愛なく扱いやすい相手はない。ということでいま、世の資本家どもはとことん労働者を舐めきって、強欲の限りを尽くしているわけだ。

 以上のように問題の本質も解決方法も非常に簡単である。だがだからこそ、こんな簡単なことに労働者が気づかないよう資本の側は全力を尽くしている。例えば、労働者の暮らしが苦しいのは移民が仕事を奪うからだと思わせる。生活保護や障害者福祉で一部が優遇されその煽りで自分たちは疎外されていると思わせる手もある。生活苦や閉塞感から鬱々とした苛立ちが起き上がってくるとみれば、それが資本の側に向かないよう愛国心を煽り嫌韓反中のヘイト感情を燃え上がらせてガス抜きするという手も使う。労働者の大軍を形成する可能性がある基幹産業の労働組合の幹部は買収し出世もさせて資本の手先にする。メディアも買収し、酒席での相撲取りの暴行とか、タレントの不倫とか、低俗なお笑いとか、総じて愚にもつかないことばかり報じて労働者が変に賢くならないようにする。もちろん、マルクスは古く誤っていることにするか、そもそもいなかったことにする。

 さてそろそろ結論だ。欧米で仕事を失う恐怖に駆られて移民を忌避しようとする人々には、寛容を説くのではなくあの自民党の女性代議士ではないが、「違うだろお!」と言うべきではないか。敵を見誤ってはいけない。「敵は本能寺にあり」ではないが、資本主義経済の剰余価値の秘密に潜んで労働に寄生する資本家たちこそが真の敵、国籍を問わず労働者の敵なのだ。ヘイトスピーチをがなり立てる連中はもっと程度が低いので同じ事を言っても通じないかもしれないが、対立を煽ってトクをする資本に踊らされているだけとわかれば目が覚めるかも知れない。いずれにせよ、人々の現在の生活苦や閉塞感は国籍などと関係なく、ただ欲望が肥大化した資本の凶暴な振る舞いの産物であることを知るべきだ。これを正すためのスローガンはひとつしかない。最後にマルクスのその言葉を引用してこのコラムを閉じようと思う。

         万国の労働者団結せよ!



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