また時間が無為に経過。というか、この間、またも結構長期間入院することになり、おかげでまあ、時間は有り余るほどあったのですけれど、文章をつづるような気分にはなかなか・・・  入院するくらいですから病状はあまり思わしくはないのですが、生来ほんと気楽な性分ですので、別に落ち込んでいるわけではありません。 でもねえ、文章を書くってそれなりに気力が充実していないと難しいんですよねえ。 というわけで、とりあえずはまた植物の話。 以下、 『紀峰の仲間』に連載中のコラムです。


植物百話 9

    「山眠る」季節の椿と山茶花

 歳時記に冬山を評して「山眠る」という季語が収められています。中国北宋時代(11世紀)の山水画家「郭熙(かくき)」の息子「郭思(かくし)」が、偉大な父の理論や言葉をまとめた画論集『林泉高致集』にある「冬山惨淡として眠るがごとく」が、この季語の起源といわれています。さて、ここで「惨淡」は日本語ではまず使わない言葉ですが、「薄暗い」とか「うら寂しい」といったニュアンスの漢語。しかし、まぶしく輝く白銀の山稜にも風雪が荒れ狂う尾根にも、さらには葉をすっかり落としてやたら明るくなった低山にも、「眠る」なんてイメージは全くありません。

 中国の冬山、雪こそ日本の豪雪地に比べれば少ないでしょうが、その姿が日本とそう違うようにも思えません。郭煕は先の画論集の「山水訓」の項で「自然を理解する最良の方法」について述べ、「自らこの山に遊んで観察すること、そうすれば山水の姿がありありと胸中に展開する」としており、実際、自身山中に良く遊び、山や自然の姿やその摂理に深く通じていたと伝えられています。まあ、我らと同じ部類の山好きだったのでしょう。してみると、その山に詳しい郭熙があえて「山眠る」の言葉で表現し主張したかったのは冬山そのものの有様というよりは、冬山を筆で水墨の世界に再現して描くメソッドというか定石や心得といったものだったのではないでしょうか。

 私たち山屋が「山眠る」の言葉で思い浮かべるのは冬山自体ではなくむしろ、冬の山における生命の営みの静けさでしょう。冬山では多くの動物が姿を隠して冬眠し、植物は雪に埋まるか多くは葉を落とし、また常緑樹でさえも光合成を止めて、ほとんどの植物はまさに休眠しています。いずれも、厳しい寒気や乾燥への生命体として懸命の適応であり、その適応がやがて歓喜の春に繋がってゆくのですが、それまでを沈黙のうちに耐えしのぶ姿はまさに「眠る」の表現がぴったりです。

 さて、そんな生命感に乏しいこの時期、紀州など雪のない低山で鮮やかに開花して生命を主張するのが椿(正確にはヤブツバキ)ですが、このツバキを山茶花(サザンカ)と識別するのはなかなか難しい。いずれもツバキ科ツバキ属で赤い花も葉もそっくりです。ちなみに学名はツバキが「Camellia japonica」でサザンカが「Camellia sasanqua」。「Camellia」はツバキともサザンカとも訳されますので、直訳すれば前者が「日本のツバキ」、後者は「サザンカのツバキ」又は「サザンカのサザンカ」って訳のわからないことに。まあ、学名にも互いがそっくり似ていることが反映しているのでしょう。

 ごく常識的な話をすれば、サザンカが咲くのは10月から2月、一方ツバキは12月から4月ですので、10月から11月に見るのはサザンカ、3月以降に見るのはツバキと判定して良さそうですが、両者がダブる12月から2月は何らかの方法で識別する必要がありますし、カンツバキといって真冬に咲くツバキもあれば春に咲くサザンカの品種も出回
っていますから、開花時期だけで最終判定はできそうにありません。その園芸品種、サザンカでざっと300種、ツバキはなんと6000種に及ぶといいますから驚きです。

 とはいえ、よく似た花もよく観察すれば違いがあります。ひとつは雄しべのつき方で、ツバキの雄しべが根元で合着しているのに対し、サザンカのそれは分離しています。もっと詳しく調べるとツバキの子房は無毛ですが、サザンカの子房には毛が生えていることがわかります。従って子房が成熟してできる実も同様、ツバキは無毛でサザンカには毛が生えています。またツバキは花がひとまとめにボトッと落ちるのに対しサザンカは花びらが一枚一枚散ってゆきます。ですから、花さえ落ちていれば識別は簡単です。

 さらに次の手段として葉に注目。ツバキの葉はサザンカより一回り大きく、肉厚で光沢があります。ツバキの語源は「厚葉木」(アツバキ)とか「艶葉木」(ツヤバキ)いわれるほどです。またサザンカの葉は鋸歯(葉の周りのギザギザ)が鋭く、葉の付け根や若枝には毛が密生しています。さらに太陽にかざしてみると、ツバキの葉脈が黒く見えるのに対しサザンカは白く見えます。花より葉のほうが識別は容易かもしれませんね。ついでながらサザンカの語源は、中国で山で生える茶の木を意味した山茶花をサンサカと読むべきところ、次第に「ン」と後の「サ」が倒置して発音されていった結果だそうです。

 そして最後の識別ポイントが匂い。サザンカの花の香りは甘く強烈ですが、ツバキの花はほとんど匂いません。さて、なぜでしょうか。サザンカの咲く時期、昆虫はまだ活動していて、足早に迫る厳しい季節を前に越冬準備に余念がありません。多くの花が受粉を終えて競争相手が減った森で、遅れて咲くサザンカはそうした昆虫に真っ赤な花と芳香を放ち、花粉を媒介してくれる昆虫たちを呼び寄せているのです。

 しかしツバキが咲く頃にはもう、受粉を任せられるほど昆虫はいません。そこでツバキは昆虫を頼りにすることをやめ、花粉の媒介を冬鳥に頼ることにしたのです。鳥類にも嗅覚はありますが、しかし何と言っても鳥類の最有力の感覚器官は視力です。例えば猛禽類の視力ですが、東京から富士山を見れば山小屋まで識別できるほどとか。彼らはこの驚異的な視力を武器に遥か上空から地上の小さな獲物を発見しているのです。となれば、真紅の色で花があることを示せば十分、重ねて匂いまでサービスする必要はないというのがツバキの考え方なのですね。その代わりツバキは、昆虫より重い鳥が留まっても壊れないよう、根元でしっかり合着した大きな花をつけるのでしょう。
 
 全部が全部というわけでもありませんが、生物の生き方や姿にはだいたい、そうなるだけの理由があります。サザンカが他の花が絶えた時期に開花するのもツバキが匂いのない花をつけるのも、長い進化の過程で獲得した独特の生存戦略であり、それが有効であったればこそ両者は今日の繁栄に至ることができたのです。そう思って見直してみると、身近な周囲の自然にも多くの驚異が潜んでいることを発見できるはず、そんな不思議の宝庫である山を、ただ一心不乱に登るだけではもったいないとは思いませんか?



 あのトランプ氏が米国大統領に選出された。もちろんトランプなんてホラ吹きのレイシストなどが好きなわけはない。ヒラリーも好きではないがまああのギャグ漫画みたいなトランプに比べればまだマシ、というか政治家としてははるかにマトモだから、この結果は甚だ面白くない。しかし、驚天動地とか世紀の番狂わせとかいうけれど、何度も繰り返された大メディアの世論調査も出口調査もしたり顔の専門家とかの情勢評価も、ことごとく外れたのはむしろ小気味いいほどだ。

 今回の大統領選で考えさせられたのは、事ほどさように「何が起こるかわからん」民主主義という制度について。

 それについて書く前にひとつだけ確認、得票で優ったヒラリーだったが、独特の選挙制度のせいで当選したのは得票数で劣るトランプだった。これは米国の制度が民主主義のシステムとして大きな欠陥があることを示している。だがこの点については、選挙区による一票の価値の大きな格差や3割の得票で7割の議席を掠め取る日本の選挙制度はもっとひどい。そうした意味で、民主主義はこの両国において制度面でなお実現していないのだが、この問題は今回のテーマではないのでここまで。

 といった次第で甚だ欠陥の大きい不十分な選挙制度ではあるのだけれど、ともあれその選挙制度が定めるルールに従ってトランプは大統領に選出された。それで思ったことが二つ。民主主義とはなんと危険なシステムであることか。そして民主主義とはなんと偉大なシステムであることか。

 まず、先にも書いたように大方の予想、あえていえば期待も含めた米国そして世界の想定を、米国の有権者は見事に裏切った。当初は泡沫と思われていたガサツで見るもおぞましい風体の成金のオッサンが、あれよあれよという間に大統領になってしまうのだ。だが、このまったく望まれなかった結果を誰も覆すことができない。王様や教祖が出てきて結果を否定することもなければ、軍がクーデーターを起こして選挙結果をチャラにするミャンマーのようことも起きそうにないし、ウオール街の支配者とかユダヤの闇の政府とか、陰謀論好みのシナリオが威力を発揮した形跡もない。巷に渦巻く無数無名の人々が形作る巨大な意思が最終決定となるのだ。よくよく考えてみれば、これは凄いことではないだろうか。たとえ結果がどうであろうと、ともあれ民衆が最終決定を下しそれが覆らないという民主主義のシステムはやはり偉大だと思う。

 次いで民主主義の危うさ、「たとえ結果がどうであろうと」という点についてだ。ぶっちゃけ、トランプなどという人はそもそも民主主義と相容れない思想のキャラクターなのであって、少なくとも民主国家の首長などになってはいけない欠格者ではないか。参政権の平等はもちろん民主主義の大原則で誰が大統領になろうが自由なはずなのだけれど、それはまあタテマエというものであって、例えば女性を蔑視したり他民族や異教徒や移民を差別したり、民主主義の因って立つ思想を敵視し民主主義を破壊するような人物は民主国家の代表にふさわしくないから、本来、選ばれるようなことがあってはならないのだ。

 しかし、自らを葬る選択も許してしまうのが民主主義というものなのだなあ。そういえばヒトラーだって当時最も民主的と言われたワイマール憲法下で民主的に実施された選挙で権力を握り、民主主義を葬り去った。翻って日本では、安倍晋三や石原慎太郎や橋下徹なんて民主主義の敵を国や地方自治体のリーダーとして民主的に選んでいる。今回のトランプショックは、それと同じことが米国でも起きたに過ぎないんだよなあ。ん~、なんつうか、今回のトランプの件、民主主義を本当に人類の幸福に役立つシステムにするには、まだまだ時間がかかりそうな気がした事件ではあった。もちろん、ガッカリばかりしてるわけじゃないのだけれどね。



 国連は昨日5日、2020年以降の全地球レベルでの地球温暖化対策の新たな枠組みとなる「パリ協定」が、11月4日に発効すると発表しました。昨年12月に採択された同条約発効の条件は、55か国以上の批准とこれら批准国における温室効果ガス排出量が世界全体の排出量の55%を上回ることでした。9月初めに中国で開かれたG20で排出量1位と2位の中国と米国がいち早く批准を表明、3位のインドもこれに続き、さらにEUやカナダ、ブラジルなどが相次いで批准してこの条件を満たしたものです。批准した国はすでに80か国に迫る勢いです。

 温室効果ガスの削減は経済成長の阻害要因となりかねないため、各国の利害が鋭く対立して長らく、包括的な削減対策の合意には至れませんでした。1997年に採択された京都議定書は発効するまでに7年を要したうえ、当時最大の排出国だった米国が脱走するなど泥まみれになってしまいました。それに対し今回はわずか10カ月で発効にこぎつけることができたのです。間違いなくこれは大きな前進です。

 もちろんここに至るまでの各国首脳のイニシアチブは高く評価されるべきです。ですがまたこれは一面、それほどまでに地球温暖化をめぐる深刻な危機が今や顕在化しており、目先の国益を理由に合意を拒むことができなくなったことを反映してもいます。はっきり言って、人類が生き残るために、残された時間はそう長くはないのです。

 国連の潘基文(バンキムン)事務総長は、同日発表した声明で「かつては不可能と思われていたことが今や(動きを)止められなくなった」と早期発効に祝意を示し、批准していない国々に国内手続きを加速するよう促しました。また、温暖化対策に力を入れてきたオバマ米大統領も、声明で「地球を守るための歴史的な日だ」と述べたとのことです。

 一方、温室効果ガスの排出量で世界第5位にランクし、地球温暖化対策で大きな責任を果たさねばならない日本では、現在開会中の国会でも政府は同条約の批准を提案しておらず、安倍総理の所信表明も同条約や地球温暖化には一言も触れませんでした。まあこの政府は要するに、世界が協力して取り組もうとしている人類救済の焦眉の課題に無関心なのでしょう。それどころか、温室効果ガスを激増させる石炭火力発電の新増設を強力に推進するばかりか、政府の音頭取りで積極的に輸出までするというのですから呆れ果てます。

 パリ協定が発効したことを受けて、11月7日にモロッコで開催されることが決まっていた「COP22」=「国連気候変動枠組み条約第22回締約国会議」では、同協定の具体的なルール作りが話し合われることになりますが、現状のまま推移して国会の承認を得て批准することができなければ、当然のことながら、日本にはオブザーバーとしての出席が許されるだけで発言権は与えられません。つまり、今後数十年にわたる地球温暖化対策について、世界のルールを決める最初の最も重要な会合で蚊帳の外に置かれるわけです。

 が、だからといってコジローは、他の環境市民団体の仲間たちのように声を極めて「日本も早く批准しろ」と主張したいわけではありません。COP22に間に合うよう大慌てで批准して、いまの石炭火力&原発推進&そもそも地球温暖化無関心・・というより財界の意を受けて本音では温暖化対策などしたくない安倍内閣が発言権を持ったところで、決して世界の地球温暖化対策を前に進める役割を果たすとは思えないからです。大量の温室効果ガスを出しながらこんな情けない政府を持って、世界の皆さんに対しまことに申し訳なく恥ずかしい限りではありますけれど、それでも口を開いて邪魔をするよりは黙っていてくれる方がまだいい。

 憲法は条約の批准つまり条約に元首が署名して締結することを内閣の職務としていますが、続けて「事前に、時宜によっては事後に、国会の承認を経ることを必要とする」としており、これまでの政府解釈では、その条約を締結することで国内法の整備を要するもの、また新たな予算措置が求められるものなどについては、事前の国会承認が必要としていますので、パリ協定の批准には国会承認が不可欠と思われます。ということで、今の情勢を見た政府が泡を食って、おっとり刀で批准を提案してこやしないかと、実のところひやひやしているのですよ。 ああ情けない!


 今回のブログは以上ですが、このパリ協定についてもう少し詳しく知りたい方は、ぜひ和歌山県が発行する地球温暖化関係情報誌「わおん通信」20号4~5ページに掲載しております特集をご覧ください。ちなみにこの記事は私が書いたものです。

 とはいうものの、同ホームページでは見開きページを無理に分解して載せておりますので、実に読みにくい。ということで、以下に元の原稿を転記しますので、関心のある方はお読みください。少々長めですが、これから大きな話題になること疑いなしのパリ協定やそれをめぐるニュースについて、勘所は間違いなく押さえられると思います。お時間の許す方は、是非ご一読を。


     COP21で何が決まったか
     パリ協定等の主要ポイント

 

 昨年12月12日、フランスのパリで開催されたCOP21(国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議)は、パリ協定とCOP21決定を満場一致で採択し閉幕しました。地球規模での気候変動が広がるなか国益をめぐる深刻な対立を乗り越えて成立した、京都議定書(1997年)以来の法的拘束力ある歴史的な国際合意であり、会場は鳴りやまぬ拍手と感動に包まれたといいます。ではいったい何が決まったのか、そのポイントを紹介します。

  1、温室効果ガス排出削減の目標

 パリ協定は地球温暖化対策で世界がめざす目標を次の三つにまとめました。

 ①長期目標=地球の平均気温上昇を産業革命前の水準より
2℃よりはるかに低い水準に抑え、1.5℃に抑制する努力をする。
 ②中期目標=そのために、可能な限り早期に世界の排出量を
頭打ちにし、その後速やかに減少させる。
 ③中期目標=今世紀下半期に温室効果ガスの人為的な排出と
人為的な吸収をバランスさせる。

 長期目標として、国際条約に具体的な数値で温度目標が書き込まれたのは初めてです。また、海水面上昇で消滅の危機に直面する小島しょ国の切実な訴えを受け1.5℃目標にも言及したことは画期的です。これを受けCOP21決定は世界の気象学者らで作るIPCC(気候変動に関する政府間パネル)に対し、1.5℃上昇に食い止める温室効果ガス排出経路等についての特別報告を、2018年に提出するよう招請しました。

 この長期目標を達成するための②と③の中期目標では「排出中立化」を明記しました。これは、森林吸収やCO2を回収貯留技術(CCS)など人為的な吸収も活用しつつ、2050年以降は差し引きでの人為的排出をゼロさらにはマイナスにすることを意味します。この目標は世界が早期に化石燃料依存の社会から卒業しなければならないことを意味しており、石油石炭文明に代わる新しい文明への転換宣言とも評すべきものです。


  2、各国目標と定期的な見直し

 目標を達成するためには、各国の国別約束(排出削減目標や行動)で目標が裏付けられなければなりません。先進国だけでなく途上国もこぞって、この国別約束をCOP21に提出したのも画期的なできごとでした。しかし、提出された国別約束は全体として2℃未満の長期目標を達成するには大きく不足しており、また京都議定書のような罰則付きの義務化は抵抗が強くてパリ協定には盛り込めず、自主目標として条約事務局が登録簿を作成するにとどまりました。

 しかしその代わり、各国は現在の国別約束を見直し引き上げたものを5年ごとに提出して長期目標に比べ十分かの評価を受けるとともに、それぞれの段階の約束の達成を保障する国内措置をとることがパリ協定で義務付けられました。こうして、自主的でありながら長期目標の達成に向けて各国の取り組みを後退させることなく継続して見直し、強化し続ける仕組みが確立されたのです。最初の評価・見直しは2018年から始められることも決まっています。


  3、先進国と途上国の「差異」の取り扱い

 これまで地球温暖化をめぐる国際交渉で、一貫して最も鋭い対立点となってきたのは先進国と途上国との責任や役割の「差異」を、どのように取り扱うかでした。現在の温暖化の主要な原因は先進国が過去に排出してきた温室効果ガスにありますが、いまや排出量の過半を占める途上国の行動なしに地球温暖化は防げませんし、途上国同士でも発展段階に大きな差があるからです。

 そこでパリ協定は、先進国と途上国の二分論を回避してすべての国に等しく行動を求める一方、先進国には「国別絶対排出量目標」を達成する率先した行動を、また途上国には「削減努力の強化」に加え発展段階に応じ徐々に先進国並みに排出削減行動を引き上げてゆくことを促すことで「差異」に配慮。また、資金供与の問題でも基本的には先進国が義務を負いつつ、途上国でもその準備がある国には積極的な協力を求めるなど、きめ細かにかつ動的に「差異」を入れ込むことで双方の合意にこぎつけています。


  4、COP21の評価と日本の課題

 京都議定書に続く地球温暖化対策の枠組みは本来、2009年にコペンハーゲンで開かれたCOP15で合意する予定でしたが失敗、その教訓を活かし6年の周到な準備を積み上げてようやく今回のCOP21で世界の合意に至ったのでした。

 採択されたパリ協定は、気候変動を防ぐために必要な行動を法的拘束力ある義務として世界に課すことこそできませんでしたが、なによりも世界の全ての国がこの枠組みに参加することで合意し、さし迫る地球規模の破局に対し人類があきらめず、克服するためのシステムを作り出した点で歴史的な意義があると評価できます。

 これは、現に地球規模で激化する異常気象を前に、米中を含め世界のリーダーが「もう後がない」という認識で一致していたこと、EUはじめ多くの国々と経済界が前向きな合意形成に向け積極的なイニシアティブを発揮したこと、そして議長国フランスの高い外交力の賜物です。、

 パリ協定を受け日本には、京都議定書の義務達成を目的とした「地球温暖化対策の推進に関する法律」を改定するか新法を制定するなど国内法を整備するとともに、協定で合意した長中期の目標に沿うとともに世界の趨勢に後れを取ることがいないよう、早期に脱炭素社会を建設してゆくための社会経済戦略の策定を急ぐことが必要です。

 私たち市民にも、脱炭素社会を展望した地域社会づくりへの関与やライフスタイルの転換など、これまで取り組んできた地球温暖化防止活動を一層強化することが求められるでしょう。歴史的なパリ協定は、そうした草の根の活動が人類の未来を開くことにつながることを示す希望の光ともいえそうです。
     




 また長らくブログを更新しないものだから、トップページに懲罰的コマーシャルが掲載されちゃいました。こんな吹けば飛ぶようなブログなどいつ閉じてもいいのですけれど、ときどきは発言したいこともあるし、これからは「よもやまネタ」で週一度くらいの更新をめざしてなんとか維持していきたいと思います。
 
 ということで、最近のニュースから「ワサビ増量お寿司」の話題からです。自分が知っている限りでの経過ですが、大阪・難波の寿司店「市場ずし難波店」で外国人観光客に対してわさびを大量にいれた寿司を提供されたとの証言が9月末〜10月1日にかけTwitterに発信されて拡散。真偽を疑う声もありましたが、市場ずし側は2日付で事実関係を認め、謝罪したという出来事です。同店のホームページに掲載された謝罪文は以下の通り。

 「この度は弊社店舗での接客に関する内容で、インターネット各所にてお騒がせ致しましたことをお詫び申し上げます。事実関係を確認しましたところ以下の確認が取れましたのでご報告いたします」
 「すしに多くのわさびを乗せていた件ですが、こちらはそのような事実がありました。海外から来られたお客様からガリやわさびの増量の要望が非常に多いため事前確認なしにサービスとして提供したことが、わさびなどが苦手なお客様に対して不愉快な思いをさせてしまう結果となってしまいました」
 「また、従業員による民族差別的な発言に関してはそのような事実は確認できませんでしが、より多くのお客様に満足していただけるよう社員教育を一層徹底してまいります」


 これに対し、現に今年3月に韓国人男性とともにこの店を訪れ、「わさび大幅増量すし」を涙を流しながら食べたという日本人女性は次のように批判しています。

 「『外国人からのわさびの増量の要望が多いからサービスとして多く入れた』という理由は、正直、言い訳のように聞こえて、受け入れ難いです。『わさびの苦手なお客様』と記載されてますが、私も私の彼もわさびは好きです」
 「私たちが目の前にいて、水を何度も頼んだり、目に涙を滲ませながら寿司を食べていたりする姿を店員が『知らなかった』とは、言い難いと思います」
 「民族的差別の発言について、私たちは確認していません。しかし、それがなくても、今回の件は差別的な行動を取られていたと思います。それがとても悲しいです。傷ついた大部分の人は外国の方だと思います。日本語で記載されたメッセージは、誰に向けてのメッセージなのでしょうか」


 公平を期すために付け加えると、「もともとワサビが多い店だった」という証言もあるようです。自分は実際にこの店のお寿司を口にしたことはありませんのでネットやメディアの情報を頼るしかないのですが、特定の客にワサビを増量したことを事実と認めるなら「事前確認なしのサービス」というのはいかにも苦しい言い訳です。これが「民族的差別」だったと断定することも難しいとは思いますが、ネットでは「よくやった」「がんばれ市場ずし」「反日家が喜んで騒いでるだけ」なんて声も出ていてあらためてウンザリさせられます。今回の店側の行いにこうしたとことん低劣な連中のどす黒い共感を呼ぶような面があったことは間違いないのですから、本当に謝罪する気があるのなら、民族差別とは戦う明確な意思を日本語だけでなく最低限、韓国語、中国語、そして英語で明記すべきでしょう。

 加えて、実はコジローがそれ以上に気になるのは、この店の従業員たちのプロ意識です。同店のホームページには、先の謝罪文の下に「市場ずしの人気の理由」として、「新鮮な食材」「自慢の低価格」等に続けて「ベテランのすし職人」をあげており、そこに以下のような一文を掲載しています。

 「新鮮な食材をより美味しく召し上がっていただくために、当店の職人たちは知識もキャリアも十分なベテラン揃いです」

 「すし職人」のプライドは客に「美味しい寿司」を出すことに尽きるでしょう。「知識もキャリアも十分なベテラン」であればなおさらのことです。わさびの量は好みにもよるでしょうが、わさびは所詮ネタとシャリの美味しさを引き立てる脇役に過ぎません。動機は何であれ、肝心の主役の味を台無しにしてしまうほどのわさびを付けて客に出す「すし職人」のその神経が理解しがたいのです。これは寿司への冒とくであると同時に「すし職人」という仕事への著しい侮辱にほかならないではありませんか。

 こんなことが本当にあったのか、実のところ半信半疑のところもあるのですが、この店に揃っているらしい「ベテラン」こそ、もしこんなふざけた手合いが周辺にいるとすれば真っ先に鉄槌を下してほしい。プロとは、人さまに何かを提供してその代償にお金をいただく立場のことです。そのプロたちの職場で意図してお客様に瑕疵のある物を出したうえにそれを自浄することも出来ないとすれば、その職業はもう終わりだからです。・・といいつつ実は、日本全体がすでにそうなりつつあるようにも思うのですが・・



 ぼんやりしているうちにオリンピックは終わり、夏も過ぎようとしています。というのに、ブログは放ったらかしでまたトップに無断でコマーシャルが掲載されるようになってしまいました。(一カ月更新しないとCMが掲載されるのです)。
 というわけで、とりあえずまたも山の会の機関誌に連載しているコラムを転載。今回はイチョウの話です。


植物百話 8

     イチョウと失われた世界

 3年前に挑んだ森林インストラクター資格試験では、木の葉を見て樹木の名前を言えることが、森の専門家として最も基礎的な素養のひとつとされていました。そこで受験対策として、図鑑片手に近所の森や植物園に出かけては木の葉の特徴を観察し記憶するのに励んだわけですが、こんなことせずとも最初から同定できたのがイチョウでした。まあ自分に限らず、スギとヒノキの区別すらつかない素人でもイチョウの葉を間違う人はないでしょう。こんなになじみ深いイチョウですが、調べてみると色々面白いことがあります。

 まずイチョウは針葉樹の仲間か広葉樹の仲間か。「針葉」から受けるイメージはマツのように細く尖がった葉です。イチョウの葉はそんなイメージとは似ても似つかず、外観は広葉樹っぽいのですが実は針葉樹の仲間なのです。ポイントは葉脈で、広葉樹の葉脈が網状に枝分かれして葉の末端に達しているのに対し、針葉樹では葉脈が平行に並んでまっすぐ葉の末端に至ります。イチョウの葉脈は末広がりになっている点でマツなどとは異なりますが、葉脈が分枝しない点で針葉樹の仲間と同じなのです。

 そんなわけでイチョウは他の針葉樹と同じ裸子植物門に分類され、以下イチョウ綱イチョウ目イチョウ科イチョウ属と分類されてゆくのですが、実はこの分類に属するたった一種の樹木なのです。「網」という大きな分類レベルですら一種のみというのは大変なことで、世界広しといえどもイチョウには裸子植物門レベル、つまりマツやスギなんてイチョウとは似ても似つかない植物に至るまで、特徴を共有できるようなお仲間の種がないということなのですね。これに対し例えば「ヒト」は脊索動物門哺乳綱サル目ヒト科ヒト属ということで、ヒト属レベルでチンパンジー、ヒト科レベルではオランウータンなどの仲間に恵まれ、さらにサル目まで広げれば仲間に不自由はしません。こう比較してみると、イチョウという種はまるでこの地球上の生命進化からかけ離れた孤島のようです。

 どうしてイチョウだけがこんな特異な位置にあるのか。それはイチョウがかつて繁栄した種族の唯一の生き残りであり「生ける化石」と呼ぶべき植物だからです。これまでに発掘された多くの化石からイチョウの仲間が繁栄したのは中生代(2億5000万年~6500万年前)から新生代にかけての時代で、その後の氷河期に唯一現存するイチョウを残して他の仲間はすべて絶滅したと考えられています。

 厳しい氷河期が終わったとき、イチョウ一族はそのほとんどすべてが死に絶え、現在私たちが見るイチョウのみが、中国安徽(あんねい)省で細々と生き延びていました。それが日本はじめ世界各地に人為的に広げられて現在に至っているわけですが、日本名の「イチョウ」は中国語でアヒルの足を意味する「イアチァオ」に由来するといいます。これはもちろん、イチョウの葉の形からアヒルの水かきのある足を連想した名前だったのでしょう。またイチョウの実を表す日本語の「ギンナン」は「銀杏」の唐の発音「ギン・アン」が語源、いずれも生き延びた土地の言語と文化をその名前に伝えているのですね。

 さてその銀杏、私たちが食用にするのは正確には銀杏の実ではなく、実の中にある種子の堅い殻を割って得る仁という部分なのですが、あの美しいエメラルドグリーンの実(仁)のモチモチした食感は茶わん蒸しに欠かせませんし、フライパンでさっと炒めて小塩を振れば酒のアテにも絶好ということで、その季節の山行のアプローチで黄葉したイチョウを見つけると、少々到着が遅れるのも承知でメンバー全員、その後のテントでの酒宴の予感に舌なめずりしつつ銀杏拾いに精を出したことが何度もあります。しかしその際、あの強烈な匂いにはいつも閉口させられました。この悪臭は果肉となっている外皮にあり、落果して間もないときは気になりませんが、熟したりつぶれたりすると強烈な悪臭を放ちます。

イチョウは日本の街路樹で断然トップの樹種ですが、日本からこれを輸入し街路樹にしたドイツはこの悪臭に困り果て、実をつける雌株の使用を禁止したほどです。・・といった悪臭のため大概の動物はギンナンを餌には選びません。鳥類がついばみに訪れることもないし、ニホンザルやネズミほかの哺乳類も全く近づきません。最近の研究ではアライグマだけは例外的に食べるようですが、喜んで食べているのかどうか。

 さて、そもそも植物が実をつけるのは、動物にそれを報酬として与える代わりに実の中の種子も飲み込ませ、肥料となる排泄物と一緒に広く散布してもらうためです。さらに言えば、匂いはその動物を実に呼び寄せるための撒き餌だったはずです。なのにその匂いが嫌われ、肝心の実が見向きもされないようなことでは、銀杏を作るのはイチョウにとって資源の浪費というか徒労にしかならないことになってしまう。唯一例外のアライグマは北米原産で日本にも原産地の中国にもいません。では、イチョウはいったい誰を種子散布の担い手と期待して銀杏の実をつけてきたのでしょうか。

 ここからはワタクシの想像たくましく・・といった話になるのですけれど、イチョウが種子を運んでもらおうと頼りにしたのは今は亡き恐竜だったのではないか・・ 先に書いたようにイチョウ一族が繁栄したのは中生代という地質時代ですが、これをさらに詳しく分けると三畳紀、ジュラ紀、白亜紀と呼ばれる時代区分になり、これはこの地上に恐竜たちが誕生し、繁栄し、そして滅亡していった時期とぴったり一致するのです。

 この想像を裏付ける傍証もあります。動物の嗅覚の良し悪しは脳のうち嗅覚をつかさどる嗅球(きゅうきゅう)と呼ばれる脳の部位が脳全体に占める比率で測れるのですが、最近カナダの科学者たちは、恐竜のそれが現在の鳩程度に優れていることを解明しました。つまり、当時の植物にとり、匂いは種子を運んでもらう相手つまり恐竜を引き付ける有力な道具として使えたということです。

 我々には猛烈な悪臭でも、恐竜たちには得も言われぬ芳香だったのかもしれません。多くの恐竜たちのうちの一群はあの強烈な匂いに引き寄せられて銀杏を食べ、糞と一緒にイチョウ族の種子を散布してその繁栄に貢献したことでしょう。しかし、そんなイチョウの生存戦略上不可欠だったパートナーも今はもういません。ですが今日に至るまで6500万年もの間、イチョウはくる年もくる年もひたすらパートナー好みの匂いの実を作り、ただその再訪を待ち続けてきたのです。これはもう、プッチーニの蝶々夫人もテレサテン(古いか?!)が繰り返し歌った「待つ恋」も真っ青の飛びっ切りの悲恋ではありませんか。

 イチョウは別名「公孫樹」ともいいます。「公」は祖父のこと、おじいさんが植え孫の代でやっと実をつける樹という意味です。そのイチョウの種子も他の樹木同様、親の近くでは育てませんから、遠くへ運んでくれる動物がいない今は人の手で植えてもらう以外に子孫を残す手段がありません。もし山でイチョウを見かけたら、それはどんな山奥であっても間違いなく人が植えたものであり、かつてそこに人の暮らしがあったことを示しています。

 絶滅して久しい恐竜たちの時代、そして過疎からやがて崩壊した山村の暮らし、
イチョウの樹はいずれも失われた世界の記憶を内に秘めつつ、秋ごとに見事な黄金色に染まっては、無心に銀杏の実をつけているのです。