さて、前回予告したとおり明治維新と西郷隆盛のことなど書き始めようこうと思うのだが、そのまえにもう一度面倒くさいけれども教育勅語の話題だ。あろうことか稲田朋美防衛大臣が参院予算委で「好っきゃねん教育勅語」とのたもうた。

 いわく「親孝行など核の部分は取り戻すべき」「教育勅語の精神である、日本が高い倫理観で世界中から尊敬される道義国家を目指すべき」。はあ、やれやれである。この人、南スーダンへの自衛隊派遣をめぐる質疑ではしどろもどろ、しばしば答弁不能に陥ったり関係ないことダラダラ垂れ流して注意されるなど無能をさらけ出しているくせ、教育勅語の話になるとやけに能弁。答弁ぶりを見るに、「これぞ得意分野」と待ってました感アリアリなのだ。

 が、冗談じゃない。教育勅語はその書き出しに「我カ臣民」とあるだけで一発アウトである。臣民とは君主に支配される人民のこと。臣なる政府高官と草とまで蔑まれた民とでは待遇に違いもあるだろうが、要するに臣民とは君主の道具であって自己決定権などありはしない。これが現行憲法の基本的人権観と両立しないことは明らかだし、自由な個人であるより臣民の方がいいと思うのは、それこそ現行憲法が定める思想良心の自由により個人の勝手だが、憲法遵守を義務づけられた国務大臣や国会議員が公の立場でそれを言うことは許されない。

 また勅語は徳目を12項ばかり列挙していて、「いいことも書いてるじゃん」などというもう何度論破されたかわからないノー天気でナンセンスな妄言(稲田くんは教育勅語に頼らなければ親孝行程度のことすら教えられないのだろうか、世の平均的な父母のレベルにすら遠く及ばないではないか)が出てくるのだが、それらの徳目はすべて「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」、つまり「天皇が戦争を起こしたら、皇室が永遠に続くよう勇敢に奉仕、とは要するに命を投げ出せ」という一点に収斂するのが勅語の論理構成だ。にも拘らず当たり障りのない徳目だけ上げて「いいことも」などと言うのは、そもそも日本語を理解する能力が根本的に欠けているか、でなければ饅頭に見せて毒を食わせようという腹黒い魂胆があるかどちらかだ。

 さて、稲田が持ち出した『道義国家』とは聞きなれない言葉だが、調べてみると、いまや日本を席巻する勢いの極右団体『日本会議』の田久保忠衛会長直伝らしい。稲田は口真似をして右翼のオヤジを喜ばせる技術には長けているが、行政能力に加えて自分の言葉で思想を紡ぐ能力もないようである。それはさておき、教育勅語でもって「道義国家」とやらをめざした結果、「世界中から尊敬」どころか憎悪の対象となりボコボコにされたのが現実の歴史だった。

 そしてまさに教育勅語を体現したカルト狂信国家日本が壊滅して70余年を経た今なお、連合軍の後身である国際連合において日本などを「敵国」と規定する国連憲章第53条・第107条は生きており、「教育勅語に戻れ」などと政府高官が公言することがどれほど右翼の皆さんが大好きな「国益」を毀損するか考えてみるがいい。例えばまあ、ワタクシはそれが国益とはつゆ思わないが、安倍首相が祈念する国連常任理事国入りなど、相手にされなくなるのは確実だ。

 それにしても、こんな憲法違反の発言をして、国務大臣も国会議員も辞めなくて済むとしたら大変なことではないか。この国の立憲主義はまさに解体の危機に瀕している、つうか、戦争法の通過ですでに解体しちゃった感も強いのだけれど、それにしてもこんなムチャクチャな大臣がのうのうと居座るのを放置しておいて良いわけはない。「みっともない憲法」なんて現行憲法をとことんコケにした日本の恥、あの「みっともない首相」ともども、痛撃を与える方法はないだろうか。

 教育勅語については専門の方が多く書いておられる。そこへ素人が重ねてくどくど書く気はなかったのだけれど、腹立ち紛れに書いているうちに結構な分量になってしまった。もう寝る時間で病室も消灯されちゃったし、仕方がない、明治維新はまた次だなあ。

 最後に今回の入院で描いた水彩画を一枚。奧津国道さんという方のテキストから引っ張ったモチーフなので、どこだか正確にはわからないのだけれど、多分フランスの田舎だと思う。原画のサイズはF4です。


170308 習作 (2)サイズ



 前回の投稿から二週間も経ってしまった。同じテーマで連載するのだから、一週間に2本くらいのペースで書こうと思っていたのだが、またぞろ入院する羽目になって何かと気ぜわしく、すっかり間延びしてしまった。

 今回の入院は薬を切り替えるためのもの。1月に襲われた気胸は間質性肺炎治療のため服用しているステロイドのせいで治りにくかったが、ステロイドは気胸の原因になることもあるらしい。続発性気胸はただでさえ再発率が高いところ、ステロイドのリスクまで加わるとさらにヤバいので、ステロイドは止めるか減らすに越したことはない。しかし、急に減らせば急性増悪といってこれまた生死に関わる事態を招来しかねないし、ステロイドに代えて投与する免疫抑制剤ネオーラルも個人差が大きい強い副作用がある薬なので、安全のため医師が常時管理できる状況で切り替える必要があるという。それが今回の入院の目的だ。というわけで、3月2日から再び入院生活を送っている。

 不治の病に目をつけられた病人であることに変わりはないが、だといって特に体に不調があるでなし、検査や採血もするでなし、気胸で担ぎ込まれた時に比べれば気楽だがなかなか文章を書こうという気にはなれないものだ。そこで読書と水彩で時間を潰す。読書は映画化されて話題になっている『沈黙』など遠藤周作の作品やドストエフスキーの作品でまだ読んでいないもの。水彩は病室で描く制約もありF4と小サイズだが3枚を仕上げた。でもってこの勢いで県の地球温暖化関係の定期情報誌に連載している小さなコラムを締め切りに追われて書いて、ようやくこのブログを書く元気が出てきた。

 さて、前置きが長くなったが前回からの続きである。前回紹介した山本七平の『空気の研究』は山本独特の冗長な公害反対運動へのイヤミや本筋からはどうでもいい宗教改革の弁明などが長々とあって、本題だけならたぶん三分の一くらいの分量で書けるだろう内容だが、その場の「空気」が作られるメカニズムや空気に「水を差」してこれを打ち壊す「水」の作用、そしてその水がまた新たな空気を作ってゆくメカニズムなどの説明には独創性がある。

 そこでまた森友学園の話題だが、ご承知のとおり同学園が経営していた幼稚園では園児たちが毎日教育勅語を奉読しており、これを見た安倍首相夫人はじめ右翼文化人の面々が一様に講演や談話等でこもごも強く感動した旨を述べておられる。理解力もなく抵抗する術もないいたいけな子どもたちにこんなものを暗記させ唱和させるというのは虐待にほかならず、もとよりこうした偏向が公教育で認められるはずもないがそれはさておき、どうしてこの連中は教育勅語というとかくも一様に感動するのか。

 これも空気の支配というものなのだろう。教育勅語はまさに戦前の日本を象徴するシンボルであり、その戦前の日本を「美しい国」と思い「取り返し」たいと願う少々アタマのいかれた御仁には日の丸同様神聖にして侵すべからざるものである一方、リベラルや左翼にとっては戦前のシンボルゆえ不倶戴天の敵と蛇蝎のごとく嫌われている。

この「蛇蝎のごとくに嫌われる」というところが結構重要であって、右翼ご一統にはこの嫌悪感こそ戦後教育の悪しき遺産なのだという跳躍論理も手伝い、より一層ありがたみが増すという関係にある。つまり、教育勅語は一種の踏み絵であり、この国の主流派であることの証明はこの踏み絵を有り難くおし戴くことでなされるという「空気」があるのだ、そして「蛇蝎のごとくに嫌う」のはいわば「水」であり、この水の存在ゆえに空気はより一層強固にそれを戴くものたちを強迫的に支配する構造にあるのだろう。教育勅語への愛着はお仲間であることを確認する符丁のようなものなのだ。

 さて、彼らを結ぶ紐帯は基本的には国家神道というものであるはずである。国家神道とは記紀神話という創世物語を根拠に神の子孫である万世一系の天皇がこの国とそこに住む人々を統べるという非科学的な虚構だが、まあ宗教というのは国家神道に限らずすべからく基本的には非科学的虚構であるのだからして今は問わない。というか、問うても無駄である。それより問題は教育勅語だ。これは冒頭に「朕惟フニ」と語りかけ末尾に御名御璽があるからっといってもちろん明治天皇御製ではない。成立に至る細かい経過は省くが、最終的に世に出た勅語の文案を書いたのは井上毅内閣法制局長官と明治天皇側近の儒学者元田永孚(ながざね)の二人であったことが分かっている。

 井上は日本の教育制度その他に大きな足跡を残した官僚政治家だが、その思想的ルーツは儒学分けても朱子学であった。つまり、教育勅語は二人の儒学者によって書かれたのであり、その内容もまた儒教倫理そのものである。で、儒学といい儒教といい中国から伝来したものであることは言うまでもない。その中国直輸入の儒教倫理を書き記した教育勅語を天にも持ち上げてありがたがるその口で「チャンコロ」だの「シナ人」だのヘイトスピーチが出てくる脳みそというのは一体どんな構造をしているのか。滑稽極まれりというしかない。まさかとは思うが、もしかしてこのご一統、孔子が日本人だなんて思ってないだろうな。

 ついでの話だが、天皇家に仏壇はあるのだろうか。回答から言えば明治4年(1871年)までは宮中の黒戸の間に仏壇があり歴代天皇の位牌が祀られていたのである。法事も仏式で行われおり菩提寺は京都の泉涌寺だった。つまり、明治天皇を含め歴代天皇は仏教の檀家さんだったのであるが、さてそれが国家神道の教祖としての現人神と二足のわらじで両立できるものか。

 政治的無関心甚だしいのんきな国民をなにがなんでも中央集権国家に思想動員する装置として作ったのが国家神道という新興宗教だが、肝心の教祖が異教徒では話にならない。というわけで維新政府は明治6年、千年以上にわたる天皇家の仏教信仰を禁じ、仏壇や位牌は泉涌寺に引き取らせて新興宗教に改宗させたのだ。この新興宗教に軍部が悪乗りしそれからわずか70余年で日本は壊滅、昭和天皇の「人間宣言」をもって国家神道も最終的に破綻した。

 つまり、国家神道なる新興宗教の命脈はたった100年ももたなかったのだ。これが「日本の伝統」などちゃんちゃらおかしい。日本にはアニミズムと地祖霊信仰、仏教、儒教そしてキリスト教その他、多くの在来外来の宗教と文化が出会い形作られてきた長く豊穣な歴史がある。天皇のために死ねというほかは教義も定かでない怪しい明治新興宗教一色でこの国の姿を語るなど言語道断、少しは日本史を勉強してから発言してはどうかと思う。

 もうひとつついでの話、「現人神」というけれど、明治、大正、昭和の「現人神」三代にわたり、自ら「朕は神であるぞ」などと発言した例は一度たりともない。天皇は明治維新政府によって力尽くで改宗させられ、自分じゃそんなことカケラも思っちゃいないのにいつのまにか「神様」に祭り上げられ、その自分では思っても言ってもいないことの責任を取って戦後、「実はワタシ人間ですんねん」と、国民に向かって告白せざるを得なかったのだ。考えてみればまことに気の毒な話なのであって、他人のせいで赤っ恥もいいところだ。天皇陛下をかくも粗略に扱った無礼千万な国家神道こそ不敬の極みではないか。真の右翼ならこれをこそ粉砕の対象とすべきではないのか。手始めに靖国神社の解体あたりから手をつけるのが妥当かと思う。

 ん~、森友学園の話に少しでも触れると、それ自体の異常さトンデモさもさりながら、これに群がる右翼愛国者の皆さんの世にも情けない知性にひとこと言いたくて、つい横道にそれてしまうのだなあ。さらに書き進んでもいいが、あまり長くなると読んでもらえないし、安倍晋三記念小学校のせいでまことに困ったことである。とはいえ、ちょうど明治維新の話題も出たので、次はこのあたりを接ぎ穂にして西郷隆盛のことなど書いてみよう。




 前回の記事で、「POST TRUTH」と呼ばれるような「気持ちよい嘘」が「不都合な真実」より選好されるような世論の傾向が、世界で反理性的な選択を招き、多くの国で国民の分断を引き起こしまた国際関係を危うくしていることに触れ、これが欧米よりもむしろ日本で先行して発生してきたことを述べた。また、こうした変化が世に言われるメディアの右傾化や、日本会議やネトウヨなど草の根右翼の策動の結果ではなく、むしろそれに先立つ国民意識の変貌こそがこれら、従来は水面下に隠されていたグロテスクで偏狭な劣情が社会の表層に溢れ芽吹いてゆく温床となったのではないかと指摘した。

 では、ここにいう国民意識の変貌の本質は何か。もちろん私見だが、結論から言えばそれは端的に「共同性への渇望」ではないかと考えている。

 現代の排外主義的な社会の空気は戦前のそれによく似るという。これに関連してだが、いま巷間最も注目されるニュースは、大阪府豊中市の国有地が「瑞穂の國記念小學院」建設用地として「森友学園」(籠池泰典理事長)なる学校法人に、ほとんどタダ同然で譲られた事件だろう。

 同法人が経営する塚本幼稚園では愛国教育の名のもとに、判断力もない幼児に教育勅語の唱和や軍歌の合唱をさせるなどというとんでもない偏向刷り込み教育が行われているのだが、その一方で副園長(籠池理事長の妻)は園児の母親である韓国出身女性に読むに耐えないほどひどい差別文書を送りつけていた。報道によれば園長でもある理事長は園児たちに「差別はいけない」と訓示していたようだが、その園長も中国人、韓国・朝鮮人に対する嫌悪感をむきだしにしている。彼らの感覚では中国人や韓国人は差別してはいけない人間には入らないようなのだ。

 ことほど左様に愛国とレイシズム(人種差別主義)は親和性が高い。その媒介項は他を貶めればその分だけ自分が浮上するというなんともわかりやすくも卑しい感覚だ。また、籠池理事長は「瑞穂の國記念小學院」のホームページに掲載した挨拶で「世界で歴史・伝統・文化の一番長い國である日本」とか「その中で積み上げてきた日本人のDNAの中に「人のために役立つ」という精神が刻み込まれている」とか、歴史的科学的に明らかに誤った「ニッポンすごい」の妄言を書き連ねている。ここには、愛国、レイシズム、ニッポンすごい、というこの国における反知性的「POST TRUTH三点セット」が絵に描いたように見事に陳列されている。

 なお周知の通り、同じホームページでは理事長のこの呆れ果てた非科学的妄言の上に麗々しく、この妄言の主の「熱き思いに感銘」した(これだけで知性のほどが察せられる)という「安倍昭恵先生」が「安倍晋三内閣総理大臣夫人」の添え書きつきで名誉校長就任の挨拶を述べているし、建設募金を「安倍晋三記念小学校」で集めていたこともわかっている。全貌解明はまだこれからだが、国有財産の闇贈与ともいうべき異様な事件の背景にこうした事情が絡んでいないと思う方がどうかしているというものだろう。

 さて、話が少し横道にそれたが、この瑞穂の國記念小學院のホームページに典型的にみる愛国、レイシズム、ニッポンすごいの反知性的「POST TRUTH三点セット」は、戦前の日本であれば、滅私奉公忠君愛国の教育勅語イデオロギーと、日本を頂点とする八紘一宇の帝国主義的民族差別と、そして万世一系の神の国という歴史の検証に到底耐えない虚構との三点セットで構成されていた。

 日本はこの国民的狂気に支配されてあの無謀な戦争に突入し、そして当然のことながら完膚なく叩かれ、徹頭徹尾破壊され、蹂躙され、破滅したのだった。周知の通り、東京裁判ではその首謀者たちが戦犯として裁かれた。だが、彼らは本当に戦争の首謀者と呼ばれるほどの能動的実在だったのか。例えば東条英機その他の「平和に対する罪」を犯したとしてA級戦犯とされた人々がいなければあの戦争は回避できたのか。自分にはどうもそうとは思えない。

 歴史における個人の役割を否定するものではないし、開戦に至る局面でその決定に参画する立場にあった政治家や軍人個々の意識や主張が最終決定に影響を与える可能性はあったはずなのであって、であればこそ勝者による一方的な裁きではあれ東京裁判の判決もやむを得ないとは思う。だが、先に書いたPOST TRUTHに囚われ、暴支膺懲(ぼうしようちょう=「暴虐な支那(中国)を懲らしめよ」という意味)や鬼畜米英を叫んで熱狂し陶酔する世論に身を持って抵抗する術は、誰が指導者であれすでになかったのではないか。

 山本七平(故人)という在野の社会学者(と敢えていう)に『空気の研究』という著書がある。詳しく紹介する余裕はないが、この本の中で山本は、戦術的にはどう考えても全く無意味な戦艦大和の沖縄特攻が、戦術や海戦の素人ならぬエキスパートたちによりまったく非理性的に決定される経過などを分析し、その決定に与ってもっとも力を発揮したのが「空気」であったことを紹介している。

 ただし山本は経済や科学技術には暗くまた独特の偏見もあって首肯しかねる記述も多い。例えば同書出版当時の革新自治体による自動車の排ガス規制を非科学的な魔女裁判呼ばわりし、これが日本の自動車産業を衰退させ巷に失業者を溢れさせると説いたが、厳しい排ガス規制をクリアした日本車は山本の予想とは正反対にこの技術をバネに世界を制覇している。こうした見通しの頓珍漢さや一方的な決めつけには毎度辟易させられるのだが、それでも日中戦争や対米英戦争の開戦などという歴史の決定的局面や天皇制への狂信などについて、「空気」が果たした機能を鋭く指摘した卓見は高く評価されねばならないだろう。

 いまもその「空気」こそが問題なのだ。いまこの国を覆いつつある不寛容な空気。それはかつて戦争の破局に転落していったこの国の空気と不気味な相似形をなすように思われてならない。次は山本の見解も参照しながら、戦前から今日に至るPOST TRUTHの「空気」を考えてみたい。



 英国が国民投票の結果EUから離脱し他のEU諸国でも極右や離脱派が台頭、米国ではトランプが大統領に就任した。選挙制度の当否はとりあえず問わないとして、このように国民規模で理性的とは思えない選択が繰り返される現状について、「post truth」という言葉が引用される機会が増えている。「脱真実」とでも訳せばよいのだろうか、2016年の「今年の単語(Word of the year)」に選んだ世界最大の英語辞典であるオックスフォード英語辞典はこの言葉について、「与論形成において、客観的事実が感情や個人的信念に訴えるものより影響力を持たない状況」と説明している。

 英語と日本語ではたぶんニュアンスが違うのだと思うが、正直なところ「真実」という言葉は情緒的で好きではない。「今は昔」の話になってしまうが新聞の編集に携わっていた頃、部下の記者たちには事あるごとに「事実」のみを書けと繰り返し言ってきた。自分の感覚では「真実」という言葉には現に生起した事実に加えての何か、例えば取材した記者の思い入れ、感動であったり怒りであったりといった感情や、事実の見方に影響を与えるその他の要素が添加される印象がある。

 記事を読んで共感したり怒ったりするのは読者の権利であって、それを先走ってリードするのは越権も甚だしい。記者はただ地域を這い回って確実な事実を集め、それのみを読者に提供することにプロとして徹するべきなのだ。だが徹したとしても、報じる事実の選択で記者の意識のフィルターが掛かることは避けられない。であればこそなおさら、「真実の報道」などという気持ちの悪いナルシズムに流されぬよう、事実のみ、事実のみと念仏のごとく自分に命じていたものだった。

 そういう感覚からすれば現状は「脱事実」、「post fact」と言ってもらったほうが自分としては胸に落ちる気がする。ま、昔話はこれくらいにして、そう、「事実」より「気持ち良さ」が選択されるのが現代世界のグロテスクな特徴なのだろう。そしてこれは、英国や米国より日本ではより早く、小泉純一郎が政権についた2001年頃から露頭し、現在の第2次安倍内閣においてまさに猖獗(しょうけつ)をきわめるに至っている。

 安倍晋三というある種特異なキャラクターがまるで息をするように次々に発する嘘、あの東京オリンピック招致演説で発した福島第一原発の放射能が「アンダーコントロール」にあるという、聞いて目が点になると同時に世界に赤面した超弩級の嘘を始めとして、ここに枚挙の暇もないほどの嘘が撒き散らされるにも関わらず、彼の支持率は一向に下落する気配がない。ひと昔前であれば政治家として命取りになったような嘘が容認されるばかりか、むしろ支持すらされるという現象をどう評価すればよいのだろう。

 また、南京大虐殺、従軍慰安婦、朝鮮人強制連行など、被害者数や被害内容に議論はあるにせよ、こうした事件があったこと自体は動かない歴史的事実として定着している問題についても、いまだアパホテルの元谷外志雄社長によるトンデモ本を始め、歴史修正主義の言説が聞くに堪えないヘイトな罵詈雑言を交えて絶えることなく現れ、それがトランプの顧問ケリーアン・コンウェイの迷言である「alternative fact」(オルタナティブファクト=もうひとつの事実)として、ネトウヨから広く拡散され共有されそして定着している。こうした巷間での右翼的歴史修正とヘイトの潮流は首相が上から撒き散らす嘘と共鳴する関係にあり、全体としてpost truthの社会的空気を醸成している。

 しかし、なぜこのような反理性的で馬鹿げたデマが、義務教育が普及し高学歴の人も多い高度知識社会で受け入れられまかり通るのか。ジャーナリズムが役割を果たしていないという声は多い。たしかにそれは大きな要因ではあるだろう。現政権はメディア対策を非常に重視しており、例えば高市総務相による電波停止の脅しの一方、恒例となっているメディアと首相の会食など、アメとムチを巧妙に使い分けてその支配を貫徹しているし、一方商業メディア側にはジャーナリズムに徹して貧乏くじを引くより「長いものには巻かれ」て保身を図る空気が支配的だ。

 それが国民意識に影響を与えていることはもちろんあるだろう。だが自分にはもっと深い原因があるように思われてならない。むしろメディアは、国民の中にあるpost truthの空気を敏感に反映して、これに応えようとしているのではないか。自分は絶対に視聴しないが、いまテレビで毎日のように放映される「ニッポンすごい」「ニッポン偉い」番組が高視聴率を取って隆盛するのを見るにつけ、こうした厚顔無恥と評するしかない露骨な自画自賛を多くの国民が求め支持している現状を認めざるをえないのだ。

 日本の汚点をマスキングする歴史修正と「ニッポンすごい」の自画自賛はコインの表裏の関係にある。事実より気持ちよさを選好する国民の深層意識とこれに迎合しさらに煽り立てるメディア、右傾化しデマゴギー化する政権、そしてネトウヨなど草の根の歴史修正主義とはびこるヘイト、これらが相互に影響しあい、増幅しあってこの国を反知性主義の方向に転落させつつあるのが現代という時代なのだろう。その行き着く先に何が待っているのが、想像するのもおぞましい。 が、といって自分も生きているこの国が再び破滅するのを黙って放置するわけにも行くまい。と、身動きもままならぬ病身ながら分不相応に考えてはみることはあるのだ。 といった次第でしばらく、現在社会の意識や構造について思うところを連続して書いてみたいと考えている。




 国連は昨日5日、2020年以降の全地球レベルでの地球温暖化対策の新たな枠組みとなる「パリ協定」が、11月4日に発効すると発表しました。昨年12月に採択された同条約発効の条件は、55か国以上の批准とこれら批准国における温室効果ガス排出量が世界全体の排出量の55%を上回ることでした。9月初めに中国で開かれたG20で排出量1位と2位の中国と米国がいち早く批准を表明、3位のインドもこれに続き、さらにEUやカナダ、ブラジルなどが相次いで批准してこの条件を満たしたものです。批准した国はすでに80か国に迫る勢いです。

 温室効果ガスの削減は経済成長の阻害要因となりかねないため、各国の利害が鋭く対立して長らく、包括的な削減対策の合意には至れませんでした。1997年に採択された京都議定書は発効するまでに7年を要したうえ、当時最大の排出国だった米国が脱走するなど泥まみれになってしまいました。それに対し今回はわずか10カ月で発効にこぎつけることができたのです。間違いなくこれは大きな前進です。

 もちろんここに至るまでの各国首脳のイニシアチブは高く評価されるべきです。ですがまたこれは一面、それほどまでに地球温暖化をめぐる深刻な危機が今や顕在化しており、目先の国益を理由に合意を拒むことができなくなったことを反映してもいます。はっきり言って、人類が生き残るために、残された時間はそう長くはないのです。

 国連の潘基文(バンキムン)事務総長は、同日発表した声明で「かつては不可能と思われていたことが今や(動きを)止められなくなった」と早期発効に祝意を示し、批准していない国々に国内手続きを加速するよう促しました。また、温暖化対策に力を入れてきたオバマ米大統領も、声明で「地球を守るための歴史的な日だ」と述べたとのことです。

 一方、温室効果ガスの排出量で世界第5位にランクし、地球温暖化対策で大きな責任を果たさねばならない日本では、現在開会中の国会でも政府は同条約の批准を提案しておらず、安倍総理の所信表明も同条約や地球温暖化には一言も触れませんでした。まあこの政府は要するに、世界が協力して取り組もうとしている人類救済の焦眉の課題に無関心なのでしょう。それどころか、温室効果ガスを激増させる石炭火力発電の新増設を強力に推進するばかりか、政府の音頭取りで積極的に輸出までするというのですから呆れ果てます。

 パリ協定が発効したことを受けて、11月7日にモロッコで開催されることが決まっていた「COP22」=「国連気候変動枠組み条約第22回締約国会議」では、同協定の具体的なルール作りが話し合われることになりますが、現状のまま推移して国会の承認を得て批准することができなければ、当然のことながら、日本にはオブザーバーとしての出席が許されるだけで発言権は与えられません。つまり、今後数十年にわたる地球温暖化対策について、世界のルールを決める最初の最も重要な会合で蚊帳の外に置かれるわけです。

 が、だからといってコジローは、他の環境市民団体の仲間たちのように声を極めて「日本も早く批准しろ」と主張したいわけではありません。COP22に間に合うよう大慌てで批准して、いまの石炭火力&原発推進&そもそも地球温暖化無関心・・というより財界の意を受けて本音では温暖化対策などしたくない安倍内閣が発言権を持ったところで、決して世界の地球温暖化対策を前に進める役割を果たすとは思えないからです。大量の温室効果ガスを出しながらこんな情けない政府を持って、世界の皆さんに対しまことに申し訳なく恥ずかしい限りではありますけれど、それでも口を開いて邪魔をするよりは黙っていてくれる方がまだいい。

 憲法は条約の批准つまり条約に元首が署名して締結することを内閣の職務としていますが、続けて「事前に、時宜によっては事後に、国会の承認を経ることを必要とする」としており、これまでの政府解釈では、その条約を締結することで国内法の整備を要するもの、また新たな予算措置が求められるものなどについては、事前の国会承認が必要としていますので、パリ協定の批准には国会承認が不可欠と思われます。ということで、今の情勢を見た政府が泡を食って、おっとり刀で批准を提案してこやしないかと、実のところひやひやしているのですよ。 ああ情けない!


 今回のブログは以上ですが、このパリ協定についてもう少し詳しく知りたい方は、ぜひ和歌山県が発行する地球温暖化関係情報誌「わおん通信」20号4~5ページに掲載しております特集をご覧ください。ちなみにこの記事は私が書いたものです。

 とはいうものの、同ホームページでは見開きページを無理に分解して載せておりますので、実に読みにくい。ということで、以下に元の原稿を転記しますので、関心のある方はお読みください。少々長めですが、これから大きな話題になること疑いなしのパリ協定やそれをめぐるニュースについて、勘所は間違いなく押さえられると思います。お時間の許す方は、是非ご一読を。


     COP21で何が決まったか
     パリ協定等の主要ポイント

 

 昨年12月12日、フランスのパリで開催されたCOP21(国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議)は、パリ協定とCOP21決定を満場一致で採択し閉幕しました。地球規模での気候変動が広がるなか国益をめぐる深刻な対立を乗り越えて成立した、京都議定書(1997年)以来の法的拘束力ある歴史的な国際合意であり、会場は鳴りやまぬ拍手と感動に包まれたといいます。ではいったい何が決まったのか、そのポイントを紹介します。

  1、温室効果ガス排出削減の目標

 パリ協定は地球温暖化対策で世界がめざす目標を次の三つにまとめました。

 ①長期目標=地球の平均気温上昇を産業革命前の水準より
2℃よりはるかに低い水準に抑え、1.5℃に抑制する努力をする。
 ②中期目標=そのために、可能な限り早期に世界の排出量を
頭打ちにし、その後速やかに減少させる。
 ③中期目標=今世紀下半期に温室効果ガスの人為的な排出と
人為的な吸収をバランスさせる。

 長期目標として、国際条約に具体的な数値で温度目標が書き込まれたのは初めてです。また、海水面上昇で消滅の危機に直面する小島しょ国の切実な訴えを受け1.5℃目標にも言及したことは画期的です。これを受けCOP21決定は世界の気象学者らで作るIPCC(気候変動に関する政府間パネル)に対し、1.5℃上昇に食い止める温室効果ガス排出経路等についての特別報告を、2018年に提出するよう招請しました。

 この長期目標を達成するための②と③の中期目標では「排出中立化」を明記しました。これは、森林吸収やCO2を回収貯留技術(CCS)など人為的な吸収も活用しつつ、2050年以降は差し引きでの人為的排出をゼロさらにはマイナスにすることを意味します。この目標は世界が早期に化石燃料依存の社会から卒業しなければならないことを意味しており、石油石炭文明に代わる新しい文明への転換宣言とも評すべきものです。


  2、各国目標と定期的な見直し

 目標を達成するためには、各国の国別約束(排出削減目標や行動)で目標が裏付けられなければなりません。先進国だけでなく途上国もこぞって、この国別約束をCOP21に提出したのも画期的なできごとでした。しかし、提出された国別約束は全体として2℃未満の長期目標を達成するには大きく不足しており、また京都議定書のような罰則付きの義務化は抵抗が強くてパリ協定には盛り込めず、自主目標として条約事務局が登録簿を作成するにとどまりました。

 しかしその代わり、各国は現在の国別約束を見直し引き上げたものを5年ごとに提出して長期目標に比べ十分かの評価を受けるとともに、それぞれの段階の約束の達成を保障する国内措置をとることがパリ協定で義務付けられました。こうして、自主的でありながら長期目標の達成に向けて各国の取り組みを後退させることなく継続して見直し、強化し続ける仕組みが確立されたのです。最初の評価・見直しは2018年から始められることも決まっています。


  3、先進国と途上国の「差異」の取り扱い

 これまで地球温暖化をめぐる国際交渉で、一貫して最も鋭い対立点となってきたのは先進国と途上国との責任や役割の「差異」を、どのように取り扱うかでした。現在の温暖化の主要な原因は先進国が過去に排出してきた温室効果ガスにありますが、いまや排出量の過半を占める途上国の行動なしに地球温暖化は防げませんし、途上国同士でも発展段階に大きな差があるからです。

 そこでパリ協定は、先進国と途上国の二分論を回避してすべての国に等しく行動を求める一方、先進国には「国別絶対排出量目標」を達成する率先した行動を、また途上国には「削減努力の強化」に加え発展段階に応じ徐々に先進国並みに排出削減行動を引き上げてゆくことを促すことで「差異」に配慮。また、資金供与の問題でも基本的には先進国が義務を負いつつ、途上国でもその準備がある国には積極的な協力を求めるなど、きめ細かにかつ動的に「差異」を入れ込むことで双方の合意にこぎつけています。


  4、COP21の評価と日本の課題

 京都議定書に続く地球温暖化対策の枠組みは本来、2009年にコペンハーゲンで開かれたCOP15で合意する予定でしたが失敗、その教訓を活かし6年の周到な準備を積み上げてようやく今回のCOP21で世界の合意に至ったのでした。

 採択されたパリ協定は、気候変動を防ぐために必要な行動を法的拘束力ある義務として世界に課すことこそできませんでしたが、なによりも世界の全ての国がこの枠組みに参加することで合意し、さし迫る地球規模の破局に対し人類があきらめず、克服するためのシステムを作り出した点で歴史的な意義があると評価できます。

 これは、現に地球規模で激化する異常気象を前に、米中を含め世界のリーダーが「もう後がない」という認識で一致していたこと、EUはじめ多くの国々と経済界が前向きな合意形成に向け積極的なイニシアティブを発揮したこと、そして議長国フランスの高い外交力の賜物です。、

 パリ協定を受け日本には、京都議定書の義務達成を目的とした「地球温暖化対策の推進に関する法律」を改定するか新法を制定するなど国内法を整備するとともに、協定で合意した長中期の目標に沿うとともに世界の趨勢に後れを取ることがいないよう、早期に脱炭素社会を建設してゆくための社会経済戦略の策定を急ぐことが必要です。

 私たち市民にも、脱炭素社会を展望した地域社会づくりへの関与やライフスタイルの転換など、これまで取り組んできた地球温暖化防止活動を一層強化することが求められるでしょう。歴史的なパリ協定は、そうした草の根の活動が人類の未来を開くことにつながることを示す希望の光ともいえそうです。