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 細川護煕元首相がやはり元首相だった小泉純一郎氏の支援を受けて、都知事選に立候補する。お二人の接着剤は「脱原発」で、これでひと騒動起こしてやろうと意気投合したらしい。

 一地方の首長を決める都知事選で原発は争点にふさわしくないとの意見もあるが、エネルギーは町づくりを構想するうえで最もベースになるインフラのひとつだ。特に日本の首都がそのエネルギーに何を選択するかが争点のひとつとして取り上げられることが、著しく不当だとは思わない。

 脱原発を主張するならそれに基づく町づくりは無闇な膨張を抑え都市機能を集約させた省エネ型のコンパクトシティを志向することとなるだろう。逆に原発に依存するなら、従来の延長線上の膨張型巨大消費都市をめざすことになる。ちなみに、先に出馬表明した宇都宮健児氏も東京五輪の軽装化などの政策と併せて脱原発を政策の一つに掲げている。

 一般にはよく知られていないと思うが、巨大火力発電所も重厚長大工場もない東京都のエネルギー起源CO2排出量は意外に低く、省エネ法に基づき年間のCO2排出量の報告が義務づけられた大規模事業者が出すCO2の量で比較すれば、実はコジローが暮らす和歌山県の方が東京都より1.4倍も多い。これは、公害や放射能など汚いモノやリスクを地方に押しつけ、そこから得られる金とベネフィットのみ中央に吸引してきた日本的経済システムがもたらした歪みであり、原発の立地がその典型であったことは言うまでもない。

 ともあれ、東京は人口が和歌山県の10倍以上あり公共交通機関も良く発達しているので、結果として現状でも住民1人あたりのエネルギー起源CO2排出量は日本一低い。つまり東京都は原発に依存しない地域社会、また21世紀の人類史的課題である低炭素社会の建設に最も近い都市ということも言えるのだ。東京都が脱原発低炭素の町に接近することは他のどの都市より可能であり、これが与えるインパクトは決して小さくない。

 ということで、以前から隠れなき脱原発派であり、また低炭素社会建設を目標とする仕事に従事もしているコジローとしては、それを旗印に掲げる候補は歓迎したいところなのだが、このたびの細川・小泉コンビにはどうにもザラッとした肌触りの悪さを感じて仕方がない。

 この何とも言えない気持ち悪さの正体が何か考えあぐねていたところ、知人から熊本日々新聞のコラム「新生面」を紹介していただいて思わず膝を打った。同紙は細川氏が知事を務めた熊本県の県紙であり、他のどのメディアより良く細川護煕という人物を知り抜いている。その知り抜いた熊日のコラム子が見事に喝破した気持ち悪さの正体は「ナルシシズム」だ。以下にそのコラムを転載する。

熊本日々新聞 コラム「新生面」(2014年1月11日)

 「自分がどう感じるかということよりも、自分がどう見えるかということに関心を持つ」。米国の精神科医A・ローウェンが「ナルシシズムという病い」に書いている。むろん、ナルシシストについての定義だ
 ▼このタイプの人は自分の感情よりも「自分がこのように見えているだろう」というイメージを大事にするという。多少なりとも誰にでもある傾向だが、政治家や芸能人に目立つ
 ▼細川護熙氏が東京都知事選に立つという。熊本には縁が深い方だが、「見せ方」「見え方」にこだわりが強いようにも感じる。その決断には何度も驚かされてきた。熊本県知事や首相への去就、任期途中での衆院議員辞職、陶芸家への転身など
 ▼細川さんからすれば、イメージの創造に成功したのかも。その際の「決めぜりふ」も忘れがたい。県知事引退の時は「権不十年」、衆院議員の引退時は「60歳で政界引退を決めていた」「今後は晴耕雨読」
 ▼格好はいいのだが、すべてが後講釈で、いつしかほごになりがちなのがちょっと残念だ。「60歳引退は選挙の時に言うべきでは」と聞いたこともあるが、納得できる説明はなかった
 ▼今回の立候補の動機には反原発があるという。小泉純一郎元首相も唱えている。こちらもなかなか「見せ方」を知る人。言葉の使い方もうまい。もし細川氏を支援すれば、風を起こそうとするだろう
 ▼ただし、衆院選を郵政民営化だけで戦うような劇場型選挙はごめんだ。そのツケは大きい。細川さんも晴耕雨読で学ばれたことだろう。


 そうなのだ。この人たちには、自分がどうかっこよく見えるかということしか念頭にない。かっこよく見られたいために、緑の芝に閣僚を集めてワインで乾杯してみたり、ペンで記者を指名してみたり、落ち目だった自民党を「ぶっ壊す」と言ってみたり、このコラムも言うように郵政民営化などというまあ日本社会にとってそれほど重要ではない問題をシングルイシューにした劇場型選挙で主役を演じてみたり・・ 要するに中身はカラッポで自分の見え方のみを基準に振る舞うのが彼らが共有する行動原理であり、国民にとってこれ以上なく迷惑な連中なのだ。それが今度は都知事選を「脱原発」をシングルイシューとする舞台に変えて、格好良く「義憤の士」を演じようと目論んでいる。その底意の見え透いたヘタな芝居に付き合いさせられそうな予感が、コジローが感じた気持ち悪さの本質だった。

 だが、この熊本日々新聞の冷徹なコラム子を例外とする無邪気なメディアはこぞってまたも、ナルシシスト連合が仕組んだストーリーに先を争って易々と乗せられてしまう公算が大きい。今朝の朝日はやはり「桝添vs細川」一色だった。特に確認はしていないがどうせ他も同様だろう。いつまでも、こんなに他愛なくナルシシストのお先棒を担がされるようなことを繰り返していていいのか。いいかげん大人になったらどうなのか。都知事選は、都民の良識とともにメディアの成熟度を計る指標になるに違いない。


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