都議選の結果が出た。小池都知事が率いる都民ファが地すべり的に圧勝し、安倍政権の国政私物化に加えハゲの恨みも買った自民党は壊滅的な敗北、政界のヌエ公明は落ち目の自民を見限り小池に擦り寄って卑しく前回同数の全員当選を果たした。一方、共産は反自民反小池の覚めた世論の受け皿となって議席を増やし存在感を示した。また消滅が懸念された民進も最終的には5議席を確保して踏み止まった。(以下の表はNHKのサイトからの転載です)

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  「ハゲの恨み」はまあ置くとして、この結果を招いた最大の要因が安倍自公政権の奢りと腐敗、国政私物化に対する国民的な怒りであることは明らかだ。ただ、事前に予想されたとおり、その怒りは本質的に自民党の一派閥に過ぎない都民ファにほとんど吸収されてしまい、政治的には消化不良の結果となってしまった。

 小池百合子という政治家の本性は、思想的には極右イデオロギーとレイシズムの、行動原理としてはポピュリズムとマキャベリズムのそれぞれ複合体である。詳しく紹介する余裕はないが、現行憲法への嫌悪感は強烈で改憲どころか廃憲を主張するウルトラ右翼ぶりだし、在日朝鮮人学校への公立学校並みの補助金支給を停止するなどその差別体質は際立っている。つまり思想的には安倍晋三に非常に近い。だが、安倍に比べれば頭が良い(安倍より頭が悪い人を探すというのもなかなか難しい課題だとは思うのだけれど)ので、それを女性であることもしたたかに利用して巧妙に隠しているだけだ。

 そうした意味では、こうした排外主義的右派イデオロギー勢力が日本を代表する首都東京の議会で、選挙前の自民57+公明22+都民ファ6=85(もちろんこれでも充分多いのだが)から自民23+公明23+都民ファ55=101に増え、議員総数127の実に8割近くを占めるに至ったのだから、こうした選択をした都民の圧倒的な部分は自覚していないだろうけれど、これはこれで実は大変なことなのだ。

 とはいえ、これが歴史というものなのだろう。世の中をひっくり返すコペルニクス的転回のごとく革命的な国民の政治的覚醒など、そう簡単には起こらない。我々総体としての国民はなお、ソフトイメージを振りまく小池のマヌーバーを見破るほど成熟してはいないのだ。

 だが今回、このようにメディアがこぞって煽り立てる小池旋風の暴風の中で、それに吹き飛ばされず2議席とはいえ共産党が着実に議席を伸ばしたことは実に大きい。NHKの出口調査の結果(他のメディアの出口調査も同傾向)によれば、無党派層の投票先は都民ファ40%に続き共産党が16%で、1位との差は大きいが自民党の13%を抑えて2位につけている(民進は9%で4位)。

 相変わらず腰の座らない民進のふらつきがなんとももどかしいが、これは反原発や戦争法反対のデモをきかっけに生まれ、院内外で成立した市民と野党連合の共闘が愚直に積み上げてきた行動が、変革のエネルギーとして確かな実りを上げつつある何よりの証左といえよう。前途はなお遼遠だが、その道は間違ってはいないのだ。





 今日は東京都議選の投票日、和歌山県議選と同じレベルの地方選挙のひとつに過ぎないがこれまで常に時代の空気を敏感に反映してきたこともあり、その結果が国政に与える影響は大きい。安倍自公政権の腐敗した本質がようやく広く認知されようとしているだけに、今夜の開票結果が注目されるところだ。

 さて、その安倍自公政権の乱脈腐敗ぶり。最近報じられたのは豊田真由子衆院議員の秘書に対する暴言暴行、稲田朋美防衛大臣の「防衛省、自衛隊、防衛大臣としてもお願いしたい」という都知事選での違憲違法応援演説、下村博文衆院議員・自民党東京都連会長が文科大臣当時に加計学園からヤミ献金を受け取ったとされる疑惑などなど、まさに底なしの様相だ。

 これらのエピソード、コトの重大さからランキングすればなんといっても自衛隊を私兵視していたとしか思えない稲田防衛相の発言がダントツに重大で、加計学園と安倍内閣の癒着を重ねて裏書した下村元文科相のヤミ献金疑惑がこれに続き、豊田議員の発言はこれらに比べれば被害が小さく、要するに個人の資質の問題に過ぎないと等閑視されそうなものだが、都議選への影響という点から見ればこれがもっとも大きいのではないかという。

 豊田議員の暴言は確かに衝撃的だ。自分自身、相当長い人生を生きてきたのだけれども、あのように聞いて胸が悪くなるほどの汚く下品な罵倒の言葉を、ヤクザ映画や漫画などのフィクションではなくリアル社会の言葉として聞いたのは初めての体験だった。「おぞましい」の一語に尽きる。報道によれば、子どもたちがこの罵声を真似ているそうだ。陰湿なイジメの語彙を増やしたかもしれない。まことに罪深いことだと思う。

 このエピソードが東京都の有権者の意識に最も大きな影響を与えているとすれば、それはこの暴言暴行が他のエピソードに比べはるかに分かりやすい「悪」であることと、あまりに一般社会の常識を超えるある種の凄さが要因だろう。稲田の嘘つきや馬鹿さ加減は周知のことだし、下村のヤミ献金と加計学園への優遇もありそうなことだ。これらは要するに常識の範囲内だが、豊田の暴言暴行は遥かにブッ飛んでいる。マスコミが繰り返しあの聞くに耐えない暴言のテープを流すのは、珍奇性で視聴率を稼ぐ業態としては当然のことだ。

 さて、豊田の暴言に貫かれている思想は自らを選ばれたエリートと考える一種の選民思想である。秘書などはエリートの使い捨ての道具、もう少しましに表現しても自らに奉仕する奴隷に過ぎない。極度に肥大化した自己像、他者認識の欠如ないしは蔑視、そこから派生する全体としての非人間性。だが、これは豊田個人の資質的欠陥によるものだろうか。もちろんそうではない。これこそが安倍政治なのだ。

 特権階級たる安倍とその取り巻きたちは超法規的存在であって、法を犯そうが行政を歪めて国家財政を食いものにしようが、さらにはあろうことか強姦に及ぼうが咎められることはなく、逆にそれを諌めようとする籠池氏や前川元次官は御用メディアや検察権力を動員して攻撃する。検察警察権力が政府の道具である実態を見慣れている稲田が、その粗雑な脳みそで自衛隊を自民党の道具と認識することに何の不思議もないし、下村が身内の加計学園に便宜を図る見返りにカネを貰うのになんら痛痒を感じないのも当たり前のことになる。まして、秘書の人格など何ほどのものか。

 要するに、豊田真由子の暴言暴力は、いわば安倍政治の本質を誰の目にも見える形でわかりやすく示したエピソードなのだ。東京都の有権者がこれに最も敏感に反応したとすれば、それは有権者の感性の健全さを示したものと言えるだろう。一方、小池都知事と都民ファーストなる会派が自民党の別働隊に過ぎないことを見破るのは遥かにむつかしい。ともあれ、今夜の結果を待ちたい。




 昨日、文科省が「総理のご意向」「官邸の最高レベルが言っている」などと記されたいわゆる加計文書について再調査することを表明した。朝日新聞のスクープ、それに続く前川前文科省事務次官の証言、さらに文科省内からの匿名の告発を受けてすら、カエルのツラにションベンそのままに菅官房長官はシラを切ってきたのだが、ここにきてついに与論の怒りに抗しきれなくなったということだろう。

 その再調査の手法も期間も明らかでなく、これまでの安倍政権の行状から見て公正な調査が行われるとは到底思えないが、ともあれ舞台は第二幕に移った。これからはこの調査ついての報道が増えるだろうが、しかし問題の焦点はあくまで安倍らによる国家行政の私物化にある。安倍晋三記念小学校をめぐる疑惑も未解明だし、安倍ヨイショ本を書く売文屋がそれゆえにというべきか、準強姦罪で逮捕状が出ていたにも関わらず執行されず放免されたという放置国家にありえない無法の背景も解明されなければならない。

 お隣の韓国では国政を私した大統領を民衆が巨大なデモのうねりで権力の座から引きずり下ろした。サッカーでも市民運動でも韓国の民衆の血は熱いのだ。隣接する大国に対し民族の自立を維持するため突っ張ってきた歴史か、それとも毎日摂取する大量の唐辛子のせいなのか、不公正に対する激しい怒りの背景に何があるのかは知る由もないが、これに比する日本のメディアや民衆の静けさというか大人しさは、まあ行儀が良いとは言えるかもしれないが民主主義の担い手としてはいささか心もとない。なぜ腹の底から怒らないのか。

 このあたりは、「POST TRUTH」でまた書くとして、とりあえずは「紀峰の仲間」に連載中のコラム「植物百話」の最新号を以下に転載。今回のテーマはマツです。




  植物百話

        マツのストレス耐性戦略


 重いザックを背に黙々と登り続けてようやく尾根に出る。ホッと息をつき汗をぬぐいふと気付くと周りは明るい松林。登山者なら誰でも経験したことがある情景です。日頃からなじみ深いマツですが、植林地を除けば山麓の暗い樹林帯にはほとんどなく目にするのはもっぱら明るい尾根に出てからです。また、日本の林業では昔から「尾根マツ谷スギ中ヒノキ」といって、マツは尾根に植えるものとされてきました。どうしてなのでしょう。

 「適地適作」といいますが、植物にはそれぞれ生育の適地があります。で、マツの場合は尾根が適地、か?というと、そう単純な話ではありません。マツは本来、よほどの湿地でなければ中腹でも谷でも良く育つのです。現に東北でよく見かけるアカマツの植林地は結構山裾まで広がっています。しかし自然状態では、他の多くの樹種にも適地である中腹以下は生存競争が厳しいため競争力に乏しいマツは撤退、やむを得ず生育条件の悪さから他の樹種が見向きもしない尾根や岩場などに張り付いて生き延びているのが実情なのです。

 マツが生育する尾根や岩場は、植物に不可欠な水が不足するうえ季節風に晒されて乾燥しやすく、また土壌中の養分が雨水とともに下部に流出して栄養条件も良くないなど、植物の生育に不利な条件が揃っています。しかしそれゆえ競争相手も少ないことから、あえてこうした悪条件の地に根を張ることで厳しい生存競争を生き延びてきたマツのような植物もあり、こうした生き方を専門用語で「ストレス耐性戦略」と呼びます。

 では、マツは前述のような植物生育上の悪条件=ストレスをどのようにして克服しているのでしょうか。実は、多くの菌類の助けを借りているのです。

 太古、植物が陸に進出するには菌類の助けがあったとされ、現在も多くの植物は根に菌類を住まわせて光合成産物を与える一方、菌類が土壌中に広く張り巡らせた菌糸で集めるリンなどの養分や水分の供給を受けています。マツの祖先を含む裸子植物が地上に出現したのは3億6千万年前で、現世界の主役である広葉樹など被子植物が出現する1億4千万年前より遥かに古く、この長い時間にマツは広葉樹などに比べはるかに多くの菌類と共生関係を取り結んできました。というか、マツと菌類は共に進化し分化して今日のように多様な共生ネットワークを築き上げたのです。キノコは菌類の花に相当する器官ですが、松茸や松露(ショウロ)などマツのみに付くキノコの多さからもそれが知れるでしょう。

 マツはこのようないわば「菌友(きんとも)」の多さを武器に他の樹木は生きられない荒地で生き延びてきました。それは山だけでなく海岸も同じです。「白砂青松(はくさせいしょう)」は日本的絶景の代名詞で、これは海岸の砂地や岩礁にクロマツがしぶとく根を張ればこそ成立した景観ですが、人手が入らなければ維持できないことはご存じでしょうか。現在、白砂青松を賞される美しい海岸の松林の大半は人工林なのです。

 人手が入る前、本州以南の暖帯地の海外線はタブノキやスダジイなどを主力とする照葉樹林に覆われていました。そこへ人が進出し、建材や生活具材や燃料としてこれらの木々を伐採利用し尽くした結果、土壌の生産力が枯渇し、不毛となった荒地でも生きられるクロマツが進入、また一方では防風林や防砂林として植樹するにもクロマツ以外の選択肢はなくなってしまったため、現在に至る白砂青松の景観が人工的にも造成されたのです。

 荒地に根付いたマツは「菌友」の助けと光合成で伸び育ち、葉や枝を落としやがて命尽きて土に帰ってゆきます。それが繰り返されると土壌の豊かさが徐々に回復して他の樹種が侵入、やがて競争力のないマツは衰退し消えてゆくのが自然の遷移システムです。

 今は流行らないでしょうが、結婚前の結納という儀式では新婦側からの結納返しの品のひとつに「高砂」というものがありました。熊手を持ったお爺さんと箒を持つお婆さん二体セットの人形で、お爺さんは尉(じょう)お婆さんは姥(うば)といい「おまえ百(掃く)までわしゃ九十九まで(くまで)」と夫婦の円満長寿を祈念する寓意が込められています。が、夫婦仲はこの際どうでもよくていま問題はこの二人が何をしているのか。実は二人は播磨の高砂浜の松林で熊手と箒を使い、燃料にする松葉や枯れ枝をかき集めているのです。

 かつて、油分が多いマツは庶民の家庭の燃料として貴重でした。当時の庶民に白砂青松を愛でる余裕や審美眼があったかわかりませんが、尉や姥のような人々が生活のためクロマツの幹から葉に至るまでをせっせと運び出し続けた結果、松林の土壌の生産力は回復せず他の樹種の進入が防がれて、意図せず白砂青松の景観も維持されてきたわけです。

 逆の例も紹介しましょう。明治維新の主役の一人大久保利通は東京遷都後の京都を訪れた際、平安時代からの景勝地であった嵐山の荒廃に驚き、その理由を尋ねて地元民から「ご一新のせいだ」と言われて恥じ入ります。幕府の京都守護職は嵐山の歴史的景観維持のために山守を雇う金を出していたのに、維新政府はそれを打ち切っていました。反省した大久保が金も出して嵐山の保護に努めた結果、現在の嵐山の景観が形成されたといいます。

 と、嵐山関連サイトではこの話がよく紹介されているのですが、実際にはそう単純な復活美談ではなかったのでは? というのは、大久保が守ろうとした歴史的景観は端正に整美されたアカマツ林だったと思われるからです。京都周辺の山林は平安朝以降長らく都であった京の膨大な木材需要でことごとく皆伐され禿山となっています。保津川を経由する丹波材の大集散地であった嵐山が例外であったはずはありません。そして禿山には荒地の主役アカマツが生え、庶民が枝や松葉を採取し続けることでそれが維持されていたのでしょう。しかし大久保らは嵐山の景観を守るため庶民が山に入ることを固く禁じました。その結果、皮肉なことにアカマツ林は壊滅、これに代わって落葉広葉樹が進出して現在に見るような紅葉の名所になってしまったわけです。ま、「結果オーライ」というべきかもですが。

 マツについても共生する菌類についてもまだ書きたいことが沢山ありますが、紙幅も尽きましたので今回はここまで。今回は、広葉樹ら進化した若く強いライバルたちの出現と猛攻撃に対し、旧世代のマツが菌類との支え合いを頼りに生き延び、絶滅を免れて今ここにある不思議を、少しでも感じてもらえたらと思います。




  また長らく更新できずに時間が過ぎてしまいました。この間、初めて出品した展覧会があり、それに忙殺されたうえに体調を崩してしばらくダウン、さらに自分の病気の原因が住居にあるのではないかとの疑いが強まったことから、医師とも相談のうえ、急きょ転居することになってバタバタしてしまいました。

  自分の病気は特発性間質性肺炎の一種であるNSIP(=特発性非特異性間質性肺炎)である可能性と、過敏性肺炎である可能性があり、いまだ病名も定かにはわからない状態なのですが、入院すると体調が良くなり帰宅すると悪化することから、幸い現在居住中の自宅とは別に以前住んでいて今は空家になっている持ち家もあることから、ダメ元でそちらに移動することになったものです。現住居とその家とは直線距離で100mほどですから、移動自体は容易です。とはいえ、一時的にせよ住むとなれば最低限の電気器具や家具もいりますし、家自体に手も入れなければなりません。ということで、知らず知らずのうちに時間が経過してしまいました。

 が、これだけ間延びすると、西郷隆盛の続きもちょっと白けてしまったなあ。(~_~;) 
 ま、これはこれでいずれなんとか決着をつけるとして、とりあえずは紀峰山の会の機関誌に連載している巻末コラムを以下に転載します。今回のテーマはクスノキ。今はちょうどクスノキの新緑が鮮やかに美しい季節ですね。


 植物百話

クスノキの話

 嬉しいことに、県連ニュースに転載したこのコラムにハガキで感想が寄せられ、加えて「次はクスノキ」について書いて欲しいとのリクエストがありました。そこで、今回はこのリクエストにお応えしようと思います。

 たしかにクスノキは私たち紀州人には馴染み深い樹木です。神社仏閣や学校、街路樹にもふんだんに植えられていますから、一歩外に出ればこの木に出会わずに過すことはないほどです。新宮出身の詩人佐藤春夫も望郷五月歌のなかで、「海(わだ)の原見廻かさんと、のぼりゆく山邊(やまべ)の道は杉檜樟の芽吹きの花よりもいみじく匂ひ」と、杉や檜と並べて樟(クスノキ)の新芽が花より強く香る「空青し山青し海青し」紀州五月の情景を見事に歌い上げています。このクスノキの匂いの成分が樟脳で防虫効果があることが知られ、また鎮痛剤としても利用されました。クスノキの名はこの匂いから「臭(くす)し木」と呼ばれたこと、あるいは「薬の木」と呼ばれたことが語源と言われています。

 と、ことほどさように慣れ親しんでいるクスノキなのですが、実は外来種だってことはご存知でしょうか。クスノキの元の自生地は台湾やベトナムなどの暖地で、日本列島にはそこから人為的に持ち込まれたものと思われます。といっても入ってきたのは有史以前のこと(専門用語では「史前帰化植物」といいます)ですから、お米同様すっかり馴染んで久しいのも頷けますが、寒がりのクスノキにとり日本の気候はやや厳しいようで、それこそ前述の宗教施設をはじめ、人の助けが得られる所や里山では育つものの、暖かい紀州や九州ですら奥深い山中に自生している例はまずありません。ですから天然照葉樹林の代表的樹種とはいえず、どちらかというと人とともに暮らす園芸樹のような趣すらあります。

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 では、有史以前から今日に至るまで、人々はなぜこのクスノキを好み列島に広げていったのでしょう。ひとつの有力な回答はその巨大さです。クスノキは日本で生育する樹木のうち最も大きく育つもののひとつで、日本の巨樹ベストテンのうち9本までをクスノキが占めています。なかでも日本の全樹木の頂点に立つ巨樹は鹿児島県姶良郡蒲生町の八幡神社にある「蒲生(かもう)の大クス」で、胸高樹周24m(根周40m)、樹高30m、推定樹齢1500年。幹の下部は朽ち八畳間大の空洞があります。「となりのトトロ」のねぐらはきっとこんな所だったのでしょうね。その巨大さを知るよすがとして、不肖ワタクシが実物を現場で写生した絵(F6号)を上に掲載しておきます。

 一方、和歌山県最大の樹木もかつらぎ町笠田東の妙楽寺にある樹周13.4mのクスノキで、「十五村(じごせ)の森」と呼ばれています。国道24号線で通過する笠田小学校の真裏(北)にありますので、機会があればぜひ立ち寄ってみてください。ちなみにこの木は近畿地方全体でもナンバーワンの巨樹、全国では43位にランキングされています。

 発掘された古代の丸木舟の遺物からは、その素材がクスノキであったことがわかっています。樹木を板に加工しさらに貼り合わすような技術が未発達の時代、丸木舟の大きさは原料木の太さに全面的に負っていたわけで巨大なクスノキは貴重だったことでしょう。古事記では、この列島に樹木を植え広げたスサノオノミコトが人々に向かい、「浮く宝にするクスも大量に植えたぞ」と語っています。この「浮く宝」とは船を指しますが、もしかしたら南洋からクスノキの丸木舟で渡ってきた海の民が、子孫が船を造るのに困らないようにとクスノキをこの列島に植えたことを神話の形で伝承しているのかもしれません。

 クスノキは常緑樹ですが、葉の寿命は1年しかなく春に新葉が開き始めると前年の葉は一斉に落葉します。秋に葉を落とす落葉樹とは異なり冬を越しはしますが、一斉に葉が世代交代するという意味では落葉樹に近い面もあるわけで、麦が実る初夏を「麦秋」と呼ぶことがあるなら、「楠秋」というのもあっても良いような・・ さて、そのクスノキの葉は主脈とその根元から両側に伸びる側脈が明瞭で、これを「三行脈」と呼びクスノキ科の樹木を見分ける際の拠り所としているのですが、よく見るとこの三行脈の分かれ目などに小さな膨らみがあります。これを「ダニ部屋」(またはダニ室)と呼び実際ダニが住んでいます。

 ダニ部屋はダニが勝手に住み着いてできるのではなく、クスノキが作ってダニを住まわせているのですが、なぜこんなことをするのでしょう? これについては定説がありません。そこでまず一説、ダニ部屋に住むダニは植物食のダニが多いのですが、これがだんだん増えてダニ部屋の外に溢れ出すと、肉食のダニがこれを捕食しようと現れ、ついでにクスノキを害する他のダニも駆除してくれる。つまり、肉食のダニを呼び寄せて利用するため撒き餌のダニを飼っているという説です。もう一説は一網打尽論というか、有害な植物食のダニをダニ部屋に集めておき、秋には部屋の出入り口を閉ざしやがて一斉に落葉させることで、被害を最小限に抑えているという説です。多くの研究者がこのダニ部屋の秘密に挑んでいるのですが、こんなに身近な植物でもまだわからないことだらけ。さて、クスノキは巨体の葉を柔らかな風に揺すらせながら、いったい何を考えているのでしょうか。




 昨日4日夜、韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦像が設置されたことへの対抗措置として、安倍内閣が一時帰国させていた長嶺駐韓国大使が約3か月ぶりに帰任した。もう重ね重ねだが、安倍内閣の無能ぶりというかガキぶりにはつくづく呆れ果てる。韓国側に問題がないとは言わない。だが何があったにせよ、大使を召喚するなどという、外交関係を長期に損ないかねないリスクの高い手法に訴えるのであれば、当然のことながら事態収拾への見通しや、そのための外交折衝などの目算が立っていなければならない。

 だが、この安倍晋三ボンボンとそのイエスマンだけで構成されたガキ内閣に、そんな見通しなどあったようには思えない。単に頭に血が上って、腹立ち紛れに考えられる限りで最大の強硬措置を取っただけだ。で、思うのだが、日本がこんな強硬な態度を示せば、韓国の官民は水戸黄門の印籠を見せられたごとく恐れ入って平伏するとでも思っていたのだろうか。結果は、韓国側は朴大統領の罷免をめぐる大騒ぎもあってそれどころでなく、まあ日本の駐韓国大使などいてもいなくても関係ないという身も蓋もない外交実態が明らかになっただけ。で、振り上げた拳のやり場に困り、何の成果もなくしれっと大使を戻したというのが昨日の措置だ。

 冷静な情勢分析もそれに基づく理詰めの戦略や戦術もなく、まして最悪の状況を想定しての事態収拾への考慮もなく、ただ怒りに任せて行動する。それは頭の悪さと自信のなさの表れにほかならないが、それこそが安倍晋三の実像だ。森友学園問題でそれまで拒んでいた民間人の国会への参考人招致を、鴨池氏が安倍サイドからの寄付を口にしたとたん激昂して参考人どころか証人に格上げて国会に招致したものの、その証人喚問では籠池氏を呼んで何を質すかの作戦すらなかったことが明らかになった。この策もなく激昂して行動する無能ぶり、暴支膺懲(ぼうしようちょう)といい鬼畜米英を叫んで開戦し、この国を破滅させた歴史を彷彿とさせるものがある。A級戦犯の祖父から受け継いだDNAというべきか。

 さて、歴史の話題が出たところで、久しぶりに明治維新の話の続きだ。明治維新政府は日本の資本主義化を上から急速に進める政策を推し進めていたが、その煽りで特権を失った氏族層や地租改正による「日本型原始的蓄積」により窮乏化する農村では不満が鬱積、さらにこれを顧みない政府官僚の腐敗が負け組の怨念を増幅させていた。

 このとき維新最大の功臣であった西郷隆盛は政府を去ってすでに下野していた。西郷の下野について、日本史の教科書では「征韓論に破れ」というストーリーが必ず出てくるのだが、よく誤解されるように西郷が好戦的な韓国征伐を主張し、それに反対する勢力に敗れたというのではあたらない。深入りする余裕はないのだが、先進国による植民地支配が当たり前だった当時、西欧列強に追いつこうとしていた日本として、まず隣の朝鮮半島に食指を伸ばすべしというのは西郷を含め明治政府首脳部の共通認識であり、現に西郷が下野して直後の江華島事件で朝鮮半島進出への橋頭堡を確保している。西郷の主張は、日本からの開国の呼び掛けを断る韓国攘夷派に対し自ら使者として赴き説得することにあった。だがその主張は退けられ、ではもう自分には果たすべき役割はないと西郷は鹿児島に帰ってしまったのだった。

 だが、西郷の帰郷にはもとより予定の行動という意味もあった。西郷は薩摩藩から二度にわたり島流しの憂き目に遭っているが(ただし一度目は処分に見せて藩が幕府から西郷を匿った面もある)、奄美大島での農民としての暮らしは西郷の気に入ったようで、藩からの呼び出しを受けて江戸末期の動乱に加わるため島を出る際に、用が終わればそこに戻る旨を告げている。もともと農業農民への愛着は、藩の過酷な農政に異を唱えて辞職する気骨の上司に導かれ、郡方書役助という農政末端から藩士としての歩みを始めた西郷にとり、心中深く根付く思いだった。

 西郷は直接島に帰ることはなかったが鹿児島に戻って私塾を開く一方、自分自身は半分隠居したような生活を送る。その塾生たちが西南戦争では西郷の軍となるのだから、結果としては武装蜂起の準備をしていたと考えることも可能なのだが、当時の青年層の教育に軍事教練は当たり前の教程だったのだから、そのあたりの評価は微妙ではないかと思う。ただ西郷が中央の政官界と完全に縁を切っていたことは事実だ。一方、朝鮮出兵が遠のいたことで特技である武術を活かしての再就職の希望が絶たれた不平士族は各地で騒乱を起こし、また重税に反発する農民の蜂起もあって、まだ安定するに至らない維新政府の足元はおぼつかなくなってきていた。(続く)



 今日の絵は「法隆寺」。後藤純男氏の日本画の模写です。用紙はウオーターフォードF6

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