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 7月16日、めざす試験まで残すところ2ヵ月を切ったが、どこまでやっても勉強には果てしがなく、底なし沼にはまって抜け出せないような、ちょっとブルーな気分なのだ。一方、参院選の投票まではあとわずか5日、こちらは気分も何も、とにかく出来ることをするしかない。

 メディアの事前予測は自民党の圧勝、一人区はひとつ残らず独占し、全体でも単独過半数に届く勢いという。そんな下馬評を繰り返し流すことが、有権者の行動にどのような影響を与えるのかが気になる。これまでの経験では、「勝ち馬」に乗ろうとする動きと逆に棄権して「負け戦」を回避する動きが助長されるように思うが、これについてフリージャーナリストの江川紹子さんは次のように語っている。

【以下引用】
特定の政党や政治家を強く支持していたり、返さなくてはならない義理がある人を除いて、今回ほど投票意欲の湧きにくい選挙はないのではないか。
何しろ、すべてのマスメディアが、与党の大勝利を「予言」している。いや、「予言」などと言い方は曖昧に過ぎる。「断言」と言った方がいいかもしれない。何しろ、ある1人区は自民党が総なめの勢いらしい。有権者にすれば、「結論が決まってるなら、今さら…」の気分だろう。それでも、自公大勝で結構、という人はハッピーだろうし、大いに盛り上がればよい。だが、「それはちょっと…」と思う人は無力感が募っているに違いない。
【引用以上】


 江川さんの論考はこのあと、自民党が本当に圧勝すれば、政権与党が圧倒的多数を占める衆院を当面解散するはずはないので、次に参院選がある3年後まで国民には審判の機会がないことを明らかにし、さらに自民党が提案している憲法草案の驚くべき内容に踏み込んだうえ、それでも3年間安倍内閣に白紙委任をして良いのかと問うている。さすがの見識だが、これについてはぜひ本文を参照されたい。
江川紹子さんの特別寄稿

 さて、江川さんの論旨には全面的に同意なのだが、それとは別にここで投票日を迎える前に書いておきたいことがある。維新の橋下徹代表がことあるごとに言う「統治機構改革」の「統治」という言葉についてだ。コジロー個人としては、聞くたびに耳にトゲが引っかかるような違和感があり、またそれゆえ、この言葉を発する橋下氏への拒否感情もさらに深まる。

 もとより、この最低男については、最初に見かけたときから公的な発言で「ボク」を連発するマザコンぶりも、すりかえで相手を論破した気になるアホさ加減も、居丈高で思い上がった無礼千万な言葉遣いも、ん~、もう、なんつうか、ペラペラしゃべる声も薄っぺらな顔も、さらには着ているモノも靴も、なにもかも全てが大嫌いなのだが、ヤツが好んで連発する「統治」という言葉には、さらにコジローのカンに障る何かがあるのだ。その正体は一体何だろう。

 ということで調べてみたのだが、世界大百科事典は「統治」について次のように書いている。

特定の少数者が権力を背景として集団に一定の秩序を付与しようとすること。政治とほぼ同義に用いられることが多いが,厳密に解すれば,統治は少数の治者と多数の被治者との分化を前提とし,治者が被治者を秩序づけることを意味するのに対して,政治は,少なくとも,対等者間の相互行為によって秩序が形成されることを理想としている。こうした差異を端的に示しているのは,政治と統治の言語としての差異であろう。すなわち,〈統治〉は〈統治する〉という他動詞の名詞形であるが,〈政治〉には同様の他動詞が対応していない。 」

 ごくかいつまんで言えば、「統治」とは少数の支配層が被支配層たる我ら大多数の人民を権力支配して従わせることであり、支配層の存在を所与の前提とするところが、被支配者層の承認による分限的な権力委託を意味する「政治」とは異なるというのである。

 つまり、橋下は自らを封建領主の如き特権階級と認識しており、国民や大阪府市民はその権力支配に服するデクノボーに過ぎないのであって、彼が言う「統治機構改革」とは要するに、「これまでの支配の仕方は生ぬるい、ボクちゃんならもっと上手く国民を牛耳ってやるぞ」と言ってるに過ぎないのだ。ちなみに、この感覚は石原慎太郎というアナクロ化石老人も同一であり、過去の戦争についての認識が多少違っても二人がくっつけるのは、この低級な選民感覚が触媒になっているからだ。

 かくして、橋下が発する「統治する」という他動詞には、国民の人権や生命など屁とも思わない禍々(まがまが)しいファシズムの臭いが紛々としている。コジローがこの言葉を聞くたびに激しい拒否感情を抱くのはそのせいだ。だが、これはコジローうすうす感じていることなのだが、「統治」という言葉を連発する橋下自身、ここに書いたような意味でこの言葉を正確に理解はしてはいないのではないか。でなければ、実際の意味が伝われば国民の反発必死の危険な言葉が、あんなにペラペラと軽く口をつくはずはないのではないか。

 …なんて思うのは、まだ橋下をフツーの政治家と同じ物差しで評価しているせいかもしれない。身近にはまともな人間しか見たことがない者には信じがたいことだが、ホント、こいつの中身はピーマンのように空っぽで何ひとつ判ってないって可能性も結構高いのだ。例えばこの「統治機構改革」なるものも、それが意味する深刻な内容など空疎な脳みそで理解していたのかどうか、「行政改革」と同程度の意識でなんとなく言葉の響きがカッコイイって程度で使っている可能性がある。考えてみれば、脱原発もトキの流れに乗っただけの無内容さだったし、呆れ果てた沖縄米軍への「風俗お勧め発言」も、単なるウケ狙いだったかもしれないのだ。

 だが、そのカラっぽさで何も考えずにペラペラしゃべれる軽さが重宝で、真の少数統治者の煙幕に役立つとは言える。そうして、役立つ間はマスコミにはやし立てられてピエロはずっと有害な道化を演じ続けるだろう。そんな橋下と石原とそして維新の会は、21日の投票日を賞味期限にしなければならない。

 で、そのうえでの余談だが、有権者がそうした選択をなしえたそのとき、「政治する」という他動詞が日本語として成立するのかもしれないと思ったりもする。

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